シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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外されてしまったアンビリカルケーブルと、断ち切れないアスカへの思い
●映画を観てよかった
リアルタイムでアニメを視聴し、第1話を観た時の「新しい何かすごいのが来た!」という感覚は、今でも忘れられません。そして旧劇を劇場で観て、どえらいインパクトをたたきつけられたのが小学生の5、6年の時でした。そんな自分はエヴァと言えばアニメと旧劇で完結している人間でした。
なので新劇は、細かい設定が変わっているし、新キャラクターもいるしなんだかなと思って今まで避けてきました。しかしこの度、シンエヴァンゲリオンでついに完結するとのことで、「そういえばエヴァ好きだったし、完結は見届けなくちゃ」と思い直し、一連の作品を視聴しついに新たな完結に追いつくことができました。
結論から書くとシンエヴァンゲリオンは、一連のキャラクター達の救済と新たな門出を祝う良い作品だったと思います。そういう意味でも全体的に優しく前向きな印象を受けて観て良かったなと感じます。なによりこうして感想や考察を書きたくなるという点で、エヴァの世界観のすごさを改めて感じさせられます。
●新劇の世界観について
新劇の最高潮は「破」でした。アスカを3号機に乗せたところで、そうくるか~と思い、トウジは悲劇から救われ、アスカは旧劇での悲劇が前倒しにされました。そして最強の使徒はレイを取り込み巨大なレイになり、シンジはレイを救うために初号機を覚醒させる。旧劇のラストが再現されたことにより、旧劇のさらにその先をこの後描いてくれるのかと自分の気持ちは最高に盛り上がりました。
ところが「Q」で14年もの月日が経ち、ヴンダーが飛行しているのを観て、世界観が大きく変わってしまったとわかりショックでした。自分が好きだったリアリティが失われてしまったのです。人知を越えた力を持つエヴァを運用するためには巨大な施設や人員が必要です。なによりアンビリカルケーブルというへその緒、または足かせなしには3分しか動けない。といった弱点や制約がアニメにリアリティを与えるのだと思います。旧劇で2号機がアンビリカルケーブルを切断された後に、量産機と死闘を繰り広げる緊張感は凄まじいものでした。
それがQ以降のエヴァたちは、パイロットがみな使徒化していることもあるからなのか、アンビリカルケーブルなしに自由に動き回ります。それはまさしくアンビリカルケーブルという名の緊張の糸が切れてしまったようにも感じました。エヴァを動力とするヴンダーや、L結界を除去するシステムなどは、日本中の電力を使ったヤシマ作戦のリアリティからはほど遠く、ヴィレのメンバーもどこか別のアニメから連れてきたような人たちで、いわゆるアニメ的になってしまったのが残念な点でした。
サードインパクトが世界規模で起きたなら、旧劇のネルフ本部壊滅以上の悲劇があったと思いますし、第三村でもシンジのことを知っている、あるいは恨んでいる人がいて襲撃にあうぐらいがリアルな展開だと思います。しかし一貫して旧劇のような悲惨なシーンを出さないのは時代に合わせた演出なのかもしれません。むしろ今の年齢になって旧劇のような演出をされたら辛さに耐えられなかったと思います。事実、レイがLCLになるシーンでかなりドキッとした自分がいました。
●アスカについて
そんな自分は特にレイ派、アスカ派、マリ派でもなかったのですが、アスカ派の人が嘆いているのを知って、いやいやそんなことはないよと考察しているうちに、自分はこんなにもアスカ派だったのかと新たな発見があり驚かされました。そもそもシンエヴァンゲリオンはアスカへの思いをより一層強くする映画と言ってよいでしょう。以下はアスカ、シンジ、マリに対する考察です。
映画内でアスカがあたかもケンスケと親密そうに振る舞うのは、全てシンジへのあてつけで、やきもち妬かせたいからです。アスカは14年間も眠っていない。つまり14歳の少女のまま、シンジのことが好きである気持ちをそのまま持ち続けています。ケンスケはアスカが求めた父親の投影で、シンジにはレイ(母)が必要だったのと同じ構造。第三村を去るアスカの姿を撮影するケンスケは、娘をカメラで撮る父、ちびまる子ちゃんでいう、たまちゃんのお父さんそのものです。
マリは冬月先生以外にはアスカやシンジとの絡みばかりで、常に浮いた存在に感じました。それは新劇を終わらせるための進行役で、映画ポスターでマリだけが靴を脱いでいるのは、逸脱したトリックスターである暗示だと思います。同時にマリはシンジとアスカの間に立っているのが意味ありげです。そんなマリが「姫」と呼ぶのはアスカ。アスカは最後の出撃の時、「昔は好きだった、私が先に大人になった」と言います。素直ではないアスカの真意は「今でもかわらず好き」です。不器用ながらも気持ちを伝えたことで、最後の戦で命を賭けることができました。
アスカは思いを伝えますが、バカシンジはそれを言葉通りとって「僕もアスカが好きだった。ケンケンによろしく」といって送りだしてしまいます。その瞬間、マリが「姫、お達者で」と言うのはあきらかに皮肉。素直に気持ちを伝えないからだと言っているわけです。結果、アスカのプラグは第三村に到着しますが、そこには誰の姿も描かれていません。
●ラストシーン
正直自分は見逃していましたが、ホームにはアスカが一人でゲームをしていたといいます。つまり孤独を抱えたアスカのままです。素直じゃない「姫」の気持ちを見透かしているマリは、わざとシンジにくっつき「私がとっちゃうぞ」とアスカにけしかけます。これは最初に書いたシンジにヤキモチを妬かせたかったアスカと同じ行動です。家出したシンジを尾行していたアスカなら、記憶があるかないかは定かではありませんが、衝動的に後を追いかけるのは想像に難くありません。その意味でマリは二人の仲をとりもつ恋のキューピッドあるいは、仲をこじらせる小悪魔なのかもしれません。
旧劇ではあまりに不器用に気持ちを伝えたシンジですが、新劇ではレイのおかげで素直に気持ちを伝えることの大切さを学んだと思います。この先、二人の関係が進展するのか、ずっとお互いヤキモキしていくことが幸せであるのかは、我々にゆだねられたのだと思います。
テレビ版のラストで、エヴァの世界には想像の余地が最大限に提示されました。その意味では新劇も一つの可能性に過ぎないのかもしれません。しかし長年にわたり楽しめるエヴァシリーズの制作に尽力してこられた監督、スタッフ、全ての方々に感謝しかありません。
長文失礼いたしました。
これは映画なの?
観た後の放心状態と興奮が
すごくてしばらくというか
3日間くらい冷めなかった
エヴァってこんなにすごいんですね
それくらい自分の中では
すごいものを見てしまった感覚
こんな気持ちになった映画は初めてだし、
後にも先にも現れない気がする
漫画だけ観ててアニメは観てなかったけど
ラストにかけての畳み掛け?は
めちゃくちゃ感動しました
そこも回収してくれるんだ、、と
表現として観たことないものが沢山あり、
これでエヴァが終わるということが
伝わってきます
演出はエヴァらしく、他では絶対に観れません
また一つ一つは意味が分からなくどんどん
進んでいってしまいますが、
その混沌がエヴァの精神世界っぽく、
分からないのに
前に進みなよ、人を大事にするんだよ
というメッセージが伝わってきました
感動しすぎてしばらくは呪縛から
抜けられなさそうです、、
そしてシンジくん、おめでとう!!
本当に良かったね、、
母のような目線で応援していました
庵野監督にも拍手を送ります
この映画を作って頂きありがとうございました
沢山の人がこの映画に影響され、気持ちを
めちゃくちゃにされ、感動させると思います
よかった
みんな苦悩を乗り越えて大人になりましたね。
泣いて救えるのは自分だけだって言うシンジくんの言葉が刺さりました。辛い時は泣いちゃうけどね。
まごころを君にと比べるとやはりそれぞれの人物に注目し、後味の良い終結になったのではないでしょうか。
まごころは刺激的過ぎて色んな意味で置いてけぼり食らったけど、シンは鑑賞者に少し優しくしてくれた気がする(ありがとう庵野さん)
でもリアルとアニメーションが混在されてる表現は踏襲されてたね。
それにしてもゲンドウ君ユイにゾッコン過ぎん??ホントに人類巻き込み過ぎよ?ナルトのオビトとか、他に思い当たる奴いるけどね。でもそういうとことん不器用頑固一途なキャラ好き。
シンジ君も父ちゃんに似てマジでウジウジタイム長かった。終盤でいきなり大人になった表情見てビックリしたわ、違和感あり過ぎて夢かなって思った(思春期の鑑)
アスカもレイもマリもよく頑張ったね…やはり女性ツヨシ。アナザーインパクト含め数年分の女体を見た気がする。
取り敢えず長々書いたけど個人的にはいいラストでした。
「卒業であり、新たなる門出」
◎我々一人ひとりがエヴァンゲリオン
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。
14歳の少年が放ったその言葉は、どこまでも清々しかった。
TVアニメが始まって25年。
新劇場版が公開されて14年。
そんな長い年月、社会現象を巻き起こしたエヴァンゲリオンというひとつのコンテンツに遂に終止符が打たれた。
このご時世、2度の公開延期を経て公開された今作は、、
そう、言うなれば
「パターン青、傑作です!」
全てのエヴァファン、そして大人になりきれない人達、そして、生命ある生きとし生けるものへの、アンサー映画であり、庵野監督がエヴァの呪縛からようやっと解放される特別な一本。
この映画を観終わって、凄く感じたのは
“我々人間一人ひとりが、エヴァンゲリオンだ”
ということ。
何を訳分からんことを仰って、と思うだろうが
要は、自己理解・自己確立といったところか。
私というエヴァンゲリオンには、私しか乗れない。
私の身体を動かせるのは、他の誰でもない、私だけ。
だからこそ、自分の道は自分で決めるべきだし、そのリスク・責任は当然自分で負うもの。
じゃないと、みんなエヴァでいう所のインフィニティのなり損ないになってしまう。
あなたは、何者でもないあなた。
流されるだけの自我無きモブ人間になってくれるな。
そんなことを言われてる気がした。
◎終焉で解放で。
庵野秀明が生み出したエヴァンゲリオンという作品は、瞬く間に人気を博し、そしてそれはのちに一つのビッグアイコンと化し、庵野秀明と言えば、誰もが口をそろえてエヴァンゲリオンというのが当たり前であり、絶対になっていた。しかしそれは、人気と同時に彼自身を苦しめる”呪縛”という形に変わっていった。
そんな自身の命を削りながら作り上げられた今作は、言うなれば全ての終焉と解放。
シリーズ通して感じるのは、14歳の主人公・碇シンジは庵野監督自身なんだろうということ。大人になり損ねた人庵野秀明と大人になることを拒む碇シンジは、まさにシンクロ率100%
だからこそ、シンジの父親であるゲンドウとも自然とシンクロする。
そんな碇シンジが、今作でようやっとH2Oの思い出がいっぱいのように、大人の階段に足を踏み出す。
彼が色んなことにピリオドを打つ姿は、庵野自身が呪縛という名の絡まった糸を一つ一つほどいていくようにも感じた。
そして鑑賞後には、絡まるものなど一切無く、清々しさまで覚えるほどだった。
どのシーンで止めてもWindowsの壁紙のように絵になるくらい、一瞬一瞬一コマ一コマにまでこだわってるビジュアルもさすがスタジオカラーだし、シンクロ率無限の宇多田ヒカルの主題歌も最高だし、いやーー、庵野監督、本当にお疲れ様でした。そして、また頑張ってください。
エヴァの呪縛とは、選ばれし運命の子供たちとは、謎は謎のままだが計画は阻止されたか…のか?
見事に完結。
公約どおり全てのエヴァを掃討した。
そして、イジケ少年は父親との直接対決によって遂にその成長を認めさせ、青年となった。神木隆之介というサプライズ(自分は知らなかった)まで。
…ああ、この最後の最後に青年碇シンジの姿を示すために、今まで長いイジイジ期間があったのかと、自分の洞察力の低さを痛感した。
父と息子の決戦から終劇までに見せる映像が、かつてテレビシリーズや旧劇場版では早すぎて不完全燃焼だったものを洗い替えて見せたかのようだ。
アニメーション表現の追求においても、そのベクトルにブレはなかったのだと感心しきり。
アスカの徹底的なスケベアングルや、レイ(そっくりさん)の無垢な少女演出などに見られる“オタクぶり”も同様だ。
マイナス宇宙だか何だかはつまりインナースペースだったのか、精神(魂?)世界で展開する対話による親子対決は宗教的だ。
スターチャイルドばりの巨大綾波ユイを見ると、やはり『2001年宇宙の旅』の影響はあると思う。
碇ゲンドウと冬月は綾波ユイを取り巻く三角関係だったのか、ユイを求める探求道は狂気的だ。ユイが神(のような存在)だったと明かされたが、ゲンドウと冬月がいかにして人あらざるものに変異したのか、ユイの子供であるシンジは結局何者だったのか…と、物語は混沌と混乱のまま大団円を向かえた気がする。
結局、謎解きのキーはばらまかれたが、それぞれの鍵穴を探すのは観客の宿題となった。自分はコアなファンではないので模範解答を示せないが、様々な人たちが模範解答を出し合う楽しさは、優れた「物語」の醍醐味でもある。
一見さんに気を遣うことなくマニアックなコアファンの想像をも越えている(コアじゃない自分が言って良いことではないが、多分、きっと、そうでしょ…)のは、正直アッパレだ。
少年シンジに惚れていたレイとアスカが同じような複製だったとすると、レイがそうであったようにアスカもシンジに惹かれるようにプログラミングされていたのだろうか?
エンディングシークエンスで、青年シンジが手をとったマリは大人だった。
この作品が、大成功をおさめた『シン・ゴジラ』と鋭意制作中の『シン・ウルトラマン』に挟まれていることにも意味があるだろう。
アニメーションの枠を越え、実写特撮を凌駕する驚愕のカメラワークと流麗な動作の迫力と美しさは、シリーズ集大成として燦然と映画史に足跡を刻むだろう。
ゴジラシリーズやウルトラマンシリーズへのオマージュも散りばめられていた。
個人的なことだが、アスカたちが戦いながら叫んでいる台詞、特にアバンタイトルのパリ上空でのバトルシーンなどで、何を叫んでいるのかさっぱり解らなかった。歳のせいにしたくはないが、動体視力ならぬ“動音聴力”が衰えているのだろう。
『シン・仮面ライダー』が楽しみ!
良かった!ちゃんと終ってくれて
キャラクターは期待通りでした
ストーリーを軸としてみるか、キャラクターを描き切る作品としてみるかで見方や評価は分かれる。
視聴後ストーリーが物足りなく感じるのは、少なくとも本作はキャラクターを丁寧になぞった作品だからかな。それだけ見る側もキャラクターの理解が深まっているのだろう。
サードインパクト後の村の世界と、シンジの長い塞ぎ込みは、各キャラクターを描く為の単なる舞台装置に感じてしまった。
綾波が人の生活や人間の暖かさにに触れていくシーンは良かった。何もない部屋で無感情に暮らす綾波も、人の優しさに触れ自然に微笑む綾波も、周りの環境が違うと、きっとこういう子になるだろうと。紛れもなく綾波として受け入れられた。少しの間だけど、人間の暖かさに触れ、心としては報われて良かった。
アスカは、ウンダーに乗ってた時とは打って変わり、正面きっての過激なツンデレぶりが復活。シンジの反応の悪さや、良いところを綾波に持ってかれる報われなさも久しぶりだなぁ。イライラ暴力的だが、やってる事はやさしい。ゆっくりそう言ったシーンが見れて良かった。一歩進んでアスカとシンジの関係性やお互いの気持ちも、すれ違わずにちゃんと話ができた。精神的には少しだけど報われたのかな。(アスカのストーリー上の扱いは酷いけど)
ゲンドウの妻と会うため世界を変えてしまう考えを、前からエヴァを見てる人は知っているし驚きがないのは、ずいぶんエヴァに染まってるなぁって思った。ゲンドウの心情が丁寧になぞられていた。
シンジに対してATフィールドが発動したのにはちょっとドキッとしたかな。自分も父親なので。
唯一最後まで深堀りされないキャラ(名前すら思い出せない)と一緒になるのは、必然性は感じないが、困ったことに全く悪い気がしない。
付き合ってるって言う1つの事実で、シンジが幸せになったという説得力を持たせ、物語を心地よく帰着させている。(この手法は反則かも)
全体として作品に一切の悪意は感じられず、視聴者を縛り付け引っ張り回す意図もなく。気持ち良く解放してくれる作品でした。
エッフェル塔の扱いを見たフランス人の顔 :||
☆5を狙える芸術作。
しかし監督のスーパー自由がうかがえるが、物語とリンクしているから許容されている面もあったり、単なるやっつけととれることも否めない。今作はアート寄りなため前作序・破・Qほどの設定理解ハラスメントはなく純粋に楽しみやすい出来である。
ナントカインパクトはあるがそれほどインパクトはない、感動より感心をする作品。
作画は今回は村のデザインがとくに良い。キャラクターデザインもQから改善されているか、こちらが慣れたか。
内容的にもメカ一辺倒でなく、村の生活にウェイトを置いているのも良い。またテンポもよし、シンジの卑屈感を画面前に出し過ぎていないのも前作からの大改善である。
良い点
・村のデザイン
・村の生活
・様々な作風
・自由な展開
悪い点
・落ちそう
・マジカルな何かで街が復活
・関西弁の一人歩き。集団があるから方言があるのである。
・水分…
・脇役が死なない
・機体の色分け
・神木隆之介の安易な起用。記号的な狙いより強くでてしまう安易感。
・良いED曲だが地球環境に配慮して再利用。
その他点
・名前を…
・スイカ?
・アスカ?
なんか凄いものを見た
テレビアニメと映画を2本くらいつまみ食いしたけれど、物語の核心部分は全く理解していない人間の感想です。
正直なところそれほど興味もなく、宇多田ヒカルの歌声に釣られて鑑賞したのですが…。
なんか凄いものを見た。
映像の演出がとにかく凄い。発想が凄い。なぜあんな表現を思いついたのか。。
最近はCGも発達して、昔では考えられなかった表現を多く目にしていると思っていましたが、これは次元が違う。
ストーリーやキャラクターやそういったものでなく、単純に映像に心を大きく揺さぶられた気がします。もうこれ芸術の領域ですよね。
今後、アニメ、CGといった映像作品でこれの模倣が多数生まれると思います。芸術的な意味でも転換点というか、大きな影響を残したのではないでしょうか。
(このレベルの発想を求められるのは大変だなぁ…)
もうこれだけでお腹一杯。
これまでストーリーはよく分かっていなかったけど、最後にダメ親父とシンジ君の対決とお母さんが丸く(?)収めてくれたので納得した形で終わることができました。
ラストがあの二人の組み合わせというのはどうなのかと思いましたが。
しかし人類補完計画とかいうやつ(以前コレが分からなくて悶々としていた)は、みんな一緒にしちゃおう!みたいなノリでマクロスだと銀河ネットワーク?ですかね。
これ考えた人は隣のオヤジと繋がったり同化することも想定しているのだろうか。
ワタクシには理解できないんですよ。なんでこの方向に走るのかなぁ。。
(多くの人とは違うところだと思いますが)本当に感動しました。あと2~3回劇場で鑑賞したいです。
過去の作品も改めてチェックしたい思います。
親子のすれ違い結末
冒頭の迫力満点の戦闘シーンから一転して、昭和の時代のようなのどかな農村に主人公3人が置かれますが、そのまま穏やかに終わってもいいのではと思ったりしました。しかし、あるヒロインの突然の死を経て
場面はゼーレとの壮絶な戦闘行為に移っていきます。ここからはシンジとゲンドウ司令との親子ゲンカのような趣に。ここで今までシンジのことをさんざん子供扱いしていましたが、一番寂しがり屋の子供だったのはゲンドウだったのでした。
ラストで第三のヒロインとの再会がありますが、内気なシンジには姉さん的な相性がいい女性なのではと思いました。
ともあれ人類が滅亡しなくてよかった。
エヴァのコアファンではありません
良かったです
みごとな完結でした。
評価しないという人もいるが、それは違うと思う。
エヴァの終わらせ方は幾つかパターンがあると思うが、変化球に逃げたりぜずきちんと終わらせている。そうすると展開というか結末は想像の範囲内という事になる。
評価をしない人はこういった点を指摘している事が多いが、この映画はエヴァ全体としての起承転結の結であり、その指摘はズレていると思う。
ゲンドウのエゴ
シンは碇ゲンドウのエゴを描いたストーリー。「ユイの魂ととも消滅」としたら、シンジを呼び寄せた時から描かれたストーリー通りに終わったサクセスストーリーで有る。つまり、エヴァ全てはユイを失い一人で生きることが難しく感じるゲンドウがユイと再び会うための予め描かれていたストーリーで有る。結局はゲンドウもアダムを殲滅しリリス(リリン)の残存を成し遂げた事になる。エヴァンゲリオン、人類補完計画と名を打った自分のエゴを達成する為の作業に過ぎなかった。
庵野秀明補完計画
終わった後膨大な数の関わった人たちの名前が流れるエンドロールを目の当たりにし、最後「終劇」の文字が現れたら、しばし茫然としてしまいどんな感想を言っていいか分からなくなった。それほど25年間のエヴァに幕が閉じたことを実感し感慨深い思いだった。
「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」というコピーの通り、すべてにケジメをつけたラスト。
これまでのエヴァンゲリオンシリーズをどういう思いでつくってきたかの総まとめであり集大成。登場人物たちの存在の真実が語られる。まさに完結編。これまでのテレビ版、旧劇場版も回収した内容になっている。
庵野秀明がなにを思いどう苦悩して創り上げてきたかを絞り出し代弁しているようだった。まさに庵野秀明監督の思考や感情や人柄…人生すべてが滲み出ている作品。
一言で言い表すのは難しすぎるが、人間の弱さに手を差し伸べたレクイエムだったように感じる。
前半これまでのエヴァンゲリオンらしからぬのどかな日常が描かれる。コロナ禍でも浮き彫りとなった、生きていくうえで本当に大切なことを伝えてくれている。
「おやすみ」「おはよう」「さようなら」「ありがとう」ってなに?の答えには心掴まれる。
分かりやすくストレートに伝えてくれている部分もあったが、やはり難解なメッセージも多く一度では理解できなかったためまたじっくり観返したい。
それと、タイトルの最後に付けられている楽譜記号が終止線ではなく反復記号なのは、人類補完計画の通り歪になってきてしまっている世の中を再構築して、本当に必要なものを復興させる意味があるのか。(ループ説もあるようだが…)
とにかく、日本のアニメ界どころか、世界の映画界、エンタメ界の伝説に残り続ける作品であることは間違いない。
未来は僕らの心の中に。
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