シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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映画としては面白くないです。
真希波マキとは何者か?
この映画を見終わって一番に思ったのがこの疑問だった。
なぜ「ポッと出」のマキが最後のヒロインになったのだろうか?最後のシーンは何だったのか?
確かに活躍はした。でもどうも作品の中から浮いていて、重み(生きている感)が無い。
何でも知っていて重要キャラ感は出しているが、深く絡んだりストーリーを引っ張ったりはしない。傍観者....
でありながら、ラストではシンジを呪いから解放(コンテ世界から救出、チョーカーを解除)し、そのシンジに手を引かれて街へ飛び出していく。
唐突過ぎる。なぜだろう?何だろうこれは?
そこでふと思い至った事がある。
マリは「原作付きゲームにおける自分の操作キャラ」では?
主人公を操作するのではなく、その世界にゲストとして呼ばれた存在.....
主人公を、世界を愛し(恋愛感情ではなく)、その世界の全てを知っていて、時に活躍もするがストーリーには絡まず、エンディングまで連れていく存在。
そう考えてみると辻褄が合うと思った。
・マリは原作(TVアニメ)では登場しないキャラクターである。
・いきなり主人公と絡ませるよくあるパターン(パンを咥えて曲がり角で...的な)で登場。
・他から浮いたキャラ。キャラ設定にアンマッチな行動。(鼻歌。バトルは超絶上手い。自傷も軽く受け止める。etc.)
・裏まで設定を知っている、理解できる。(プレイヤーとしてメタ視点で世界を理解しているから)
・各キャラをそれぞれ特別な呼称で呼ぶ(ワンコくん、姫、ゲンドウくん、etc.)
・あれだけの知識、実力がありながらストーリーに驚くほど絡まない。
どれもこれも、ゲームのプレイキャラだとすれば腑に落ちる。
なぜ登場人物の殆どが知らないビーストモードを使える?プレイヤーなら隠しコマンドを知っていてもおかしくない(いざとなればチートも使える)。
戦闘シーンで鼻歌、軽口。ピンチになっても「死」の切迫感が無かったりする。
これらはプレイヤーなら納得できる。
つまり、マリはエヴァ世界を回す為に、外部から導入された装置なのだ。
立ち位置としてはゲンドウ/冬月ともシンジ達とも絡む事ができて、エヴァ世界の中核には絡まず、それでいての全てを知る事ができる存在が必要だった。
だからマキが選ばれた、というかその為に用意された。
(漫画で出てきたマリと映画の中のマリ、同一人物にしてはキャラが違い過ぎる。それはキャラ設定だけ借りた別人(プレイヤー)だから。)
ただ、プレイヤーも神(製作者)の縛りを逃れられない存在。
死にイベントでは絶対勝てない。ストーリーを変える自由は持たされていないから。
死ぬ事もできない("神"にも殺すことが出来ない。世界はプレイヤーの為に作られているから、観客のいない世界は存在できない)。
これでは結局今までと何も変わらない。結果(エヴァの負の無限ループ)を変える事は出来ない。
しかし神(製作者)はマリにもう一つの役割を与えた。それはこの世界を「外から」破壊する事。
作品とメタの狭間にいるキャラを導入する事で、この閉じた世界を抉じ開け、結果をハッピーエンドに書き換える。
作品世界からはみ出した存在であれば、作品世界の呪いから影響を受けない。エヴァの呪縛や作品内の時間経過に影響されない(リアル世界の時間軸にいるから)。
そして著作物に介入もできる!(キャラとしてではなく、メタな存在として)
特撮セットを俯瞰してみる事も。原画に介入する事も。それがリアルな人間ならば。
ラストシーンで作中キャラは電車に乗って行ってしまう。作品は残り続け、走り続ける。
でもゲームは終了し、マリは電車を降りる。
ゲームは終わってしまったけれど、マリの心の中にはその作品が残っている。愛した作品(象徴としてのシンジ)が。
そして、作品はその人の一部(リアル)になって、共に成長しながら、時に手を引いてくれたり背中を押してくれる存在になる。
それがあのラストシーンなのではないだろうか?
そう考えるとラストでシンジと手を繋ぐのは、確かにマキ(=視聴者。作品を見続けてきた我々)以外にあり得ない。
監督はみんなの為のエヴァ、みんなの中にあるそれぞれのエヴァを受け止める事ができる様になった。
そのみんなのエヴァに、みんなの為に落とし前を付けた。
だから分かり易いハッピーエンドなのだろう。(「監督の作品」ならきっとこうはならない)
にわかなので、今までの作品や細かい設定は分からない。間違いは多分にあると思う。
でもこの映画で自分が感じた事は、庵野監督から今までの全ての視聴者への感謝とエール、そして自分自身の成長とエヴァからの卒業の報告なのだと思う。
こんな考察も数多ある「全てのエヴァンゲリオン」の中のたった一つ、自分にとってのエヴァンゲリオン解釈でしか無い。
でもこの映画を見て、初めてレビューを書きたいと思った。
この作品の一部になれた事に、そして同じ様に作られたこの世界の様々なものに感謝を!
ありがとう。再見。
一回目は低評価、しかし二回目鑑賞で・・・・感動です。
鑑賞前にみんな泣いたと言ってたので初見は期待したがハテナ?も多かった。採点は3.5点だった。でも、鑑賞した人たちの感想とか考察を見て自分に気づかなかったところが沢山あったことがわかった。。それでもう一度見に行くことに決めた。そして自分でも予想外だった涙が自然とあふれてた。
こんなこと初めてだった、最初はアスカとかシンジの気持ちが消化不良だったが二回目はとてもシンジの気持ちが素直に入ってきた。アスカもレイ、ミサトさんの気持ちが痛いほど伝わった。
もしこの作品を見て納得できない人もいるかもしれないがもう一度見直してください。
自分も二回目見に行くのは躊躇したけど、これは絶対にわかるまで見ることです。
一回目でわからなかったことに凄い意味があったことに気づくと全てが融解した。
自分みたいにみんなの考察をネットで調べていくこともおすすめです。
納得できない
劇場は貸し切り状態。1日で6回以上リピート上映され、感染対策も万全で座席は1個あけて満席でも50%しか入れない。そんな対策も杞憂に終わる。一人しか入場してないのに、ディスタンスもへったくれもない。どうやら口コミの効果も無く、世間の関心から置いて行かれているようだ。
そりゃそうだろう。だって世界中がウィルスに振り回され、これ以上ないディザスターが起きているのに、アニメの世界で人類の危機なのか福音なのかよく分からないシロモノを見せられても、しょせんは作りごとにしか思えない。
今回、劇場まで足を運んだのは、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』で描かれた、この世界が展開する可能性について少し興味がわいたのと、好意的なレビューによるものだ。始まりのTVシリーズで何とも消化不良になり、のめり込んで見続けた劇場版で謎は余計に深まり、『シン・ゴジラ』にまで足を運ぶようになった身。「その落とし前をつけるにふさわしい」というようなレビューには期待をそそられた。
しかし、見事に期待を裏切られた。
ストーリーは非常にシンプルで、かつてネルフを指揮していた碇ゲンドウが目論む人類補完計画を遂行するための、フォース・インパクト発動への一連の活動と、それを阻止すべく敢然と立ち向かう葛城ミサト率いる謎の組織(もはや組織名とかバックグラウンドとかどうでもよくなってしまった)チルドレンたちは反ゲンドウの側について命がけのミッションをこなし、シンジくんは相変わらず体育座りのまま誰ともコミュニケーションがとれない。しかし、ゲンドウの息子であり、母親はエヴァの依り代でもあることから重要なキーパーソンであり、後半、人智を超えた活躍をして世界を救う。または滅ぼす。
生理的に受け付けないような気味の悪さも味わった。さらに、教室のセットの中で暴れる着ぐるみのようなエヴァンゲリオンや、色指定の原画のようなものまで見せられ、デジタルで作画されるであろう現在のアニメに昭和の時代のテイストを醸している。以前、劇場でスクリーンに客席を映して、現実への回帰をうながしたように、所詮はアニメなんですよと言いたいのだろうか。
精緻の髄を極めた画像や、印象的な音楽。もともと魅力のあったキャラクターは深みを増していたと思う。前作までは存在しなかった赤ん坊の存在は、アニメオタクの世代が子育てをするようになったことを示すのだろう。そうなると、チルドレンたちが貞操を保ち続けることに無理性が生じる。アスカが腰をよじって股間を露出してもそこに発情を伴わない無機質な記号にしか感じない。
全ての演出はそれらしく見せるための特殊な効果と言えよう。
かれこれ20年ほど続いた一連のシリーズも、これでおしまいなのか。とても納得できない。だからってこれ以上続けられても…
2021.3.22
シリーズへの愛あるラストに感謝…!
期待してた以上に「エヴァ」シリーズ愛に溢れた良いラストだった…!観終わると、「さようなら 全てのエヴァンゲリオン」って言葉の意味がわかる…。
Qを観た感じだと「この物語をどう決着させるんだ(決着するのか)!?」と思ってたけど、ちゃんと伏線も回収されていたし、それ以上に、長い時間苦悩し続けたシンジくんをはじめ、すべての登場人物たちや、エヴァンゲリオンの各機体の鎮魂歌(レクイエム)になっていたのがわかる。
かつて子どもだったシンジくんやアスカ、トウジ、ケンスケたちはちゃんと大人になった。
碇ゲンドウは自ら構想し、囚われ続けた人類補完計画から解放された。そしてミサトさんたちも。
そして、たぶん作り手の庵野秀明氏もエヴァシリーズから解放された。
現実に流れた膨大な時間。受け取り手の私たちも年齢を重ねた。
だからそれらがひたすら感慨深かった。
そしてメディアミックスで出てきた機体、ネタ、TVアニメシリーズのモチーフも随所に出てきて、まさに集大成になっていたし、長年追ってきたファンへのサービスでもあるんだろうな。
長年続いた一大コンテンツを「ちゃんと終わらせる」のってとてもとても大変なことだと思う。でもエヴァは本当に「ちゃんと」終わった。
スタッフも新旧のアニメーターやアニメ制作会社が名を連ねてて、時間とたくさんの人の手を借りてエヴァシリーズは完成した。
愛あるラストを見せてくれた庵野監督やスタッフの皆さんに、1ファンとして感謝したいし、最初のテレビシリーズから足かけ20年近くかけて、ようやくフィナーレを迎えたんだな、迎えられたんだなと思うとすごく感慨深い。
しばらく余韻に浸りたい。
「引きの美学」
タイトルなし
シンジ=ゲンドウ=監督の救済の物語?
エヴァという作品はそうとうに特殊だと思う。映画単体で評価することができない。★3つというのは、映画単体でいえばこのくらいかな、というところでつけた。
この映画のストーリーを読み解くには、アニメ版、旧劇場版を含め、監督とファンの関係など、メタ的な解釈が必要に思う。
ひとつ言えるのは、監督は常にファンのために映画を作ってきたんではないか、ということだ。監督とファンとの関係は、まるでゲンドウとシンジの関係のようだ。お互いに愛しい存在であるが、嫌ったり憎んでもいる。
ゲンドウはシンジに「大人になれ」とくり返す。旧劇場版から一貫して、監督はファンに「お前らエヴァから卒業しろ。これはアニメで虚構だ。現実を生きろ」と訴え続けている。
新劇場版の「序」「破」までは素直なストーリーで、「もしかして監督は今度こそエヴァを作品としてちゃんと完成させようとしてるのかな?」と思った。
しかし「Q」で、結局「お前らエヴァから卒業しろ」に戻ったのか…、と思った。
そして今回の「シンエヴァ」が目指したものは、「エヴァの無い世界」と「すべてのエヴァキャラの救済」だろう。
これは、従来までの「エヴァから卒業しろ」という突き放しとちょっとニュアンスが違うように思う。
エヴァがなぜこんなにも長期間ファンがつくことになったのか…。
それは、旧劇ではこの物語が終わっていなかったからなのではないか。
逆の言い方をすると、監督は旧劇でエヴァをちゃんと終わらせることができなかった。
それは、監督がシンジくんの問題を最後まで解決できなかったからだ。
監督は、ファンがエヴァから卒業できないのは、ファンが大人になれないからだ、と考えてきたのではないか。
しかし、実はそうではなく、監督自身の問題だ、と気づいた。
シンジくんの物語は、父親との確執が解決されなければ絶対に終われるはずがないのに、旧劇ではその決着がついていなかった。
「シンエヴァ」ではついに、ゲンドウ自身が自分が子供であることを認めた。
ゲンドウはシンジを認め、シンジはゲンドウを認め、監督=シンジ=ゲンドウは救われた。
「お前らエヴァから卒業しろ」ではなく、「私はエヴァから卒業する」が今回の映画だったんではないか。
映画の最後、大人になったシンジくんは実写の宇部新川駅の階段をかけあがるところで終わる。これは、シンジ=監督が大人になり、エヴァから卒業した、ということをあらわしているのだろう。
終盤のマイナス宇宙にいくあたりの超展開は、なぜか仏典を思わせるなあ、と思った。
たとえば法華経では、はじめ現実世界からはじまって、途中から虚空に舞台をうつすという超展開がおこるのだけど、それを思わせる。
最後に、順番にエヴァを消滅させていくところとか、キャラを救済していくところは、仏典の最後に仏が登場人物たちに成仏の記別を順番に与えるところを思わせる。
成仏(解脱)というのは、輪廻から解放されて、もう二度と生まれてこない、ということなので、エヴァやキャラが作品という輪廻から解放された、と考えるとしっくりくる。
すべて計算されていたのか?
みなさんいろいろ考察されているが、どれもなるほどと思う。TVシリーズをリアルタイムで見ていた者として当時の記憶がよみがえる。あの当時も考察が流行ったな。EVAの面白いのは公式がすべての解説をしないこと、それでいて微妙なバランスで物語が破綻しない。TVシリーズの時はおそらくシンEVAの構想はなかったハズ。改めてすごい作品だと思う。
自分も考察してみる
旧劇場版の最後がずっと謎だった。最後アスカの首を絞めるシーン。旧劇でシンジの魂は救われており、新劇はシンジ以外の魂を救う物語ではないでしょうか?旧劇の最後は新劇「破」の前、やり直し直前ではないか?アスカはEVAの呪縛によりシンジ同様にLCLの中でも自我があり、やり直しの邪魔になったのでは?アスカの存在を首を絞めて殺そうとしたが、できなかった。そのため魂がやり直し世界のLCLの中に取り残された。そこで新劇ではクローンとして登場したのでは?
どうでしょうか
キャッチコピーどおり、やっとエヴァが終わった
キャッチコピーどおり、ようやっとエヴァが終わったんだなという作品だった。一部謎なところは残ってるけど、いちいち考察してもしょうがないというか、謎は謎のまま残しておく(というか完璧な解はたぶん監督の中にもない)のがエヴァなんだろうと思うのでこれで終わりでいいと思った。投げっぱなテレビ版からするとちゃんとしたハッピーエンドに進化してて感慨深いし、各キャラもちゃんと救われてて、四半世紀続いたエヴァの呪縛から観客を解放してくれるいい結末だったと思う。
旧劇とかと比較すると、やっぱりゲンドウとミサトさんがかなり救済されててよかった。ゲンドウの独白はコミック版でもここまで詳細には描かれなった部分だし、息子との和解、ユイへの思いを自ら終わらせてたし、ラストはゲンドウとエヴァがまた復活することがないよう念入りにとどめ刺して成仏させてたように感じた(笑)。スターウォーズ同様ホントの主人公は父親のほうだったんだなあと思うと、もしスピンオフがあるならゲンドウとユイの出会いと離別が話の中心になりそう…。ミサトさんはQまでだと問題の元凶みたいなとこあった(笑)けど、あの世界の大人代表として立派に責任とったし最後に名誉挽回した感じ、欲を言えば生き残っててほしかった。
ラストがマリエンドというのに困惑する感想もあるけど、ラストを必ずしも恋愛関係と捉える必要はないと思う。キスシーンもなければ子供が出来てるわけでもないし、ただ仲良さそうに新しい日常に一緒に踏み出してるだけ。そもそもテレビ版・旧劇に出てこないマリの存在がループする世界から新劇の世界線へ導いたわけで、物語のメタ的な視点ではマリエンドになるのは妥当。綾波エンドやアスカエンドを望んでいるのはエヴァの呪縛から逃れられない観客だけで、アスカも昔は好きだったけど大人になってしまったと言ってるし各キャラはみんな大人になってしまって、観客だけが長い時間の中に取り残されてんだなと感じる(笑)。アスカはなんでかケンスケとくっついててもうちょっと経過とか描写がほしかったけど、ケンスケが加持さんポジションに見えたのでそこまで違和感はなかった。もやもやするところとしては綾波はアレで救済されたってことでいいんか?とかあるけどまあ一区切りはついたのでいいんじゃないだろうか。
完全に謎がスッキリ、感動の涙が止まらない!スタンディングオベーション!!って感じではないけれど、総じて四半世紀のもやもやに一定のピリオドが打たれたと思うので自分はこれでよかったと思う。監督・制作陣も観客もホントお疲れ様でした(笑)、静かに拍手を送りたい、そんな感じの映画だった。
Qよりは良い
歴史が詰まった作品でした
エヴァという呪いの終わり あースッキリした
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