「どこまでが「牛」で、どこからが「肉」なのか」肉(1976) La Stradaさんの映画レビュー(感想・評価)

どこまでが「牛」で、どこからが「肉」なのか

2024年12月14日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 広大な牧場でゆっくり草を食んでいた牛が、ステーキ肉として出荷されるまでを完全に追跡した記録です。

 前作『霊長類』では人間の実験材料とされる猿をクールな目で捉えて、「可哀想」という気持ちも惹起させたのですが、牛となるとその声も小さくならざるを得ません。「やっぱり上等なお肉は美味しいねぇ」とニコニコしながらしゃぶしゃぶを当たり前に食べているのですから(とはいえ、殺される牛を「可哀想」と思うのはやっぱり自然な感情です)。

 牧場から集められた牛は、集荷場での肥育で更に太らされてから電気ショックで殺され、ゴロリと横になるとフックで吊るされます。それからは、オートメーションで組み立てられて行く自動車と全く同じような流れなのです。ぶら下がったまま皮を剥がれ、腹を裂かれ、臓物を取り出され、脚を切り落とされ・・という流れです。腹を裂く係りの人は一日中ずっと腹を裂き続けています。

 はじめは、「あ、死んじゃったんだ」とややショックを受けながらも、やがて、

 「あの辺りがヒレ肉になるんだな」
 「テールスープの材料として大好きな尻尾は一体どうなるのだろう」
 「へぇ、頬肉もちゃんと取るのか」
 「レバーを取ってからのホルモンは一体どうするのかな」

などと、完全に「肉」として観ている事に気が付きます。果たして、僕の見方はどこで「牛」から「肉」に変わったのでしょう。もしかしたら、生きている時から「肉」としての認識だったのかな。恐らくその眩暈こそがワイズマンの狙いだったのでしょう。

La Strada