「ものすごく長い感想になってしまった」L.A. ギャング ストーリー 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ものすごく長い感想になってしまった
実在のギャング、ミッキー・コーエンを主要人物に据えた本作。
こういう映画は、「おもしろかったー」的な小並感満載の感想が正しい。
なので、以下の感想は、もの凄く野暮で意味の無いものなんだが、好きなジャンルなだけについつい長くなってしまった。
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実在のギャング、ミッキー・コーエンが好きである。若い頃、好きが高じて、コーエンの写真集なども買い集めたりもした。ギャングの写真集など、買う方も買う方だが、売る方も売る方である。どういうつもりなんだか…。
写真集は、お宅訪問よろしく、素敵な居間で寛ぐコーエン、犬と戯れるコーエンなど様々なサービスショットが満載。
でっぷりと太っていてクマさんのヌイグルミのように可愛いらしく、ギャングの親分ぽくない。
一言でいうと、お茶目なんである。
コーエン自身もノリノリで写っておりスター気取りでちょっとマヌケだ(実際そのような取材を受けている時点で、ほんとにスターだったのかもしれんが)。
普通のスター写真集と違う所は、コーエンとの抗争で死んだギャングの写真なども収められている所だろうか…。
当時の書物を読んでも、写真集を見ても、コーエンがマジなのかフザけているのか、いまひとつわからない。
私のイメージするコーエン像で一番近いのは、小林信彦氏の喜劇小説『唐獅子株式会社』に出てくるヤクザの親分だろうか(恐らくコーエンをモデルにして書いているのではないか)。
喜劇的な人物で、普段はニコニコ笑っているが、何が怒りの沸点なのか分からず、突然キレる危ない人。
それを周りには天然と思わせといて、案外しっかり根回しもする腹芸の人。
これ、あくまで私のイメージなんで正しいとは限らないが、どちらにしても不思議な人物である。
それを今回、ショーン・ペンが演じた訳だが…。
上記のイメージからすると本来だったら、ショーン・ペンではなく、彼の弟、今は亡きクリス・ペンの役どころなんである。(コーエンと同時にクリス・ペンも大好きだった私は、いつか、彼がコーエン演じないかなあと待っていた。)
ショーン・ペンも、自分向きの役では無いと分かっていたはずだ。
だから、一生懸命太ったし、お茶目な演技にも挑戦した訳である。
だけれども、真面目な人が急に冗談を言ったりすると周りには冗談だと気付かれないのと同じで、お茶目な演技に気付いて貰えなかったような気がする。顔が恐すぎたんである。
こんなタラレバ言ってもしょうがないのだが、もしクリスが生きていたら彼がコーエンを演じて、ショーンがオマラという夢のキャスティングもあったのでは…と妄想してしまう。
それでも、真面目にお茶目を演じたショーン・ペンから、クリスへの鎮魂歌を聴いたような気がして、一人涙したのだった。
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アメリカのギャング映画というジャンルであるが、
個人的偏愛も入れつつ、ものすごーく大雑把に分類すると
第一期:1930年代『暗黒街の顔役』など
トーキー初期ゆえに、会話のテンポが良いギャング映画が求められた。
アングロサクソン系が上流、イタリア系が下流という当時の移民事情もあって、イタリア系ギャングを描いた作品は下層庶民の熱狂を持って迎えられた。
第二期:1970年代以降
モノクロの第一期作品をモチーフにし、カラーに置き換えたもの。
『暗黒街の顔役』と同じ題材の、デパルマの『スカーフェイス』『アンタッチャブル』などが有名だろうか。
この時点で、第一期当時のオールドファンからは、「味が薄まった」と評されている(阿佐田哲也氏の評などが印象的だった)。
第三期:『L.A.コンフィデンシャル』
第二期の失敗作『ハメット』などへのオマージュを含みつつ、奇跡的な傑作となった。
その後、コンフィデンシャルに触発された作品が多く作られるが、興行的な成功には至っていない。
この流れを受けての本作な訳であるが…。
ギャング映画はこのように何度も焼き直されている。
今の人にとっては名作のデパルマ作品ですら、オールドファンからは「役者の顔が薄い」と不評だったりする。
過去の作品を超えるのは本当に難しく、正攻法で作っても実りは少ない。
で、本作の監督ルーベン・フライシャーは、正攻法ではなく、前作『ゾンビランド』でとった手法…ポップで、ちょっとフザけた路線を目指したのだと思う。
下手にホームランを目指さず、振り逃げで出塁した感じである。それを姑息とみる人もいるだろうが、塁にも出られない作品(企画倒れでお蔵入り)も多いジャンルなので、監督の意図も分からんでもない。モデルにしたミッキー・コーエン自体がお茶目系の人であり、狙いも悪くなかったと思う。
監督の意図を一番うまく体現していたのは、ライアン・ゴズリングであろうか。
マジなのかフザけているのか分からないギリギリな感じ…コーエンの写真集にも似た感じを、うまく演じていたと思う。
監督はゴズリングと二人でフザけた方向に突っ走りたかったのだろうが、不完全燃焼に終ってしまった。
その原因は…。
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その原因は、パーカー市警本部長演じたニック・ノルティなんである。
誰だ、ニック・ノルティをキャスティングしたのは。
『ゾンビランド』の手法でいくなら、ここは反則技のビル・マーレイ的なフザけた存在を配さなきゃダメなんである。
よりによってニック・ノルティは、「L.A.のギャング映画」というジャンルに対して、地球上の誰よりもマジな人だ。
本作の元とも言える『マルホランドフォールズ狼たちの街』にも出演している。
そして「L.A.のギャング映画」の最後の砦『ホワイトジャズ』を映画化しようと奔走したりしてる人なんである。
そんなガチでマジな人を呼んではいけなかったのだ。ガチでマジなニックは、フライシャー監督のフザけた感覚なんて簡単に捻り潰してしまう。
ニック・ノルティは少々のことでは揺るがない。
それが印象的だったのは『シン・レッド・ライン』だろうか。
『シン・レッド・ライン』は戦争映画に見せかけて、実は哲学映画だったわけだが、数多出演した俳優の中でニック・ノルティただ一人だけが、戦争映画の文脈で演じていた。
空気の読まなさ加減が凄まじい。
テレンス・マリック監督の哲学すらも、ニック・ノルティには敵わなかった。
テレンスに勝ったニックにとって、フライシャーなんてハナクソみたいなもんである。
こうして、フライシャーのフザけた路線は敗れ、ニックのガチさだけが残った。
ファンにとっては、ニック・ノルティのガチな感じを拝めただけでも良しとするべきなのかもしれない。
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上記のニック問題に比べたら、これから書くことは本当にどうでもいい話だが、あと一点だけ書いておきたい。
それは、本作を見て『アンタッチャブル』と比較した感想が多いこと。
こういう感想を持たれた時点で、やっぱり本作は失敗作だったんだなあと思う。
『アンタッチャブル』は、シカゴのイタリア系ギャングを描いたもの。
本作はL.A.のユダヤ系ギャングを描いたものである。
この2つは似て非なるモノなのに、おふざけを目指したとはいえ、その描き分けが出来てない時点でやっぱりダメだったんだなあと思った。
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「おもしろかったー」と流せばいいものの、ファンにとっては心が千々に乱れるこのジャンル、
若干残念な仕上がりになってしまった本作だが、
『ハメット』のように、いつかは何かの足しになるかも知れず、
その熟成を心しずかに待ってみようと思う次第であった。