「「セカイ系」の脱トートロジー化 セカイの終わりと世界のはじまり」シン・エヴァンゲリオン劇場版 マユキさんの映画レビュー(感想・評価)
「セカイ系」の脱トートロジー化 セカイの終わりと世界のはじまり
TV版、旧劇場版、そして新劇場版前3作もほとんど断片的にしか観ていないので、ストーリーやキャラクターや伏線に関して語れることはほぼない。しかし、本作だけ観ても論じられることがあると思うので、少し書いてみる。『新世紀エヴァンゲリオン』は、元祖「セカイ系」とも呼ばれるアニメ作品だ。「セカイ系」とは、ミクロな関係性がマクロな世界の命運に短絡するような作品群の呼称である。たとえば、新海誠監督『ほしのこえ』は、地球と宇宙に引き裂かれた恋人の関係が、宇宙規模の異星人との戦闘に影響し、人類の存亡に関わる。
さて、セカイ系としての『エヴァ』は、本作でどうなったか。碇シンジと父親ゲンドウとの戦い、言わば「親子喧嘩」に、世界の存亡が賭けられる。セカイ系そのものだ。マイナス宇宙には人間の認知が及ばない、というプレテクスト(口実)で、シンジとゲンドウの記憶が空間に上書きされるが、エヴァに搭乗して戦っているのに、部屋や学校が背景になる。笑いを誘うギャグだが、ふたりの親子喧嘩ぶりを印象づけている。新海誠監督『天気の子』は、実は新海監督がセカイ系からの離脱を企図した作品だったと思っている。「天気の巫女」である陽菜をシステムの「外」へ連れ出すことで、予定調和の秩序回復を破綻させ、内部からのセカイ系破壊を試みたのだ、と。作品にいったんセカイ系のロジックを採用すると、もはやセカイ系から脱出できなくなることを「『セカイ系』のトートロジー化」と呼ぶとするなら、新海監督は『天気ー』で「セカイ系」の脱トートロジー化を試みたのだ。
さて、『シン・エヴァ』はセカイ系に内閉したまま終わったか。いや、そうではない。ストーリー的にはわりとシンプルなエディプス・コンプレックスの物語で、亡き母、ユイに似た少女レイをめぐって、シンジがゲンドウを象徴的に「殺す」わけだが、しかし、シンジ、レイ、アスカは「承認をめぐる闘争」の中にあるので、各々が互いに受容できない関係性だ。そこに、マリという外部からの来訪者が加わることで、受容の可能性が生じた。ところで、『シン・エヴァ』が取った「セカイ系」の脱トートロジー化の戦略とはどういうものだったか。
マリがシンジの救出に現れるシーンで、画面がラフ画に後退していく。また、マリがシンジの手を取って駅を出て行くラストシーンで映し出されるのは、現実の街並みだろう。そう、古典的ではあるが、「現実に帰れ」との「異化効果」が『シン・エヴァ』のセカイ系の脱トートロジー化だったのだ。
『天気ー』が「内破」なら、『シン・エヴァ』は「破裂」だ。他者に承認を与えられるマリのような存在が、承認不足で右往左往するシンジのような存在を救い、ライナスの毛布的なエヴァが不必要になり、「卑小な」現実が眼前に広がる。そして、観客も現実に帰るのだ。