「「たった一つの冴えたやり方」(短縮版)」シン・エヴァンゲリオン劇場版 GenerationBlueさんの映画レビュー(感想・評価)
「たった一つの冴えたやり方」(短縮版)
※本レビューは文字数制限のため、原文(約一万字)から一部抜粋しています。他サイト・アプリにも各文字数制限まで投稿しています。
映画としては凡作以下、アニメとしては佳作以下、エヴァ作品としては史上最高傑作です。
何様と思われるかもしれませんが、私もお客様(=『全てのチルドレン』)の一人です。庵野秀明さんを始めスタッフの皆々様、26年間、誠にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。
さて、エヴァを「終わらせた」ことを加味して、作品のレビューでその点について評価している方がちらほらといらっしゃいますが、終わらせたから偉い!凄い!高評価!……ではなく、本作単体、あるいは序〜シンの新劇場版を通してのストーリーや演出がどうであったのかで、本作は評価されるべきではないでしょうか?
いろいろと思うことがあって、感想を書こうか否か迷いましたが、やはりしっくりこないので、自分の整理のために書こうと、そう思い直しました。
では、感想に移ります。
【アニメーション】
アスカがシンジに無理矢理レーションを食わせるシーンだけは真に迫っていました。
元ネタはNHKスペシャル『私は家族を殺した “介護殺人” 当事者たちの告白』でしょうか?
過酷な介護現場ではああいう虐待が行われていることもあると聞きます。恐ろしいですね。人の所業ですか?アレが?と思いましたが、そもそもアスカは人間ではありませんでしたね。
あと随所に庵野モヨコ夫人(の作品)に関連したアレコレが小ネタみたいに散りばめられてるような気がしましたが、私の気のせいですかね?
もう一度きちんと見てみないと断言できないと思いますが、相当、奥様の影響があられるのかと。
正直、TV版や旧劇のように、上映終了後、パッと思い出せるような類の、印象的なシーンはありませんでした。(私はTV版も旧劇も嫌いなので、懐古厨というわけではありません)
とくにCGを含めた戦闘シーンはひどく見辛いし、カッコ悪い。作画枚数や作業工程はもしかすると新劇の方が上なのかもしれませんが、見せ方が下手なんでしょうか?クオリティは新劇の方が低いようにすら見受けられます……抜けたスタッフでもいるんですかね?
【構図】
漫画『ワンピース』のように見づらい。プロからしたらいいのかもしれないですけど、私たちパンピーはプロじゃないんで。情報量が多すぎて、何も印象に残らないんですよね。
製作スタッフの好きなものを詰め込んで作ったらしいですけど、雑多な玩具箱かあるいは幼児が乱雑に書き殴った画用紙みたいなカオス感がありました。見ていて疲れます。現代人はただでさえ生きているだけで疲れているのに、映画でも疲れるのは……まあ、つまり疲れます。
【音楽】
残念ながら印象に残るものは『One last kiss』だけ。皆さんはパッと思い浮かぶBGMが『シン』にはありますか?
ここからは私の嗜好の話になるので無視していただいて構いませんが……
例えば黒波の最期をシンジが看取り、決意を固めるシーンでオーケストラ版の『Thanatos』を流してお涙頂戴するとか、
巨大綾波が出てくるシーンであえて『甘き死よ来たれ』を流して古参ファンのトラウマを抉るとか、
ゲンドウとの戦いのシーンで『The Final Decision We All Must Take』を流すとか、
ネオンジェネシスするところでピアノバージョンの『残酷な天使のテーゼ』を流すとか、とか、とか……そういう総決算的なサービスがあったら嬉しかったなと。
【神の子、碇神児】
旧劇シンジ「他人との関わりは怖いけど、もう一度会いたい気持ちは本物。だから、やっぱり他者のいる世界で生きる……」
新劇シンジ「他者がどうなろうと関係ない。とりあえずシャッター下げて無かったことにしてやり直す。そんで、胸の大きい良い女と一緒に生きる!」
あのさぁ……26年もかけてシンジくんの選択が退化してるんだけど?何が起こってるんだ、これは!?
『魔法少女まどか☆マギカ』という作品がありました。主人公はシンジと同じ14歳で、最後は神に等しき存在になるのも全く同じなのですが……彼女が願ったのは、やり直しなどではなく、皆が積み上げてきたものを尊重しつつ、それに救いを与える、というものでした。
比べるのもアレですが、まどマギから10年くらい経った業界で出てきたアンサーが、よりによって「コレ」だと思うとなんとも憂鬱です。世相かな?終わりだよこの国。
【式波】
「殺すことも助けることもしなかった」とかキレてましたけど、過去の記録を調べもしないでシンジを糾弾してるのか?
シンジは破の時に「相手を傷つけるくらいだったら殺されてもいい」ということまで言ってましたよね?その後、シンジは、アスカを傷つけたネルフ本部や父親を攻撃しようとまでしていた。
どんだけシンジがアスカのことを大切な仲間と思っていたか、よく分かるじゃないですか。
シンジ言ったれ!私が許す!
アスカにハッキリと、こう言ったれ!
「死なせたくねェから “仲間” だろうが!!!」(ドン!!)
そんなシンジによく、イキリ倒せるなぁ……
ガキは君だよ、分かるかい?(真顔)
『礼節が人を作る』なんて言葉があります。
『死装束』なんて文化を勉強する前に、まずは礼節(マナー)を学べ!ガキアスカ!
……まぁ、脚本に問題があるんですけどね。
クローンだかなんだか知らんけど、こんな28おったらあかんわ、終わりだよこの世界。
「ツンツンもいいですけど、礼儀だけは弁えといてくださいよ!ホンマ勘弁してほしいわ」
【真希波・マリ(ア)・イラストリアス】
君の正体は何なんだい?どっから湧いてきたんだい君は?
ゲンドウやユイと同世代なのは分かるよ。京大の同窓かなんかだろう?でもそれは映画の中で描くべきなんじゃないのかい?
せめてQとかで回想シーン必要だったでしょ……と思うのは私だけでしょうか?冬月とシンジが将棋を指すところで、冬月の語りとともに、大学での教授職時代の回想(述懐)を挟んで、そこでユイ、ゲンドウ、マリを描けばよかったのに。
過去が無ェ 記録が無ェ
正体まったく分から無ェ
背景無ェ 深みが無ェ
自己 完結で ぐーるぐる
破で登場 唐突だ
感情移入の余地が無ェ
俺らこんなキャラいやだ 俺らこんなキャラいやだ
そんな彼女がラストでシンジの手をとっても、なんの深みもカタルシスもない。
……え、漫画などのメディアミックス作品を見ればマリの正体が分かる?いやだから、映画の中でそれを描かなきゃダメでしょ。てやんでぇべらぼうめ、おとといきやがれってんだ!
【育児放棄】
ネグレクトする奴には基本的に、「基本的人権」は無いと思ってるんですよね。誰のこと言ってるか分かります?ゲンドウとミサト、君たちだよ。何カッコつけてんだよ?ダサいぞ。どんな理屈を並べ立てたところで子どもから逃げている君たちは親失格で大人失格だよ。君たちの発言には何の重みも説得力も感じられないので、終始極めて滑稽なんだよ。「だっせぇ、だっせぇ、だっせぇわ」
【VII.l.AGE】
表面的に(暖かく)描かれる子育て描写や動物、植物の描写は、その実無機質で、血の通っていないホラーゲームみたいに感じられました。
農作業もしていましたが、アレだけの人数の食料を養うには量が足りませんし、もっと生きることに必死で、ピリピリとした雰囲気が漂うのが、通常のポストアポカリプス世界だと思うんですよね。
私には、あれが上辺だけ取り繕った、崩壊しつつある絶望の限界集落にしか見えませんでした。『バイオハザード8』みたいなもんだなあと思いました。あるいは『SIREN』で描かれる、屍人視点から見た世界のようなものです。
「放浪を続ける碇神児、たどり着いた場所が、彼に希望を与える」というのが予告の文言でしたが、村がシンジに与えたのは希望ではなく、死地に赴く「覚悟と決意」ですよね。「どう足掻いても、絶望」です。
【たった一つの冴えたやり方(ネオンジェネシス)】
「『ネオンジェネシス』?……なんですか?『ネオンジェネシス』って?」
多分、「バルス!」とか「ジェセル!」みたいな、おまじないの類だと思うんですけど……
シンジの選択、というか庵野監督の選択は、エヴァが存在しない世界にして、全てをやり直すということでした。
でも、本当にそれで良かったのでしょうか?
村の人達に限らずですが、サードインパクトから生き延びた人々は、一生懸命に生きていました。その生きた証すらも、庵野監督とそのスタッフの方達は脚本上、無かったことにして「終わらせて」しまったのです。
庵野監督は3.11の震災以降、精神を病んだそうです。震災からの復興に向けた戦いは今もなお続いていますが、あの赤く染まった地球で懸命に生きる全ての人々の希望を背負った(背負わされた)碇シンジが、最後の最後に選んだ道が、全てを無かったことにした挙句、「胸の大きい良い女」とのrendez-vousというのはどういう了見なのでしょうか?
世界改変エンドも良いですが、このシンにおいては、人々の思いや、希望や、生き残るための努力やその証の一切が全て無に帰したような、言いようのない後味の悪さが残ることは否めません。
(繰り返しになりますが『まどマギ』に於いての主人公の『選択』と、ハッキリ異なる点です。余談ですが私は、まどマギという作品はあまり好きじゃないです)
世界改変ではなく、28歳になったシンジが、崩壊した世界や、失われた命たちと、がっぷり四つと向き合い、悲惨な過去から目を背けず、不確定な未来に向けて、田畑を耕し、世界の復興のために汗水垂らして働いている描写があっても良かったのではないでしょうか?
そして、破の時に叶わなかった食事会をするエンドで良かったのではないですか?
あるいは青くなった海に繰り出していくエンドでもよかったかもしれません。
ラストは、『エヴァの全てにシャッターして、とにかくさようなら! そして、マリ=庵野モヨコ夫人、シンジ=庵野監督で、2人が手を繋ぎ、アニメの世界から逃げ出し、現実の世界(庵野監督の地元)で結婚報告をしにいく、あるいは特撮製作(ウルトラマン、仮面ライダー)へと逃げ出すメタファー』なんて揶揄されているようですが、そう取られても仕方がないと思います。
この映画を礼賛している方の中には、『「エヴァ」からの卒業(式)』なんて戯けたことを述べている方がいますが、大半の視聴者は、エヴァに入学なんてしていません。日常生活で一杯一杯です。
そんな中で、こんな逃走劇を描かれても、唖然とするばかりなんですよね。
「アニメから卒業しろ」「現実を見ろ」なんて言われても、「いやいやw もともと現実見て日々一生懸命に生きてますよ。エヴァから卒業できてないの、製作側のあなたたちの方じゃないですか?「26年かけて頑張って作ったもの、その集大成が出来た!今度こそ完結する!観に来てね!」っていうから、わざわざ見に来たのに、こんな無礼な態度と結末はなんなんですか?おそらく日本のアニメ史に於いて、26年もかけてこんな酷い行いをしたのは、貴方たちくらいのもんでしょうね」と、むしろこっちが言いたいくらいですよ。
また、現実を織り交ぜたメタ演出を挿入するのは、「逃げ」だと私は思います。現代アートのように煙に巻いて高尚ぶるのは、いかがなものでしょうか?
作品世界の中で作品を完結させなければ、物語を「終わらせた」とはいえないのではないでしょうか?
逃げて逃げて逃げて、逃げた果てが「これ」。そう考えると哀しいですね。
庵野さん、これは26年前に『あなたが始めた物語』でしょう?
とはいえ、もうなんか「終わらせられて」しまったので、もう今後『エヴァ』は無いでしょうし、私も見ることはないでしょう。故に最大限の皮肉を込めて、『最後の言葉は、切ない』ものとなります。
製作スタッフにありがとう
庵野監督におめでとう
そして、過去・現在・未来、全てのエヴァンゲリオンに、さようなら
主題は一貫して「終わらせること」しかなかったのだと思います。
【3.11】の時期に放送された『まどマギ』は最終回で、人々を鼓舞する力強いメッセージを発信しました。
その10年後、セカイ系の先達である『エヴァ』が【コロナ禍】に於いて、このような結末を迎えたのは、実に残念でなりません。