ファウスト : 映画評論・批評
2012年5月29日更新
2012年6月2日よりシネスイッチ銀座ほかにてロードショー
ソクーロフのビジュアリストとしての真価を映し出す、20世紀の怪物に迫った連作の最終章
「エルミタージュ幻想」では歴史を一息の夢然と90分のワンカットにからめとるようなまねもした監督アレクサンドル・ソクーロフ。思い返せば彼は、エンタテインメントに不可欠のはったり精神をアートフィルムに敷衍(ふえん)する意志をそこで果敢に垣間見せたのではなかったか。「モレク神」「牡牛座」「太陽」と、20世紀の怪物に迫った連作の終章「ファウスト」でも彼は、けれんの美学を迷いなく全うし、心理ドラマをうち棄てた表皮の映画をつきつけ、ゲーテの原作などさらりと置き去りにして独自の時空を現出させる。
空の高みから19世紀初頭ドイツの田舎町へとダイブをきめて始まる映画は、魂のありかを探る人の前にいきなり腑分けの死体のペニスを置いたりもして創造主ソクーロフの映画のありかのことを改めて思わせる。悪魔ならぬ高利貸しと地獄のような現実を巡る人は、例によって薄い緑の靄(もや)にけむるソクーロフ界(=“人間ドラマ”とは無縁の時空)で腐臭とノイズに包囲されている。言葉と映像の渦の中で意味よりは感触のリアルが尖っていく。
背景の黄金色と肌の白さとおちょぼ口がルネサンス絵画の聖女を思わせるヒロイン、そのハート型の顔に見とれて一瞬が永遠に引き伸ばされる。長い長い凝視の中で天使の恍惚にふと邪悪の影が射す。止まる時。その美しさ。その怖さ。魂を受け渡す人と悪魔のあの合言葉をそうやって圧倒的に鮮やかな表層として視覚化する映画はショー、フローベール、ドストエフスキーを料理してきた文芸派の実相、ビジュアリストの真価を映し、ソクーロフの宇宙の見直しを断固、要請してみせるのだ。
(川口敦子)