シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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観れば想い出になると!
大切な人と観に行き、その人が「最高だった」「最高」と繰り返し繰り返し微笑んだので、私も幸せな気持ちになりました。レクチャーを受けてもなお、知ったかぶりであれこれ書く気にはならない、重み。スケールの巨大さ。美術面が音楽を従えて圧巻でしたし、爽やかな終わらせ方もたぶんこれでよかったのだと。
影の消滅と26年の記憶。
イギリスの偉大なロックバンドLed Zeppelinの最後のALBUMは「Coda」。Codaは音楽で楽章終結部を意味する。ドラムのジョン・ボーナムが急逝したその年にバンドは解散したが、通算9枚目となるこのスタジオアルバムが発売されたのは2年後であった。
産みの苦しみよりも終わらせる苦しみを非常に強く感じさせる作品のひとつだ。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:|」を観てLed Zeppelinの「Coda」を思い出した。物事の終わりは必ずしも美しいものでは無い。物事の終わりは必ずしも酷いものでも無い。終結が美しいものではあっても酷いものであっても、そこに至るまでの世界には満身創痍の傷だらけの痛みがあちこちに散らばっている。良いも悪いも好きも嫌いも超えて、そこには終わらざるを得ない事実が存在する。フィクションであれノンフィクションであれ、始まったものには何かしらの決着をつけなければならない。さようならエヴァンゲリオン。ありがとうエヴァンゲリオン。26年に渡り影のように私に付き纏ってきたエヴァンゲリオンは、さっき姿を消した。
アニメっていいな
卒業
私自身、中学生の時に夕方の放送でエヴァンゲリオンにハマりその後最初の劇場版の頃まで夢中になって観ていたアニメでした。その後いつの間にか興味が薄くなりあまり深くは観ていませんでした。
今回エヴァが大好きな知人と最後という事で観ましたが大変感慨深いものがありました。最後に大人になったシンジ君をみて自分もいつの間にか大人になっていたのだなぁと重ねてしまいました。(年齢的にはもちろんとっくに大人なんですが笑)
難解なストーリーはよく理解は出来ません。しかし実際は旧約聖書をモチーフにた話にあまり意味はないのかなと個人的な感想です。
1人の思春期の男の子(観ている我々)がエヴァンゲリオンを卒業して大人になる物語だったのかなぁ。周りの友人達が成長する中、中学生のままだったシンジ君が最後の最後にやっと本当の大人になった姿を見て嬉しさと少しの寂しさを覚えました。
ずっと追いかけていた人、最近初めて観た人、いろんな感じ方があると思いますが私はそう感じました。
シンプルに良かった
エヴァという一つのシリーズがようやく終わりを迎えられた。自分はエヴァQの上映後からすべてを追って見てみたが、自分の印象として、旧劇場版は物語というよりかは芸術作品だった。それに対し、今回は物語としてしっかり終わらせただけでなく、色んな人をエヴァの呪縛から開放させた気がする。ガチな考察組は、様々な伏線からTVシリーズ、旧劇場版とのつながりや、裏の設定の部分までこれから尽きることの無い議論を進めていくのだろうが、一つだけ言いたい。
2号機の中に現れたオリジナルアスカは惣流ではないと個人的には推して行きたい。(異論は認める)
まあ、自分はアヤナミストなので、ポカ波が出てくれただけでもありがたい。
庵野監督、エヴァ制作スタッフの皆様、長い間お疲れさまでした。
ありがとう、全てのエヴァンゲリオン
待った甲斐があったなぁ。しみじみ。
いろんな思いが混みあげて、胸がいっぱいでした。
またアニメ版から、見返そうと思います。
ここに立ち会えたことに感謝しかありません。
さよなら、エヴァンゲリオン
良かった。理解が追いついてない部分もあるけど、3時間あっという間の時間だった。
庵野秀明さんのプロフェッショナルを見ていた人はのり楽しめたんじゃないか(プロフェッショナルが作品をみて、関係のあるスタジオのシーンとかを意図的に残した?)。最後のシーンはスタジオにいるシンジ君自体、庵野さんと被せているように感じられ、そのシンジくんまでも救った終わりは、ある意味今の世の中に対して希望を残し、自分自身を救ったように思えた。
内容全体としてもプロフェッショナルで言っていたように、今までと違いかなり丁寧に説明が繰り返されていた。また、戦闘シーンをはじめ、カット1つ1つ作り込まれてて、アートにかんじられるレベル。カット1つでシンジくんの感情表現を伝わるトンネルの絵のような繊細な表現をし、戦闘シーンのカットでは360度かつ、距離感を含めた動きを多彩に扱うことで全く飽きることのない展開の早さを楽しめた。
ポスターが途中から全員が映った絵に変わったのはネオンジェネシスで、映画で表現しきれなかった全員が元気でやってることを表現したかったからかな。
ここからは自分の記憶の為にメモ。
・ファーストインパクト
白い月の衝突。地球のはじまり。
・セカンドインパクト
南極で発見されたアダムを卵状態まで還元させる(葛城父)。これによりアダムは胎児化、肉体がなくなることで爆発。ただし胎児化した為、アダム系の増殖阻止に成功。海の浄化を目的とした。
・ニアサードインパクト
初号機の覚醒。シンジがレイを取り戻す為に使徒のコアに干渉した為に発生。カオル君がカシウスの槍で強制停止。ほとんどの人類はここで死んだ。人類のインフィニティ化が一部発生。
・サードインパクト
ゲンドウが、自立式マーク6自らとリリスををロンギヌスの槍で刺すことで起こし、カジさんとマリ?が止めたカシウスの槍を貫くことで止めたインパクト。大地の浄化が目的。インフィニティ化を止める為にリリスの首を落とす。
・Qの最後
13号機でリリスと6号機に刺さっているカシウスとロンギヌスの槍を回収しにいくが、ロンギヌス2本になっており、これにより13号機は覚醒、また12使徒が生き残って13号機に侵食した為にカオルが13番目の使徒に落とされる。カオルが自殺することでインパクトにならず。
・フォースインパクト
ゲンドウがアスカを生贄に、覚醒した13号機をトリガーにセカンドインパクトの地獄の門を開いた。条件としては覚醒した13号機と、生贄の使徒、黒き月の復活、アダムスの器4つ(マーク9-12)。器は進化系エヴァで、中身の魂用に作られたのがアドバンスト綾波シリーズ。魂の浄化が目的。
・アディショナルインパクト
この為に槍2本を温存。マイナス宇宙のゴルゴタオブジェクトで起こしたが、ミサトがヴンダーでガイウスの槍を届け、インパクトはシンジが引き継ぐ。目的は世界の書き換え。条件は裏宇宙にあるゴルゴタオブジェクトに行く、エヴァンゲリオンイマジナリーを槍で刺す、槍はトリガーと生贄に2本必要。裏宇宙に行く条件が、使徒化された状態で覚醒したエヴァに乗ること?人を捨てたゲンドウ、覚醒した13号機、覚醒した初号機、使徒化されたシンジ、マリとオーバーラッピングされた8号機、アダムスの器プラスフォーインワン状態。
・それぞれの目的
ゼーレの目的は1つの肉体に1つの魂を集めるのが目的。それに対して、ゲンドウはユイと会う為、初号機に全ての魂を集める為、初号機を主にインパクトを起こす必要があり、その為に神になる(神殺し)をする必要があった。ゼーレとリリスとの契約は、アダムとリリス以外の使徒10体の殲滅。
・流れと感想と推測
最初の平和な日常シーンは、確かに何もかもを失った時に、人は助け合い感謝できる未来を作れるのかも。というよりそういう希望を持ちたい想いを感じた。確かにQで終わらせない必要性があったと感じれた。
ナギサくんのループ的な要素も疑問としては残った。ナギサとカジさんが上司部下だったのはゼーレだったから?でも、ゼーレの人を捨てたと言われながらゲンドウに死を告げられるシーンと噛み合わない気がする。
アスカが生贄になったのは、新しい使徒として認定された人種を生贄にする必要があったから?
解説を読んで確かに浜辺の絵コンテシーンはコア化が進んでいて、マリが来ることで現実に戻った。マリの存在は、庵野さんにとってはマリアとして、世界においては復活の証人としてのマグダラのマリアという意味だったのか。イスカリオテのマリアというのは聖書には出てこないらしい。イスカリオテのマティアはあるらしく、それもユダの後任の復活の証人として新たに使徒に入ったものだった。マリも年をとってないから使徒としてカウントされる?
ネオンジェネシスでマリとシンジだけが記憶が残って2人で旅立った。恋人とみる人もいるが、自分としてはシンジくんの母親であり、庵野秀明と安野モヨコさんに思えた。
髪が伸びたレイは、感情を手に入れ人間になった正面なんだろうな。
アスカもシンジも、結果的にはそれぞれ使徒化されていたことで、それぞれ使徒にカウントされる?11番目の使徒。
マイナス宇宙はLCLで満たされた記憶の世界。撮影スタジオのシーンが出てきたのは、世界の書き換えの途中で、アニメの世界観の書き換えをスタジオに見せていくのは面白いカットだと思った。
アスカが新2号機で最後にシングルエントリープラグじゃなかったことを驚いていたが、誰が乗っていた?アスカのクローン?オリジナル?
アスカは、式波がクローンであったことが今回で発覚したが、最後浜辺にいたのはオリジナルの惣流だったんだろう。赤いスーツが前のバージョンだったらしい。
いやー安心した(笑)
いやー安心した。これがシンエヴァンゲリヲンを見た率直な感想である。
エヴァとは深夜の再放送と97年の旧劇場版からの付き合いである。
設定の詳細や深掘りは私より鋭く洞察されている方がいらっしゃる。私は1995年から26年間、エヴァンゲリヲンにどういった感情で接して来たか書いてみたい。
まず95年のアニメ版。
95年、当時のテレビ東京は18:00代に結構際どいアニメをやっていた。女性の裸体を強調した容姿や内容もグロ、残酷なものが多かった。(もしよかったら爆裂ハンターやブルーシードを画像検索してほしい)
まだアニメは子供が見るもので夕方の時間帯を与えられていた。しかし内容は完全にアダルト向け、当時はOVAという文化の始まりでアニメ媒体でハードなものを作れる人々が夕方の地上波の時間を与えられているような感じだった。
そんな時に始まったのがエヴァンゲリオン。女性の裸体のようなプラグスーツやグロ描写もこの時間帯だから生まれたものかなと思う。
アニメ版のラストは訳が分からなかった。ラスト前から物語の謎に置いてけぼりで全然ついていけなくなっていた。
「これどんな話だったんだろう?」それが素直な気持ちだった。
そして旧劇場版。
なんとなく凄いものを見た感想はあるのだが、意味が分からなかった。なんとなく恥ずかしい気持ちにもなった。
キャラクターが当然のように知らないことをしゃべり、なんとく救われていないことは分かった。
アニメ版を録画したVHSを貸してエヴァに引き込み、一緒に旧劇を見に行った友達とあれこれ話したが、何だったんだろうなぁ…というモヤモヤした感じで終わった。
それから10年。庵野さんがもう一度エヴァをやるという。序、破、Qいずれも旧劇を見に行った友達と行った。
旧劇で中1、序で大学4年、破で社会人と大学院生、Qでお互い社会人になっていた。エヴァは社会的立場が変わりながら鑑賞してきた。
とうとうお互いに世帯を持って子供も出来た。
そんな友達と一緒にエヴァの最後を見届けた。
エヴァンゲリヲンが終わるにはシンジ君がまた明日も生きていこう、と前向きになるしか物語を終われないと思っていた。
そしてちゃんとそうして終わってくれた。
細かい設定や裏で起きている事象はもう良い。俺には追えない。
シンジ君が前を向けたラストだったことが嬉しかった。
私はエヴァンゲリオンは「巨人の破壊」を描写するための作品としてスタートしたと思っている。まず撮りたい画があってストーリーはその理由づけでしかない。
その中で出てくる登場人物、特に女性は庵野さんの人生で出会ってきた人を当てはめたように映った。
綾波レイは母、葛城ミサトは仕事に生きる女性、アスカは接点が無かった美人でギャルなクラスメート。
誰も男として自分を受け入れてくれる存在では無い。だから旧劇でいくら女性に救いを求めても拒絶され続けたのだろうと思う。
アニメ、旧劇では男にとって彼女や嫁さんに当たる女性が居なかった。
だからマリが登場したとき俺には安野モヨコにしか見えなかった。彼女だけがシンジの隣に居ようとし続けたキャラだったから。
本作、何度もシンジの口から「決着を着ける」や「終わらせる」という言葉が出る。それは、エヴァに乗る=アニメを作るという庵野さんの本音だと思うし、それはやりきったと思う。
撮りたい描写の理由付けでしか無かったキャラクターを救うことでエヴァンゲリヲンを終わらせたのだと思う。
こっちも大人になったからかトウジ、ケンスケ、ヒカリは良かったなー笑
皆んな立派になっていた。特にケンスケ。私はアニメ版からケンスケが好きで(アイツはシンジが家出した時も付き合ってくれたし、アニメ版で唯一良い奴だった)シンジ達を同級生ではなく大人にとして受け入れていた。
そう、シンジ、アスカ、レイはもうずっと子供だ。周りは成長しているのに26年間歳を取れなかった奴らが大人になる話だった。
シンエヴァンゲリヲンには子供、新生児、妊婦が出てくる。エヴァンゲリヲンが今まで見ようとしなかったものだ。私はエヴァンゲリヲンには内臓が無いように映っていた。設定上はあるのだが生物が生きていくための捕食、排泄、性行為といったものに対する嫌悪感がビジュアルに出ている。
だけど今回の映画では人間が生命を紡ぐシステムの描写、そしてその先にある人々の繋がりを肯定できるようになっていた。
だから全てのキャラクターを救うことが出来たのだと思う。
ブンダーの連中もQで見た時、なんだコイツらと思った(特にピンク髪)が、皆んなに見せ場があり好きになった(ピンク髪は言ってることもやってることも至極当然、そりゃそうだと思う。一番感情移入できた笑)
ラストはシンジが自分の意思でエヴァに乗り、父と対峙するというこれ以外エヴァを終わらせる方法が無いというシチュエーションにきちんと向き合った。
旧劇になかったゲンドウの心情吐露、これがエヴァを終わらせる槍だったと思う。
シンジは破の辺りから逞しい奴になっていたが、今回ちゃんと自分で立ち直れた。
その方法が三番目の綾波との会話。これも良かった。二番目と三番目を区別してそれぞれを救ってくれた。
そしてアスカ。
彼女はエヴァンゲリオンからずーっと不憫だった。それはアスカが男から見た繋がれない女の象徴だからだと思う。嫁さんを貰った男にとって、他の女はどうでも良くなる。だからクローンだったのかなと思った。
そんなアスカも帰る場所を見つけた。それを受け入れるケンスケ。(オマエいいポジション着いたなー笑)
全部を救ったシンジ君は大人になった。そして伴侶と歩き出す。これ以外ないラストだった。本当に良かった。
一点だけ!最後に残酷な天使のテーゼ流れてたら号泣してた笑
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【追記・鑑賞から時間が経った後の感想】
エヴァンゲリオンはなぜ終わったか
庵野監督はなんでエヴァンゲリオンをこういう終わり方にしたんだろう。
NHK プロフェッショナル仕事の流儀の終盤、安野モヨコさん(マリ)によく出来ましたと褒められる庵野監督が映る。
普通に見れば良い作品を作ったね、よく頑張ったね、という労いに観れるのだが私は安野モヨコさんが「(沢山の選択肢から)よくこのラストを選択したね」ということを褒めてるんじゃないかなと感じた。
なんというかサービス、サービスし過ぎなのだ、シンエヴァンゲリオンは。
シンエヴァで言っていることは旧劇と同じだ。ただ、それを映像表現としてダウナーに見せるかアッパーに見せるかの違いで。
庵野監督の実力からしたら観客を満足させて帰すことなんて簡単だ。それをしたくないからエヴァを作ってたんじゃないのか?なぜ、庵野監督はエヴァをこんなに綺麗に終わらせたんだろう。
それは庵野監督自身がウルトラマンを作れることになったからだと思う。もうエヴァに足を引っ張られたくないから観客を満足させて映画館から帰したんじゃないか。
元々、ウルトラマン(神)の代わりに作ったのがエヴァンゲリオン(神に似せて作ったもの)だ。
私は庵野監督がエヴァンゲリオンへの執着が無くなったんだと思う。だからこそ終わらせることが出来た。
この映画に会えた、ありがとう
エヴァンゲリオンをきちんと見始めたのは映画が始まってからのことです。
新劇三部作を見て、ああ人間味あるアニメだなぁと、どこか感情移入してしまう部分に惹かれていきました。
そして何度も見返すうちに、終劇は映画館に行かなければならないと思うようになりました。
“ありがとう”
私はこの瞬間に立ち会えたお礼を伝えたいです。
まだエヴァンゲリオンの世界観を把握しきれていませんし、全作品を見たわけではありません。
ですが、この作品が言いたいことは分かる気がします。
いつのまにか忘れてた大切なことを思い出しました。
むしろ教えられたのかもしれません。
あなたのおかげで私はまた始まりを迎えられそうです。
ありがとう、エヴァンゲリオン
ありがとう、庵野さん
ありがとう、関係者のみなさま
あっという間の約2時間30分
私は、残念ながら、公開初日から見に行くことは出来ませんでしたが、すぐに見に行くことが出来ました。ちょうど、公開日が発表される日に私は、エヴァンゲリオン、ほんとに終るのかな、ということを友人と話していました。なんせ、エヴァンゲリオン新劇場版Qから、どうなるのかと考えても分からなかったからです。また、アニメ作品は、100分から120分の作品が多く、新劇場版シリーズは100分の作品が多かったので、100分でどう終わるのか、余計分かりませんでした。
いざ、劇場に行って見に行ってみると、ストーリーはとても、入りやすかったですが中盤に入っていくと、どうなるのか、どうなるのかと、ハラハラしながら見ていました。また、これまで見たアニメと違い、とても、色がきれいで見たことのないような、シーンがいろいろとあったので、手汗が出来るほど、作品に集中していました。
終わり方はあまりよく分からない終わり方だろうな、と思いましたが、ほんとうに終わったな~という印象でした。一回だけではあまり分からないシーンもいろいろとありましたが、そこは考察して、もう一回見たりしようと思いました。
最後に、エヴァンゲリオンは人間の生き方などを教えてくれるような作品だと私は思います。
庵野秀明監督に、本当に感謝です!
中身がない長い映画
25年経っても、相変わらず下半身丸出し
25年前に始まった作品だ。
見る側も何度も体験を積み重ね、同作に影響を受けた作品も数多く生まれている。ギリギリまで見る側の理解を阻害して惹きつける造りは同作ならではの魅力だが、その世界観にもはや新鮮味はない。独特な表現技法も、同作自身が付けてきた手垢にまみれている。
しかしこの作品が最後にぶち込んできたのは、監督自身のまるで衰えない衝動と作家性。私小説的な丸裸のパーソナリティだった。これが極めて鮮烈で衝撃的。
特に『シン・ゴジラ』に明らかなように、この監督は器用で上手い。しかしエヴァンゲリオンという作品においては、常に監督自身のパーソナルな部分を、混沌とした物語に乗せることを重視してきたように思える。
しかし25年も経っているのである。そこで私達は驚かされる。「こいつ、まだこんなに吐き出したいことが残っているのか……」と。そして庵野秀明は知っているのである。自分の下半身を晒すが如くのパーソナリティを作品にする術と、その商品性の高さを。
小学生の農業体験のような人々との触れ合い、自治体のCMのようなだっさい終わり方、マリへの偏愛、ゲンドウとユイのタイタニック、わざとらしいタイトル回収など、本当にこれでいいのか?という点も多い(シャンプーのCMみたいな、マリの海辺のシーンはなんなん?)。ゲンドウの独白だって、ラジオの人生相談にも採用されないほど、凡庸でつまらない悩みだ。
もう途中から「何を見せられてるんだろう」と笑けてくるのである。こんなでかい画面とでかい音で、「オタクおじさんの割礼」を見せられても、こっちはあなたの友達でもなければ、懺悔室の牧師でもない。知ったこっちゃないのである。
しかし、そんな訳の分からない作家性と人間性が迫り来る状況に震えてしまう。監督の剥き出しのパーソナリティに、嬉々として興奮してしまう。他では得難い映画体験だ。
ついに…完結。
二十数年間、錯綜し混沌としてきたこの物語が遂に完結した。
こうして終わるのかぁと云う満足感や、あぁ良かったなぁと思える安堵感、そして「そんな事がしたくて、長々と回りくどく且つ自分勝手な事をしてきたの?!」と云うゲンドウへのツッコミ等々…w、最後の「終劇」の文字を観ながら、胸に迫る想いは複雑だった。
一言や二言程度では、何人もこの作品の感想を語り尽くせないだろう。それぐらいの重さ、と云うか物語の濃密さがこの映画には確実に有る。それは、「庵野秀明の完璧主義や細部への異常な拘り」と云う表層的な意味(嫌味)では無く、緻密に練り上げられた脚本や、芸術の域に近い描写に有る事だけは強調しておきたい。
そして、二十数年、ここまで私達を楽しませ(苛立たせw?)、振り回してくださった庵野監督と、私達以上に彼に振り回されたスタッフの皆さんに、心からの感謝を申し上げたい。
まだ御覧に成っていない方々には「とにかく劇場へ足を運んで、御自分の眼で確かめて頂きたい」とだけ、お伝えしておく。
バンザイ!としか言いようがない。以上。
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