メランコリアのレビュー・感想・評価
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気が滅入るよ・・・
いやぁ、ラース・フォン・トリアー監督って、なんでこんなことを描こうと思ったんだろうね。この人って、なんかだいぶ変わってるような気がしますよ。実はむかし、むかしに『奇跡の海』を観て、その頃はなんだか基本的に悲惨な映画を見たなぁという感想であり、その後、なんとなく敬遠してきたんですよね、この監督。あんまり詳しくないですけど、なんか映画運動的なこともやっていたようだし、どうもその主義主張的な姿勢が重く感じられていたっていうこともあるのかもしれません。
それでまぁ、キルスティン・ダンストのファンということで、久々にこの監督の作品を見ることになったというわけであります。
で、確かにものすごくうまい監督なのだろうという感じはしました。ショットもキメキメになりすぎず、しかし的を外していない、なんかそうしたうまさを感じました。
でもさ、もう特にPART1がさ、気が滅入るっていったらないっすよ。なんだろ、この重さ。ラストシーンに何らかの希望を見出すべきなのかなぁ。なんかそれよりも結局、徹底的に人間が嫌いでしょうがないっていう感じが伝わってきちゃうんですよね。
この監督、確かにオリジナルなんだけど、さて、好きかと言われたら・・・って感じがありそう・・・ なかなか次の作品に手が伸びそうもないですわ・・・
よかった!
あっという間の135分
どうであれ、やってきてしまう
超ネガティブ映画です。
鬱々
スマートな 心のために 吹っ飛ばす
「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」などの作品で知られるラース・フォン・トリアー監督が、「マリー・アントワネット」において印象的な演技を披露しているキルスティン・ダンストを主演に迎えて描く、壮大な群像劇。
ただただ、見事、としか言いようがない。シンプルに言えば、拍手喝采である。ここではっきりとしておきたいのは、作品の品質に対する純粋な賞賛という訳では無いことである。
では、何が見事なのか。何が拍手喝采なのか。答えもまたシンプル。映画という芸術を最大限に利用して、自らの中に溜りに溜まった欲求不満、余分な脂肪を徹底的にぶっ壊してしまえという欲望。
その源である作り手、ラース・フォン・トリアーの潔さである。
一人の女性が迎える、世界の終末。そんな基本的な物語のテーマを軸に置きながらも、決して作り手はそのテーマにのみ着地しようとしていないのは明白である。
一人の映画人として、堅実に名声を高めてきた作り手。当然、その中で溜め込んできたのは、作家としての創造力、富だけではないだろう。面倒な人間関係、周辺が自分の仕事にかける期待、執着、そして好奇の目。
作り手は、その多くの要素を本作で形を変えてさらけ出す。結婚式という様々な立場の人間が一度にあつまる舞台を設定して、そこに溢れ出すエゴイズムを淡々と、緻密に描写する。そこに、本当のテーマが見えてくる。
全部ここに、ぶちまけます。・・・で、全部吹っ飛ばします。
不安、疑惑。おまけに入り込むのは前作「アンチクライスト」で観客に植え付けてしまった「強い宗教観」という先入観。作り手はシャルロット・ゲンズブールを改めて起用することで、前作から引きずっているイメージを再度、物語の中に作り出す。一本の作品の中で、作り手が抱える感情やイメージの脂肪を凝縮して組み立ててしまうというところか。
さて、フィナーレである。巨大惑星メランコリアが最接近するその瞬間。多くの地球終末映画ならば、「私・・お父さんを愛していたわ」「私もだよ・・ジェシカ」な感動の和解世界が定説のように設定されるものだ。が、本作はそうはいかない。いや、そんなシーンは必要ない。そもそも作り手は全部、破壊することにしか興味がないのだから。ドラマはいらない。
宗教的な要素を強く印象付けるラストの描写の中で、迎えるその時。映画監督として、さらに前進するために。そして新しく創造していくために。今まで積み重ねた歴史を、先入観を、不安を力強く吹き飛ばす。完膚なきまでにぶっ壊す。そこには、あっけらかんとした解放感と喜びだけがある。
なんて気持ちが良いんだろう。なんて健康的な最期だろう。これぞ、究極のデトックス空間。さあ、スマートになった心をもって次の作品に挑み続ける作り手の荒ぶる意欲に、期待は高まるばかりである。
まいった。。。
究極の場において
皆さん、こんにちは(いま2月19日8:45頃です)
究極の場において、人間はどんなことを思い、
どのような行動を起こすのか?
この映画はそんな思考実験を強いているのだと思う。
①その場において、家族よりも自分のことを優先してしまうひと
②その場において、最後の最後まで受け入れられないひと
③その場において、ナチュラルにありのままを受け入れるこども
④その場において、初めは鬱状態になるけれど、次第に受け入れるようになるひと
あるいは
⑤冗談じゃない、こんな映画に思考実験されることを受けれない人
それにしても、主演のキルステン・ダンストっていう女優。
スパイダーマンを見たとき、なんでこんな不細工な女優がヒロインなんだ
と思ったけど、どこかひっかかるところがあったのを思い出す。
そのひっかかりが、この映画でも十分発揮されている。
思いっきりブスにみえたり、抱きしめてあげたいほど可愛くみえたり、
天使のようにつつみ込まれたりとか。確かにいい女優だと思う。
このキルステンとラース・フォン・トリアーって全く結びつかなかったのだが、とてもいい感じでコラボレーションしていると思った。
トリアー監督は前作「アンチクライスト」では、大きく裏切ったのだが、
この「メランコリア」では、期待以上の作品を(僕に)提供してくれた。
とにかく、最後の場面を美しいと感じられるかどうかが、
この映画の賛否を決めることになるのではないか?
見る者によって違う惑星メランコリアの正体と解釈
地球と巨大惑星メランコリア。ふたつの天体の軌道が重なる。前途を失う馬と人間。狂いだす磁場と重力。本篇に先がけて超スローモーションで描かれたプロローグは圧倒的な美しさをもつ。サウンドはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のみ。荘厳で且つ切なく響き渡る。
本篇は、ふたつのパートに分かれ、姉妹の名をサブタイトルにして語られる。
豪華な結婚パーティーで祝福を受けながら、ジャスティンの心は塞いでいく。マリッジブルーなのか、それともメランコリアの接近のためか?
はたして、この作品における巨大惑星の接近は現実なのか、それともジャスティンの心の鏡なのか、どちらにもとれる。
そもそも、あのような惑星が恒星を周回する軌道から外れて、この太陽系にやって来るというのは現実的ではない。あの惑星もまた、同じところを周回することに疲れ果て、ジャスティンのように現実から逃避してきたのであろうか。
ジャスティンの指先から光が空に向かって抜けていくさまは、概念や慣習といった社会のしがらみから心が開放されていくようだ。
ジャスティンの姉クレアは、結婚パーティーに遅れてきた新婦である妹をたしなめる、極めて常識的な女性だ。夫は富豪であり、執事を置くような豪邸に住み、賢い息子にも恵まれ何不自由ない。妹の不調に一定の理解を示すが、夫や招待者の手前、妹の無礼ともとれる言動に怒りを覚える。
冷静で、賢妻・賢母のクレアからすれば、妹は勝手な人間にしか見えない。つい思い余って吐く。「時々あなたのことが憎たらしくなる」
いよいよ、さまよえる巨大惑星メランコリアが地球と衝突する危機を迎える。地球の最後かもしれない日、人は何を思うのだろうか?
ジャスティンは、静かにその時を待つ。何もかも放出して本来の姿になったかのように、慌てず落ち着き払っている。
対して、良識ある人生を送ってきたはずのクレアは、失うものの大きさにうろたえる。安定した世界に浸る心地よさを奪われる苦しみに耐えられない。
ジャスティンとクレアの魂が逆転する。
ジャスティンがクレアを優しく包みこむ。
再び、クレアが洩らす。「時々あなたのことが憎たらしくなる」
メランコリアとは人間を試すために現れた宇宙の“意思”なのかも知れない。
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