「脚本の矛盾を超える身体性──香川照之が支える『鍵泥棒のメソッド』」鍵泥棒のメソッド シモーニャさんの映画レビュー(感想・評価)
脚本の矛盾を超える身体性──香川照之が支える『鍵泥棒のメソッド』
『鍵泥棒のメソッド』は、当初は軽いコメディとして始まり、設定の無理やリアリティの欠如が目につくため、「果たして観るに値する作品なのか」と疑問を抱きました。しかし、物語が進むにつれ、俳優陣の演技が脚本の弱点を補い、気づけば最後まで引き込まれてしまう不思議な魅力を持つ作品である。
特に香川照之の存在感は圧倒的だ。役作りの的確さと身体表現の説得力が、作品全体の雰囲気を支え、物語の軸として機能している。彼の演技がなければ、この映画は単なる軽いコメディで終わっていたかもしれない。香川の“重心の強さ”が、作品に深みと緊張感を与えている。
一方、堺雅人の喜劇的な演技も秀逸で、後に日本を代表する俳優となる片鱗がすでに見える。軽やかで柔らかい身体性が香川の重厚さと対照を成し、作品に心地よいバランスをもたらしている。ただ、この時点では香川照之の表現力が一歩抜きん出ており、作品を牽引する役割を担っている。
また、広末涼子の“偏り”のある役作りも効果的だ。やや極端なキャラクターでありながら、香川・堺の演技と自然に調和し、作品にスパイスを加えている。彼女の存在が、物語の非日常性を柔らかく支えている。
脚本には矛盾やスケールの小ささがあるものの、俳優陣の演技がそれらを補完し、観終わったあとには不思議と納得感が残る。映画という総合芸術において、「演技が作品を成立させる」という典型例と言えるだろう。
作品とは直接関係ないが、香川照之や広末涼子が後に活動を控えざるを得ない問題を起こしたことは、表現者の価値を知る者として悔やまれる。表現者はしばしば常識から逸脱した感性や偏りを抱えており、それが作品に独特の魅力をもたらすこともある。もちろん許されない行為はあるが、すでに社会的制裁を受けた後であれば、今後の活動についてはもう少し寛容であっても良いのではないかと感じさせられる。
総じて、『鍵泥棒のメソッド』は脚本の弱点を俳優の身体性と表現力で乗り越えた作品であり、観終わったあとに作品としての満足感を残す一本である。
