「友人の代わりに」シン・エヴァンゲリオン劇場版 nobu0612さんの映画レビュー(感想・評価)
友人の代わりに
1 はじめに
私はエヴァ初心者であり、にわかだ。
これを書くにあたり友人の見識や考察サイトから色々なものを補完し、いまこれを書き連ねている。
私とエヴァの出会いは中学生の頃だった。
当時周りはヤシマ作戦で盛り上がっていたと思う。その頃、何故これがこんなに面白いと言われているか正直分からなかった。
おそらく、当時や今含め私はシンジのことが分からず、好きとは言えなかったからだと思う。
ただ、周りの熱狂はその後も数年あいては再熱し、鎮火し再熱することを繰り返していた。
その間に、当たり前のように私も歳を重ねて行った。
そういう過程の中でエヴァンゲリオンに面白さを、親しみを、愛着を抱いたのだと思う。
今回、シンエヴァンゲリヲンを観て、ああ終わってしまったのだと思った。片手間のように追ってきたこの作品に対して一抹の寂しさを覚えた。それこそが、にわかでも私がこの作品を好きだと言える証明かもしれない。
2 シンジとアスカ、マリ
アスカとシンジがあの形で終われたことに嬉しさがあった。どちらかと言うと、エヴァの醍醐味であるシンジへの好意と嫌悪よりもアスカへの投影が私にはあったからだ。
そうとは限らないことを前提に書くけれど、幸せになりたいと思えるひとと幸せになることは割と難しいことだと思う。この人が好きとこの人と幸せになれるは意味が違うことがある。
学生の内の恋愛はとくに、大概歳の近いひとと付き合うので、同じ速度の同じ温度感で成長できないと距離や理解が遠ざかってく気がする。
上手く噛み合わないまま恋をし続けるのは結構大変だと思う。
私自身が初恋を拗らせ、何年も沢山のことがあったからかもしれないけれど。
好きだなと思う反面、未来も幸せもそこにはない。
Q前日譚の中ではアスカはシンジが死んだものだと一旦理解してるのも理由のひとつ。
だからこそ、最後に明確にアスカとはそうならないよと庵野が言ってくることは現実だなとおもうし、くっついていたら安っぽいなとすら思う。(庵野がエヴァにおいて掲げてるテーマに現実を生きろというのがあるので)
成長の先で新しく現れた相手と幸せを望むのは現実的思考で、マリがシンジを迎えに来るのは自然かも。
最後、惣流が救われたのも良かった。14年間あの海辺で待っていた惣流は式波と同化して救われた感じがして、この辺に庵野が全てのエヴァを回収して終わらせようとしてるが見える。
3 ゲンドウとシンジ
ゲンドウの独白は本当、ゲンドウさあ…である。
孤独な幼少期を選び、人と関わることが嫌であることはいいけれど、シンジに同じことを押し付けているのはどうなんだと思ってしまう。
ユイに会ってわたしの世界が変わったなら、それ以前に自分から動けばもっと変わっていたのでは?ひいては、シンジが生まれる前にもう少しコミュニケーションを覚えられたのでは?という。
これについてはもうどうしようもない所だし、生きている誰かを傷つけそうなのであまり言えない所ではあるけれど。
作品としてはゲンドウの人間性の理由や想いが伝わってエヴァの解決に向かうのに必要な所だったと思う。
シンジがかなりゲンドウに近しい道を歩んでるのも分かる。
それでも、シンジが一歩先に成長した。
何故か考えた時、特異点はケンケンとトウジという純粋な友達がいたことなのかなと思う。
メタ的な視点になるが、14年後のケンケンとトウジが第三村でそれぞれ色々なものを乗り越えている世界線だから特異点になり得ているので、昔の友達の形ではシンジはエヴァを終わらせられないとも思うけれど。
トウジは感情に任せてシンジを殴らないし、ケンスケは裸のアスカをみてもはしゃいだりしない。どちらかと言うと、シンジの方が少し捻くれた大人びた雰囲気であった。
14年間の間に2人は成長し、ただ静かにシンジに寄り添っていたからこそ、第三村の綾波をまたしても目の前で失ったことから進もうと出来た。
アスカが生きるための尻叩きをしてくれ、2人がそのままの自分を受け入れて待ってくれている。
シンジの「なんでみんなそんなに優しいんだよ」色々集約されてる気がする。
4 ゲンドウとカヲルくん
ゲンドウとカオルくんは近い存在であることがシンエヴァで分かった。
ピアノの連弾はもう一つの親子の形か??
もちろん同一人物足り得ないのでこれは拡大解釈すぎるが。
ゲンドウもカヲルくんもシンジの幸せを決めつけ、シンジの幸せを見つけれあげられなかった点でも合致しているのかなと思う。
ゲンドウがシンジに注ぎたかった愛情をカヲルくんが持っているって言うのが近いかもしれない。
宇部新川駅でレイとカヲルくんが一緒にいるのもユイとゲンドウの再会になのかもしれない。
最後の方のシーンでカヲルくん自身がループしているので視聴者もループを観測している側か?
冬月が都合の良い逆行はないとも言っていたのでこの辺は少し曖昧。
5 ミサトさん
これまでのエヴァ作品で、ほぼ毎回ミサトさんはシンジがすることへの責任をもつと発言している。
これについて私は漠然と薄いなと感じていて、世界観として仕方がない部分があるのは前提として書く。
大体の場面において責任の所在を作ろうが責任は果たせないし、シンジの保護者という点でもシンジがしたことをシンジ自身がミサトさんに預けられる所ではない。シンジは目の前で身体で体験をしてしまっているので。
けれど、今回のミサトさんの「責任はわたしが持ちます。」というのは不思議と本当にその気があるぞと思わせてくれた。(もしかしたら、ミサトさんも私もあの場面のシンジに幼さを感じなかったからかも?)
これについては、割と漠然と思っていたことで感覚的なものなので、結末からの影響もあると思う。
それでも、14年たって28歳だったミサトさんも大人になったんだなと感じたし、母親になったんだとも思える場面だった。
また、カジさんの最後を知ってQでのミサトさんの態度にも納得した。
6 庵野
エヴァンゲリオンは庵野の私小説だと思っている。
少し調べたところQの後精神的にきつかったと聞く。
シンゴジラをやってみないかとか、ジブリの声優をやってみないかとか誘われたのは、庵野にとって休息と周りからの優しさを実感する機会だったのだろう。
だからこそ、シンエヴァでシンジは周りに助けられ前を見ることを決められ、ああいう終わりを見出せたのだと思う。
それまでのエヴァンゲリオンという作品は庵野しかり、視聴者しかりこじらせまくったもの。というか、拗らせてるからこそのエヴァンゲリオンとも言う。
最後の駅でのシーンも実生活で庵野が結婚したことも関係あるかなと思う。
シンジは自らの贖罪のためDSSチョーカーをつけているが、マリがそれを外す。
シンジ(庵野)を許し、救い、共に生きるのは、アスカやレイ(過去の女性)ではなく、新しく突然現れたマリ(安野モヨコさん)という所も反映されていそうだ。
7 ありがとう
ここまで書いてきたが、なんでエヴァが好きで、庵野のことを絶妙に雑に扱ってしまうのかはエヴァが庵野の私小説でシンジもゲンドウもおそらく庵野であったことを最初から感覚的には知っていたからなのかもしれない。
エヴァの呪縛で年を取らない子供のままのシンジは、いつまでもエヴァ(自分にとって居心地の良い世界)を卒業できない私でもあるので、完結ありがとうと言いたい。
エヴァがエヴァのままきちんと落とし前をつけれくれたことに嬉しさがある。
とにかく、製作者や鬱の庵野を支えてくれた方々、宇多田ヒカルありがとう。
8 蛇足
箇条書き感想
重複等あったらすみません▽
・庵野はシンジだと思ったらゲンドウか?
・シンクロ率無限大♾笑う
・パリ以外パチスロ感強い(新カットはマシになった方)
・アスカがシンジにレーション無理くり食べさせるシーン、シンジがまだ人間としてていをなしてる上に情けなさがあって良い(新カットは画角変わって薄れる)
・もしかしてゲンドウの眼鏡われすぎ…?
・綾波が第3村で爆けるシーン分かってたのにびっくりするし悲しい
・デカ波の恐さ
・ミサトさんの反動推進型エンジンね聞けて良かった
・綾波いつでも3歳だな
・シンジとゲンドウ戦うところ刃牙みあった。家で普通に戦ってるところとか
・その後精神性の会話する所はエヴァ
・エヴァは観測者視点からのループか?
・みんなコミュニケーション不足すぎでは?エヴァに関わると大人も成長遅くなるのか?
・大人役のシンジ神木隆之介声良い
・現実を生きろ