ルルドの泉でのレビュー・感想・評価
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宗教色が強いように見えて、実は人間の天使と悪魔の部分を丁寧に描き出...
宗教色が強いように見えて、実は人間の天使と悪魔の部分を丁寧に描き出している作品。
信仰というより、藁にもすがる、賛美よりも妬み。
レアセドゥー目当てで鑑賞。最後イタリア語の歌うたってるの可愛すぎた...
レアセドゥー目当てで鑑賞。最後イタリア語の歌うたってるの可愛すぎた。
話はかなり淡々と進んでちょう眠い。奇跡を信じるとか神のみ心とか、かなり胡散臭いなあと思いながら半信半疑で観ていたら実際に奇跡が起こる。
私が主人公の立場やったら嬉しい半面元に戻るのが怖くてやっていけないと思った。
最後車椅子に座るのはどういう意味なのか。、
2、3回みて考えたい
たんたんと、物静かに物語は進み、ふとした瞬間に終わってしまった感じでした。
でも、気になる点が多くてぜひもう何回か見たいです。とんでもない恭くんが隠れている気がします。
メッセージ性がないことがメッセージ?
ある全身麻痺で苦しむ一人の女性が、ルルドの泉で治療目的の巡礼に訪れ、奇跡的な治癒が起こる話。
通常この手の作品の場合、何らかのメッセージ、あるいは、何か宗教的な意味合いを持たせるものだが、この作品は、ただ、一人の女性の奇跡を客観的に筋書きしているだけなのである。
なぜ、彼女に奇跡が起こったのか。そういうことを表現したり、あるいは、製作者の見解的なことを現さない。そういう意味では実に薄味な作品であると感じられるかもしれない。
しかし、誰が、どういう理由で奇跡が生じるのか、という本当の理由は誰にも分からない。信仰の深さ、正直さ、真面目さ、心の清らかさとかそういう目に見えるありきたりな理由によって、起こるものではない。人間には理解できない理由によって起こるものだ。この作品の製作者は、逆にそのことを表現したかったのかもしれない。
唯一、何かメッセージがあるとすれば、主人公の女性が聖母マリアから奇跡を授かる夢を見たという一人のシスター(?のような人)が、主人公の女性に奇跡が起こる当日か前日かに、作業中に倒れ、そのまま意識が戻らないことが起こるが、それが何か理由づけを持っているのかもしれない。
また、主人公の女性と宿泊で同室の老女が、その必要はないのに、なぜかずっと彼女のお世話のようなことをし、彼女につきまとうのだが、その老女は、もしかすると聖母マリアの意思のようなものに動かされているのかもしれない。
ストーリーは、ただたんたんと進み、終わる。
最後に奇跡に対して疑問符がつく終わり方が印象的でした。
フランスとスペインの国境の町ルルドは、聖母マリアが現れたと伝えられる地。病に苦しむ人々は奇跡の治癒を求め、巡礼者として方々からここに集う。その人々がこの映画の主役です。巡礼者に起こる治癒の体験を客観的な視点で描きつつも、それが果たして奇跡といえるものかどうか、最後に疑問符がつく終わり方が印象的でした。
これは奇跡そのものを否定しているのでなく、あくまで内在する叡知が発揮され、自然治癒力が向上した結果、自らが自らを治したのだという観点なのですね。
いま仏教的な価値感が、西洋にも浸透しつつあります。監督はきっとどこかで仏教に触れられて、内在する仏性の力に気がつかれたのではないかと思われます。
圧倒的な他力の働きで奇跡が起こる様を求めて、本作を見に来た人には、きっと肩すかしを食らうでしょう。
ただ私は、奇跡が起こる条件に、他力の力も否定していません。
禅の言葉に「啐啄同時」というのがあります。卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。
両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、まことに大事なそれだけに危険な一瞬であり啐啄は同時でなくてはなりません。
奇跡が起こる要件として、自らが強く信じる気持ちがあって、祈りと感謝のあるところに、他力の応援があるものでしょう。
だから泉の水を浴びただけで病が治ったという短絡的な発想にはチト疑問が残ります。
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