「子供だろうが大人だろうが、私は私でしかないの」ヤング≒アダルト Shiho Yamauchiさんの映画レビュー(感想・評価)
子供だろうが大人だろうが、私は私でしかないの
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#映画 #ヤングアダルト
#脚本 #ディアブロコディ
#主演女優 #シャーリーズセロン
ディアブロ・コディの脚本。
【※ネタバレあり】
今回も「あー、そうなんだよ‼︎」と
イヤな自分を見ているようで
かなりの居心地の悪さを延々と
感じながら、ラストが気になって
観てしまった。
そしてやっぱり泣いてしまった。
主人公は「自分らしさ」を
貫くあまりに孤立しがちなタイプ。
映画#juno と似た設定。
彼女の「らしさ」は
はっきり言って、勝手気ままで、
プライドだけが孤高のように高い。
仕事の実力は田舎では華やかでも
一歩都会に出たら埋まってしまう。
当然寂しいし、誰かの理解も欲しい。
でもその誰かくらいは、どうしても
自分で選ばなきゃ自分じゃなくなる。
愛してくれるから愛するんじゃない。
何もかもうまくいってないから
愛する人くらいは自分で決めたい。
だけどそれは、実は周囲の大人も
願っていながら行動には移さない。
どこかで妥協して愛される安心感や
生活していける仕事や家庭を持ち、
協調性を持ち、思いやれる関係性に
身を委ねたほうが「大人」だからだ。
そういう大人になっていけば
孤立せずに、生きていける。
穏やかに、過ごしていける。
だけどいくつになっても
自分への期待が捨てられずにいて
過去の悲しみも捨てられずにいて
少しずつでもいい、描いた未来を
この手に掴みたくて仕方がない。
そうこうしているうちに、
地元の同級生たちは「大人」に
なっていくことに気づく。
一度は愛を誓った過去の恋人でさえ。
いつのまにか違う方向を向いて、
ともに描いたしあわせとは違う
しあわせを実現して生きていた。
皆両手におさまるしあわせを
手に入れるために生きている。
本当はそれさえも
生きていくということは大変。
自分の身の丈を決めるのが早いほうが
「大人」的しあわせは掴みやすい。
そしてそのほうがきっと格好いい。
自分にも、そのチャンスはあった。
不幸にも、叶わなかった。
悲しくも、違う方向を向いて生きなきゃいられなくなった。
これで良かったのだと何度も思い、
過去と決別できた気がしていた。
ある日見下していた周囲に
見下されていたことを知る。
本当はもうプライドもズタズタで
描いていた夢も終わりを迎えそう。
見て見ぬ振りをたくさんしてきた。
自分に都合の良いことだけを
見ては、信じようとしていた。
見えてしまった、都合の悪い事実。
知ってしまった、中身のない自分。
まだ癒せそうにない悲しい出来事。
全部持って帰るという覚悟を決めて、
また埋まってもきっと這って生きる。
主人公演じるシャーリーズセロンが
心底楽しそうな表情は、運転のとき。
元カレからもらったカセットテープのワンフレーズを繰り返し口ずさむ。
帰り道の光景は一部だけ切り取られたように、映し出される。
今までのように、辺りにいるヤング層女子から見聞きしたりヒントを得た、ヤング層そのままの想いを打ち込む文章ではなく、アダルト、つまりは彼女が少女から女性になっていく過程の心境を、軽快にタイピングする姿は、
とても凛として力強く、しなやか。
一筋の光が感じられて、映画全体の中で彼女が唯一周りから浮いて見えないのはこの場面くらいかも、と思った。
ディアブロ・コディの、心の芯の部分をジンと熱くさせる脚本・セリフのひとつひとつはもちろん、キャスティングが絶妙だった。
役づくりに余念のないことで有名な、シャーリーズセロンが主役なのは本当に良かった。
抜毛症の癖が出る時の顔つきや、相手によって態度を変える様は見方によっては、気が触れたように見えるかもしれない。
アルコールを好きで飲んでいないということがわかる表情や仕草、帰宅後にひとり、他人とおそらく自分に、呆れてヌーブラを剥がすときの苛立ちと疲れ果てた眼つきなどの感情の起伏は、正直、映画「モンスター」より見ものだと感じた。
「#juno 」も良かったが、今回観た
「#youngadult 」もますます良くて、脚本の#diablocody #ディアブロコディ のファンになってしまった。
作品の印象と同じように、
#diablocody #ディアブロコディ 本人のWikipediaによる経歴には、華々しさはあまり無い。
それよりも世界の隅のほうで、ようやく輝いて内なる激しさを原動力に、生きてきたような経験をしてきている。
写真で見た限り、本人の性格や人生経験が「#youngadult 」では反映されたのではないかとも感じた。