「いじめられっ子の怒りの記録(クロニクル)」クロニクル 浮遊きびなごさんの映画レビュー(感想・評価)
いじめられっ子の怒りの記録(クロニクル)
実は今年の2月頃に米国へ出張していた自分なのだが、ホテルのテレビをテキトーに切り換えてたら報道カメラみたいな視点で少年2人が空中バトルを繰り広げている映像が目に入った。
あ、え、これひょっとして……と考えている間に、少年の1人が銅像の槍に刺されて死亡。
……ええ、『クロニクル』をもうテレビで演ってたんすよね。
この頃にはもう「アメリカで低予算の超能力アクションがスマッシュヒットを飛ばした」というニュースが日本にも伝わってきていたので、僕も日本での上映を心待ちにしてたんですが……
オチ観ちゃったよ。いきなりオチの30秒観ちゃったよ。最悪だよ。
観たかった映画のオチをホテルのちっちゃいテレビでいきなり明かされた時のガッカリ度合いときたらハンパないよマジで。いやマジで。
はい、長い前置きで申し訳ない。
今回はそんなダラ下がりテンションの中で鑑賞した訳だが(爆)、やっぱり映画はオチだけじゃなくてそこに至る過程が大事よね。
ものすごく楽しんで観られましたよぃ。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』から続くいわゆるファウンドフッテージ方式に近い作りではあるが、物語にリアリティを持たせる目的でこの方式を用いたというよりは、主人公アンドリューへのシンパシーを感じさせる為の表現としての意味合いが強いのだろう。
アンドリューの手持ちカメラは彼にとって、惨めな現実を受け入れる為のクッションだ。
映画秘宝に掲載されていたてらさわホーク氏の評論を読んで思わず唸ったのだが、氏によるとこの映画、アンドリューの暴走に合わせてカメラがアンドリューから距離を置いていくように見えるのだそうだ。
詳しくは誌面を読んでいただきたいが(別に出版社の回し者じゃないっすよ)、初めはアンドリューの主観だったカメラが第三者視点へと移行し、最後には監視カメラなどの完全に他者からの冷徹な視点へ。
なんて悲しい視点移動か。
他人様の意見を書くだけなのもシャクなので(笑)、ここからは自分の意見を。
見終わった後に思い浮かんだのは「男子高校生版の『キャリー』のようだった」という考え。
映画で描かれるテレキネシスは勿論フィクションだが、アンドリューの抱えた怒りの巨大さは本物だ。
腹の底で煮えたぎっていたその怒りが爆発する様に、最後はただただ戦慄するばかり。
彼の暴走の理由。
悲惨な現実から抜け出すチケットを遂に手に入れたと思ったのに、待っていたのは何も変わらない腐った毎日。
クラスメイトは自分をコケにし続け、女の子に振り向いてもらう事はなく、家の周りにはクズのような連中しか居らず、自宅でも父の罵詈雑言は止まない。味方だった優しい母は病床で少しずつ死に近付いている。
『何をやってもこれから俺はこの惨めな人生を歩むしかないんだ』という絶望しか、彼はもう感じなかったのだろう。
それを支えてくれる友人はいた筈なのに、今まで他人から虐げられてきた時間があまりに長過ぎて、『自分が人に好かれるなんて事は所詮無理』という諦念にあまりに慣れすぎていて、親友たちが自分を案じる気持ちを信じることができなかった。
“頂点捕食者”などという馬鹿げた考えにすがらなければ、彼は自分の生きる価値を見出だせなかったのかもしれない。
ラストシーン。
親友マットはアンドリューの形見のカメラを、彼の憧れの地に残していった。
降って湧いたような力が発端だったとは言え、何かに夢中になれた日々を共有した3人はやっぱり親友だったのだと思いたい。
アンドリューが怪物となるにつれてカメラが距離を置いていくと前半で書いたが、映画の中盤ではむしろその逆であった事を思い出す。
それまで孤独だったアンドリューが、力を手にしてからは友人達と一緒のフレームに収まっている画が多くなる。
初めて空を飛んだ日の夜のシーン。「今日は人生最高の日だった」と呟くマットの言葉に聞き入るアンドリューとスティーブ。
カメラが、アンドリューの目が、ゆっくり浮き上がり、3人をひとつのフレームに捉えていく。
その時の気持ちを信じても良かったのに。
もっと人を信じても良かったのに。
どうにも切ない。
〈2013.10.18鑑賞〉