踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 : インタビュー
「踊る」と「エヴァンゲリオン」の意外な共通項
制作陣が試行錯誤を繰り返して作り上げた「踊る大捜査線」だが、映画化への道のりは決して平坦なものではなかった。最終回の視聴率は23.1%を記録したものの、20%を超えたのはこの1回限り。そういった影響もあり、映画はおろかビデオの発売すら予定になかった。ところが、追い風は意外なところから吹いてきた。「当時、今ほど普及していなかったパソコンに飛びついていた人たちが、まだヤフーがなかったころだから、ニフティのドラマフォーラムでおおいに話題にしてくれていた。当時、『踊る』と『新世紀エヴァンゲリヲン』の放送時はサーバーがパンクするって言われていたんですよ。よく行く飲み屋の兄ちゃんが流行りものが好きでね、『踊る、こんなことになっていますよ』とプリントアウトしたものを見せてくれたんです」。
その熱烈な書き込みは、亀山氏の想像をはるかに上回るものだった。「まあ、コアファンなわけですよ。『エヴァ』と同じ現象だと思いましたね。『エヴァ』だってあれだけヒットしたじゃないですか。これはひょっとしたら想像以上のものになるんじゃないですか、と言い続けていたら、とりあえずビデオを出してみようということになったんですよ」。しかし、レンタルビデオ店が当時9000店舗前後あったのにもかかわらず、市場に出回ったのはわずか3000セットだった。
「行き渡っていないわけですよ。となると、例のドラマフォーラムが盛り上がるわけです。『どこの店にあった』だとか『僕がダビングしてあげる』だとか……。こりゃ著作権違反しているじゃないか! だったら行き渡らせるようにということで増産されたんです」。
そして、さらなる追い風は社内から吹いてくる。「別のセクションに『踊る』を好きなやつがいて、これを映画にしなければ何を映画にするんだ、という熱い企画をあげていたんです。上から『映画化する気はあるか?』と聞かれたんで、やってみたいですと。ただ、映画だけだとリスキーなんで、その前にスペシャルを2本作らせてくださいと頼みました」。こういった経緯を経て誕生するのが、「踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル」(97年12月放送/視聴率25.4%)と「踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル」(98年10月放送/視聴率25.9%)だ。「僕は2本と映画がセットだと思っていたので、死ぬ気で作っていましたね。テレビ的でありながら、映画の要素も入れられるなあと思ったので、これは映画を作ってもやっていけるんじゃないかと感じました」。亀山氏の当時の上司は、スペシャル2本の結果が良ければ映画化に向けて動き出すと伝えたつもりだったようだが、亀山氏が解釈の違いに気がつくのは、ずっと後の話だ。
歴史を塗り替えた「踊る」、しかし、いかりやさんが……
劇場版第1作「踊る大捜査線 THE MOVIE 湾岸署史上最悪の3日間!」は、98年10月31日に封切られ、興行収入101億円、観客動員700万人という、当時の日本実写映画興行歴代3位の驚異的な成績を残す。そして5年後、歴史が動いた。03年7月19日に公開された劇場版第2作「踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」は、興収173億5000万円、動員1260万人という数字が物語る通り、それまで20年間破られることのなった日本実写映画の興行記録、動員記録をともに塗り替え、いまだ頂点に君臨し続けている。
悲しい出来事も起こった。和久平八郎という人気キャラクターを確立し、「踊る」シリーズの精神的支柱ともいえる存在だったいかりや長介さんが、劇場公開から9カ月後の04年3月20日に死去してしまう。
「173億という数字は僕らが一番ビックリした。自分たちの想像以上のお客さんが来ている。1作目で100億を超えたときにも思ったことですが、楽しみ方が違うんじゃないかと。映画が面白い、面白くない、という問題だけではない。現象なんじゃないかと感じました。これは、いちいち気にしていたらおかしな方向にいくよねと言っている矢先に、いかりやさんが亡くなってしまった。これまで、どうしたらいいんだろうと考える局面で、いかりやさんみたいな方がいらっしゃると『何も考えずにやりゃあいいんだよ、客がいるうちは』と言ってくれていたんです。ひょっとしたら無理かもしれないな……という思いを払拭するのに3年くらいかかりましたね。あの頃、続編はもうないと感じていましたよ」。