「「美」はただのパッケージ。重すぎる」ヴィオレッタ とくこさんの映画レビュー(感想・評価)
「美」はただのパッケージ。重すぎる
娘の美貌に取り憑かれた母という謳い文句で、美をテーマにした作品かと思ったが、全く違う。
ヴィオレッタの美しさはただの表紙でしかない。
本編が一貫して描いているものはもっともっと重く、逃れようのない、生き地獄のような苦しみだ。
毒親は連鎖する。
主人公ヴィオレッタの母親も、自分の母に対して「私の存在を否定する」と話している。
最初は自己中心的で奔放な母親が自らを正当化するために被害者ぶっているだけかと思ったが、おそらくこれも真実なのだろう。
主人公の祖母がどんな人物かと言うと、怒る母親と話し合うことも、向き合うことも、“抱きしめることもなく“、ただ神に祈るだけの信心深い人間だ。
母親は祖母の大切な遺品である聖像画さえ、「信仰は持たない主義だから」と言って捨ててしまった。ヴィオレッタからしたらあり得ないことだが、母親の信仰嫌いはこういうところからきているのだろう。
大切な娘であるヴィオレッタに対しても、母親のことを「あの子は悪魔の娘だ」と批判し、自らの罪は見ようともせず、我が子だけを悪者にして信仰に逃げている。
傷つけられるから会いたくないと言いながら、金銭の支援だけは続ける母親。
顔も見たくない、どうでもいいと言いながら祖母が死んだ時は「私がママを救う」と言ったヴィオレッタ。
二人は宿敵でありながら、強い愛情で繋がっている親子であり、似た者同士だ。
母親のヴィオレッタに対する「愛してる」という言葉は、多分、嘘ではない。だが呪いだ。
ヴィオレッタの気持ちを見ない。言葉を受け止めない。声を聞かない。
愛していると言いながら彼女の行動はいつもヴィオレッタを裏切っており、その言葉はいつも、娘を無視している。
ヴィオレッタが母親と糸電話をするシーンは、痛ましくて涙が出そうになった。
彼女は母を憎み、嫌悪しているが、ヴィオレッタの願いは、ただ母と楽しく遊んで、幸福を共有し、優しく抱きしめてもらうことだろう。
母親はただ、カメラを燃やして、あなたが一番大切だと伝えればいいだけだった。あなたが嫌がることはもうしない、私に必要なのはあなただと。
でもそれはできない。
芸術家としての自分は、親から否定された存在である自分を、生きてもいいと許すための、覆せないアイデンティティだから。
毒親問題は、実はとても単純だ。
だが根が深すぎて、その単純なほつれを直すことが、死ぬことよりも難しい。
この映画は、暴力も暴言もネグレクトもなく、娘に絶縁されるほどの憎しみを買った母親を描く貴重な作品だ。
観る側の家庭環境次第でどうとでも表情が変わるだろう。