ベニスに死すのレビュー・感想・評価
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原作以上の出来栄え
原作も読んでいるが、原作以上の出来栄えだと思う。
冒頭のゴンドラに乗っている主人公、マーラーの音楽をバックにゆったりとした流れが、この映画全編の一貫した流れで、それに加え次第に退廃ムードが色濃くなっていく。最後まで芸術色豊かな作品で、映画がすべての芸術作の頂点であることを証明してくれた作品である。
この映画を最初に見たとき、砂時計の砂は常に下に落ちているのに、その変化に気づかない程いっぱいあった。今は、砂が確実に少なくなっていることに気づいたが、既に残り少なくなっている。老年の域に達した今、あの喩えを痛感している自分がいる。
“身の置き所のない主人公”の“身の置き所のある人々”を見つめることに終始付き合わされて…
少し前に、久しぶりに「家族の肖像」を 観たところ、 急遽イタリアやビスコンティ好みの旧友と 会うことになったので、 話のネタにと、この作品も観ることにした。 しかし、主人公の特異な心理設定に加え、 平板なカメラワークと 登場人物にほとんど台詞が無いこともあり、 鑑賞のモチベーションを上げることに 苦労した。 なにせ、 英知や気高さによる健全な努力こそが 美を創造するとの持論の持ち主が、 モラルを超えた中で 天から降臨する感覚こそが芸術を生む、 君は凡庸な芸術家だと友人に論破されたり、 発表した作品が観客から非難された上、 娘を、そして多分妻も亡くし “身の置き所のない主人公”が “身の置き所のある人々”を ただただ見つめるだけの主人公に 終始付き合わされるのだがら。 そんな彼は、ベニスで見つけた 天性の美少年への心の高揚から、 これまでとは異なるかのように、直感的に 作曲に挑むかのように見えたものの、 結局は美少年を求めさまよい歩く中で、 感染症で命を落とす。 しかし、 彼の末期の表情は喜びに溢れた印象だ。 美の降臨性を確認出来、 過去のしがらみから解放された喜びでも あったのだろうか。 「家族の肖像」と共に、 キネマ旬報ベストワンに輝いた作品で、 両作品の主人公は共に、 己に無かった価値観への想いを残したまま 最後には亡くなるストーリーだが、 まだ“身の置き所を維持していた” 「家族の…」の主人公の能動的な生き様の方に 共感出来たような気がした。
眩しすぎる美を前に、闇への恐怖に慄く老紳士。その視点。
老主人公の視線で綴られる。 愛は道化か? 美は生命か? 背徳は罪か? 死は闇か? 美しい衣装が その時代に誘う。 主人公の追い求める理想 貴族社会の美しさの残る その時代を再現した。 台詞のない視線で語る ヴィスコンティの美学。 ※
ただただ美しい
タジオのセリフはほとんどなく、ただ表情のみだが、上手い演技だと思う。 アッシェンバッハの美と若さの憧れは、年を取ってからでないと理解できないと思う。昔ベニスに死すを見た時は、タジオの美しさにだけ魅了されたが、年を重ねてあらためて見てみると、老教授の行動が理解できる。いったんベニスから出ようとした教授が、手違いで再びベニスに戻る事になった時の表情がとても可愛らしい。 ベニスに死す後のタジオ役のビョルンアンドレセン、色々苦労したようだが、私はこのタジオ役のビョルンが好き、そして今のビョルンも好きです。
美に殉死
ギリシャ神話の神様のような、輝く美貌のタージオ少年。子供と大人のはざま、もーほんとにギリギリのところ。つぼみが開き始めたばかり、といった繊細な美しさに、私の胸も撃ち抜かれちゃう。タージオ少年も母親も、変なおじさんがうろちょろして、気味悪がるかと思うと、それほど気になってないらしい。安心してください、手は出しません。 変なおじさんグスタフは、マーラーをモデルにしたらしいが、大地の歌くらいしか知らず、ちょっと検索してみた。なるほど、名指揮者であり、交響曲の幅を広げた人なんだ。天才だけにこだわりも強そう。子供が幼くして亡くなるのも、心臓が弱いのも、そのまんま使うのはどうかと思うが、風貌まで寄せてきてるとは、ヴィスコンティはマーラーに思い入れがあるのか? それはともかく、音楽は素晴らしく良かった。交響曲3番、5番らしいが、フルで聴いてみたい。 美しさは儚いが、脳内でなら鮮やかで消えることはない。永遠の美を抱いて、涅槃で待つ。 日テレの放送を録画視聴。
年取ってから見ると違う味わい
新型コロナに世界が脅かされてからの 鑑賞でまた受け取る感覚が異なる。 病がなくとも、 あれやこれやと辛いことも味わって 今後は日が暮れていくばかりのおじさんと 日の出のような眩しいばかりの若者たち。 自分が彼らに似合うとは思えないので 行動には出ないものの 渦巻く嫉妬にもんもんとする。 萎んでいくばかりのこの先に せめてベニスの美しい夕暮れのような、 くれていくにしろ 美しいものを求めたくなるのは 仕方がない…というか 自分が老いてみないとそんな感覚は 正直分かりにくいだろう。 若いときに観たら、単に美少年にハアハアしてる キモイオッサンでしかない。 そしてこの作品に出たために その後の人生が狂ってしまった 彼が、いま老齢となって何を感じるのかも 気になるところだ。
少年の美しさに自分を見失って・・・
1971年公開(伊・仏・米) 監督はルキノ・ヴィスコンティ。 原作はトーマス・マンの作曲家グスタフ・マーラーをモデルに描いた小説を 「ベニスに死す」を基にしている。 1911年、イタリアのベニス。 心臓の不調のため静養にきた作曲家のグスタフ。 作曲した曲の発表演奏会でこっぴどく酷評され心身ともに疲弊している。 宿泊するホテルで出会った美少年タッジオに一瞬で心を奪われる。 彼は母親とお付きの女性と幼い妹の5人で、ぞろぞろと行動している。 ポーランドの貴族の一家だと言う。 老作曲家が常にタッジオを目で追いかけ、レストランでも、海辺でも タッジオの姿を追う姿はストーカーのようです。 そしてタッジオもグスタフの思いを知るか知らぬか、視線に鋭い流し目で 答えるのです。 季節は夏。 子供たちは砂浜で戯れ砂まみれで遊んでいる。 タッジオはノースリーブに膝までの海水パンツの軽装。 水着だけでも4点は着替える。 驚くのは主人公のマエストロの厚着の正装。 ベストを着込んだスーツ姿で白ワイシャツにネクタイまで締めている。 いかにも厚着だ。 砂浜でもその出立ちで、ホテル内の食事にはタキシードを着込んでいる。 まったく信じられない。 ホテルは冷房もまだない1911年。 女性たちの服装もロングスカートの高そうなドレスに重たそうな 花飾りを山のように盛られたつば広の帽子。 食事をするのもさぞかし食べ難いと思われる。 昔の人は本当に窮屈な生活をしてたものだ。 苺売りのオジさんはポロシャツに長ズボンという軽装。 オバさんもエプロンに膝丈のスカートだった。 きっと服装は身分を現してもいるのだろう。 労働者階級と裕福な中産階級との違いを。 やがてペストの流行が次第にベニス観光に影を落としていく。 町では消毒薬が撒かれて、消毒薬の匂いで満ち溢れる。 それは「死」を連想する匂い。 グスタフも支配人にローマへの帰宅を勧められる。 それでもタッジオの影を目で追うグスタフはもう正気を失くしているのか? 従業員の肩を借りて海辺のチェアーに崩れ込んだグスタフは、 タッジオの幻影を見ながら息を絶える。 マーラーの「交響曲第5番アダージェット」が初めから最後まで流れている。 ルキノ・ヴィスコンティの映画は、美術・撮影・音楽・衣装。 室内装飾などどれもこれもがとびっきり美しい。 金持ちの婦人は顔立ちも美しい。 少年の美に耽溺したマエストロは、幸せだったのだろうか。 2021年公開の「世界で一番美しい少年」を観ました。 この映画の美少年・ビョルン・アンドレセンの50年後の姿を 追ったドキュメンタリー映画です。 時が経つことの残酷さを感じました。
耽美派作品の金字塔
トーマス・マンの原作を、よくぞこれだけ見事に映像化出来たものだ!と、いつ観ても感服する。 アッシェンバッハのモデルはマーラーだとする声が一般的かと思うが(名前、グスタフだからね)原作だとトーマス・マンの自伝的側面の方が強く感じられる。 ヴィスコンティはマーラー風味を強めているが、それは本作にて最も重要な「美」や「芸術性」を表現する幅を広げる事に役立っていると思う。 「完璧なる美の体現者」を見つめる視点にはヴィスコンティ自身の経験や感性が加味されている。 マティーニに例えるならば、ジンがトーマス・マン、ベルモットがマーラー、ヴィスコンティがレモンピールくらいの配合かと思う。 原作の方がドライに近づくってわけだなw映画の方が華やかで誰でも飲みやすい口当たりに仕上がっていると思う。ヴィスコンティはやはり非常に腕の良いバーテンである。 作中ではグスタフとアルフリート(マーク・バーンズ)が芸術論を交わす場面が好きだ。 1900年代前半というのは大学生ならば当たり前に哲学や芸術、文学を語り合う事が出来たであろう。 いや、70年代もまだそうであった。私の両親は高卒で大学進学していないが家には彼らが読破済みの中央公論の世界の文学、日本の歴史、世界の名著などの全集が全巻揃っていた。おかげで私も中学生のうちにそれらを娯楽作品として読み終える事が出来た。 だから私にとってはトーマス・マンもウルトラマンも機関車トーマスも等しく同列に楽しい趣味の話に過ぎないのだが、トーマス・マンだけが知的マウントだ、スノッブだ、との誹りを受ける。 言いたい事も言えない世の中じゃ、まったく窮屈でならない。 せめて映画レビューくらい好きな事を自由に書きたい。 「ベニスに死す」はカフカの「変身」などと同様に19世紀リアリズム小説へのアンチテーゼ作品群と見做される。 (※リアリズム小説・・バルザックやトルストイなど、様々な階層の日常的なキャラクターを登場させ、日々の暮らしを通じて時代や社会を描いた。過剰なロマン主義への反動として誕生) 日常的なリアリズムを超えて、心の奥底に眠る非合理な感情や心情を描こうとしている。 現代ではすでにありふれたテーマかもしれないが、本作が書かれた当時は大変な挑戦であったのだ。 近代科学文明の発達によって「理知」ばかりが重視され始めた西欧文化に潜む欺瞞を指摘し、理性の先にある無意識領域、理性・理屈では割り切れない「心の奥底から湧き上がる情動」を描く本作はフロイトやニーチェの思想にも通ずるところが多い。 アッシェンバッハがタージォに重ねるギリシャ神話のイメージも非常に好みだ。 ニーチェはアポロンに象徴される「秩序や規律を重視するクリエイティブな衝動」とディオニソス(バッカス)に象徴される「無秩序や破壊を求める陶酔的な衝動」の混合こそが人間の本質かつ芸術の本質だと説いた。 秩序・道徳・純潔ばかりのアッシェンバッハに対してアルフリートが主張しているのはまさにこれだ。 しかるに、アッシェンバッハはタージォとの出会いによってニーチェの言葉の意味を心底理解することになる。 アッシェンバッハはプラトンの「ソクラテスとパイドロス(ファイドロス)の対話」に準えながらタージォの「美」を愛でる。 この「対話」では愛(エロース)と少年愛(パイデラスティア)への言及があるがそれは「堕落的な肉体関係」ではなくて「共に真・善・美を探求する愛知者(哲学者)的な友愛関係への昇華を目指すべきだとプラトンは述べている。 アッシェンバッハは当然ながら、そうあるべくタージォを見つめているのであろうが、そこには紛れもなくタージォの「美」に起因する「陶酔」がある。 秩序・規律の忠犬だったアッシェンバッハにとってタージォの「美」はすでに薬の域を超えて「毒」であった。コレラの危機を知りながらもタージォから離れられないほど、甘美な陶酔の虜になっていた。 それにしても驚くのはビョルン・アンドレセンの存在だ。 彼なくして、この名作の誕生はあり得なかっただろう。 (私にとって「ベニスに死す」は人格形成期に多大な影響を与えた作品の1つなので2021年のドキュメンタリーで初めて知った事柄に関しては本作のレビューでは触れない事にする) 日本でも竹宮惠子、萩尾望都、木原敏江、魔夜峰央、大島渚などに本作が与えた影響は計り知れない。その結果、彼らが生み出した作品群は日本中、世界中に更に大きな影響を与えた。あたかも波紋が大渦にまで広がったかの如くだ。 ヴィスコンティは神話世界の幻想性を背景に、道徳や倫理に敢えて背を向け破滅的なまでに「美」に傾注するさまを鮮やかに映像化した。 神々しいまでの美が輝く中、熟れきった頽廃の果実の濃密な香りが立ち込めていそうな矛盾すらもが映像から感じられる。 ヴィスコンティの匙加減が原作の配合バランスを僅かに組み替える事によって、ワイルドやボードレールに匹敵するデカダンな耽美派作品の金字塔としての本作を生み出したように思う。
トーマス・マンがどんな性合なのか知らないが、この映画を見て、単なる...
トーマス・マンがどんな性合なのか知らないが、この映画を見て、単なるゲイの話ではないと、僕は思った。
寧ろ、死を間近にした者が、迎える事になる状況を、走馬灯の如くに描いたストーリーだと思った。
間近に施した化粧は、死化粧だと直感できる。セリフにも『老いる事の醜さ』と言った様なセリフがある。つまり、この少年の姿は、はるか昔の自分の姿を見ているのかもしれない。
この映画の原作はまだ読んでいないが、『魔の山』は読んでみた。長編なのでテーマはいくつもあるが、大きなテーマはやはり『死』であったと感じた。因みに『魔の山』の『ハンス・カストロプ』は結核を患いなから、ある方法で死を選ぶ行為を選択する。それで話が終る。『魔の山』は『ベニスに死す』の関連作品と言われる。
さて、よくよく考えれば『死す者』が物語なんか書けるわけないのだから、死を前にする走馬灯の様な瞬間を示しているのは明確だと思うが。
さて『ビョルン・アンドレセン』は僕と同世代なので、この物語の主人公の年代を迎えている。美少年は今どう思っているのだろうか?ネットで、彼の姿を拝見してはいないが、言うまでもなく、ただの爺なはずだ。勿論、死化粧はしていないだろうが。僕はこの映画を始めて見て、なんだか分からなかったが、今になって、わかるという不思議な話。でも、分かるのがつらいよ。
兄妹や母親はただの置物見たいな役割なのに、シルヴァーナ・マンガーノって可笑しい!?でも、ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレじゃ存在感が大きいか?やっぱり『にがい米』級なんだね。
我が亡き父はシルヴァーナ・マンガーノのファンだと良く話してくれた。その理由は『にがい米』を見れば直ぐに理解できる。
タッジオの存在感
男性か女性か全くわからない、そんな10代後半の美しい中性的な男性に会ったことがある。同世代だったのだが、目で追ってしまったり、話すときにどぎまぎしたり、そんな自分に戸惑った記憶がある。 ほんの僅かな期間のことで、本人が意図するものではない。しかし、そんな刹那的なアンバランスさが目を引いてしまうのだろうか。 この映画の主人公もも、タッジオに自然と目が吸い寄せられてしまう。彼が主人公に何かしたわけではない。言葉すらかわさない。しかし主人公は狂わされていく。 その流れに、いつの間にか抵抗を感じなくなり、ラストを当然のように受け入れてしまう不思議。まるで主人公の自意識に取り込まれたような感覚だった。
美しい映画です
大学時代に早稲田松竹で観ました。なんといってもマーラーの5番が良かったです(そこ?)。 タージォとその母親が美しかったですね! 貴族を描かせたらヴィスコンティに勝てる人はいません。本物の貴族ですからね。衣装、丁度は全部本物だそうです。貴族のエキストラは全員が監督の友人の貴族だそうです!! 私は一時期、ジゥジアーロデザインの愛車を「タージォ」と呼んでいました(バカ)。
あれ?タッキーじゃんなんしとん?こん
なとこで。 え?ワールドプレミアのあと集団の大人にもてあそばれた!? それは (俺の人生恵まれてる、時代ガチャでラッキーで国ガチャでラッキーで。) 時代と共に人間は少しずつ 顔が変わっていくから 今と同じかそれ以上の美人が当時いた事に驚いた( Д ) ⊙ ⊙! ジャニーズは世界共通だった!
人生の最期に出会った美少年
ダークボガード扮する作曲家グスタフフォンアッシェンバッハ教授は、心臓が弱っていて静養のためリド島にやって来た。そこで偶然ビョルンアンドレセン扮するタッジオと言う名の少年に会い魅せられた。教授は急遽島を出てミュンヘンへ帰る事にしたが、荷物が誤送されたため島へ戻る事になった。 どこか情緒不安定な教授が人生の最期に美少年に出会ったと言うだけの話。かつてビョルンアンドレセンが話題になった覚えがあったが、つかみどころが無かったよ。
圧倒的な美と生命力に溺れてしまった男?
《お知らせ》 「星のナターシャ」です。 うっかり、自分のアカウントにログインできない状態にしていまいました。(バカ) 前のアカウントの削除や取り消しもできないので、これからは 「星のナターシャnova」 と言う名前で 以前の投稿をポチポチ転記しますのでよろしくお願いいたします。 ============== タイトルとギリシャ彫刻の様な美少年の映像で有名なこの映画。 午前10時の映画祭で観なければ、 多分観ることはできなかったかもしれない。 映像に拘るビスコンティーの作品だけに、 とにかく全ての衣装や調度が美しい!! 美術館のヨーロッパ絵画がそのまま動き出した様な画面。 通りすがりの貴婦人たちの衣装もさることながら やはり主人公グスタフを魅了してしまうタージョの衣装! その姉妹達の衣装もなんと上品で可愛い〜〜 ちょっと難しい映画だけど、 美しい映像体験として観ても良いと思います。 で、月に8回程映画館に通う中途半端な映画好きとしては 芸術家が創作活動にも家族関係にも行き詰まって、 何かを変えようと思った時には もう自分の命の終わりが近づいていた〜 と言う話だと私は思いました。 最初の方に出てくる砂時計の話が象徴的で 「昔、家にあった砂時計は砂の落ちる穴が小さくて 砂が減って行く様子がほとんど判らない。 気が着いた時はもうほとんど砂が残っていない。」 いろんなものに行き詰まっていたグスタフ。 そんな時に出会ってしまった美少年タージョ!! 単なる美少年では無く ギリシャ彫刻のアポロンの様に 圧倒的に神々しく生命力に溢れた美少年〜〜 彼は奥さんも子供いたし、ゲイという訳ではなさそう〜 自分が見失ってしまった完全無欠な美と溢れる生命力の塊〜〜 中年男はそのパワーに魅了されてしまったんだな〜 その感じはなんと無く解る。 とても残酷で悲しい話よね〜〜。 それにしても、 そんな高尚な映画にも関わらずおばちゃん目線としては いくらリゾート地とは言え、四人も子供のいる母親が (末っ子はまだ6〜7歳に見えたけど) 伝染病の噂の流れてる街になんでいつまでも居るの?? トットと離れるでしょ!! 周りの人たちがどんどん離れていって、 賑やかだったビーチも最後は10人も人が居なくなってた。 家庭教師らしき女性もなんで、浮浪者が屯ってる街を 子供と女性だけでウロウロしてるんだろう!! 哀れな主人公のおっさん以上にそこが気になってしまった。 そういう所を突っ込む映画では無いのは重々承知だけど 気になっちゃたら仕方ないよね〜 @もう一度観るなら? 「何年か後にまた企画上映があったら映画館で〜〜」
二度目の鑑賞で感動
若い頃にちらっと観た時は、タージオの美しさよりも、主人公のおっさん、化粧なんかして気持ちわるっ〜って印象が悪かったのですが、、、。
NHK BSにてじっくり鑑賞したら、あ〜私も老いたのね。もうすっかりアシェンバッハの気持ちがわかる、わかる。次はいつ登場するのかタージオ一家の出番を待つばかり。笑笑 高貴とクールの中にある彼の微笑みは本当に美しい。
そして、母役のシルヴァーナ、マンガーノの衣装と佇まいにもうウットリ。あの時代の貴婦人方は、あんなに大きなお帽子を被ったままお食事なさるのね、重そう〜笑笑。もう見せ合いっこの世界ですね、荷物になるだけなのに。(あ、それも下僕の仕事でしたか。)
アシェンバッハは一度、島を離れる事になり、手違いで荷物が誤送され、怒りまくってたのに、ホテルに戻る渡し船の中で、もうウキウキが止まらない笑顔になってゆく、わっわかるわぁ〜。
伝染病の事を、「失礼ながらマダムー」と助言する想像のシーンがとても素敵で良かったです◎
彼に触れる事ができたのだから。
娼家の少女が片足でドアを蹴って閉める動きに迫力あり、夜の合奏団の男のうるささと不気味さ、裏通りの街の汚さ。
美と醜悪の対比
美しいマーラーの曲と、アシェンバッハの切なさは迫るものがありました。でも彼は幸せなラストだったと思います。あんなに愛おしく思ってる人を眺めて亡くなるのだから。
改めて観て、とても良かったです◎
【耽美的で、蠱惑的で自己献身な老楽の恋を描いた作品。当時15歳のビョルン・アンドレセンの魅惑的な微笑みと流し目にヤラレタ作品。】
ー 久方振りに鑑賞した。そして、内容を殆ど覚えていない事に驚愕した。 故に、初鑑賞の様に新鮮な気持ちで鑑賞した。 再鑑賞した理由は分かり易く、先日鑑賞した「世界で一番美しい少年」を見たからである。 当時15歳のビョルン・アンドレセンは、矢張り美しかった。- ◆感想 ・今作の老作曲家アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)が当時50歳であった事に驚く。 - 私も、あと数年すると”老”が付くのか・・。 嫌々、時代の流れであろう。 今観ても、ダーク・ボガードは十二分に若々しい。- ・ルキーノ・ビスコンティ監督が、血眼になってタージオ役(先日の映画の翻訳ではタジオとなっていたが、今作では”タジョ”と聞こえた。)を探した理由が良く分かる。 今作品は、ビョルン・アンドレセンの耽美的で、蠱惑的な美しさ無くしては製作しえなかった事が良く分かるからである。 - 日本で言えば、赤江瀑の小説群に登場する美青年達を想起させる。- ・老作曲家が静養に来ていたベニスから荷物の発送間違えで、足止めされるシーン。 - 抗議をしつつも、明らかに嬉しそうである・・。理由は明白。 自分の命が短くなることも知らずに・・。- ・そして、老作曲家アッシェンバッハは流行していたアジア・コレラに感染しつつも、床屋に行き身なりを整え、タジオの母に、この地を離れた方が良いとアドバイスをするシーン。 ー 老作曲家の不自然な顔色。音楽会での散々の出来。 それでも、彼は息絶えるまで、リドの海岸で戯れるタージオの姿を目で追っているのである。ー <今作は、間違いなく先日鑑賞した「世界で一番美しい少年」を見ていなければ、印象は変わったであろうと思う。 初見時の記憶が無いのであるから・・。 今作の陰の主演であり、デビュー作でもあったビョルン・アンドレセンが今作出演後、どの様な人生を送ったのかは、「世界で一番美しい少年」で綴られている。 併せて、観賞したいモノである。>
精神性の敗北に美しい形象を付与した稀代の傑作
本作は、初老の芸術家が美に陶酔し、美に殉じ破滅していく姿の美を描いた耽美主義映画である。ことさらストーリーを書くのも気が引けるが、映像が寡黙であるため、ここで原作の内容を紹介しておいたほうがいいだろう。
〈原作のあらすじ〉
主人公の老小説家アシェンバッハは避暑地ヴェニスで14歳くらいの少年に出会う。その印象は、「自然の世界にも芸術の世界にもこれほどまでに巧みな作品をまだ見たことはない」と思わせられる美しさで、彼はその夜、「あとからあとからいろいろのこと」を夢に見る。
次に会った時、今度は「神々しいほどの美しさ」に度肝を抜かれる。
やがて何度も海水浴場で見かけるうちに「小さな肉体の、あらゆる線、あらゆるポーズを知悉し、いくら感嘆してもし足りず、いくらやさしく味わい楽しんでも楽しみ足りぬ」というほどに陶酔しきってしまう。
これはもう、完全に恋愛である。しかし、この頃はまだましだった。「美とは人間が精神に至る道であり、ただの手段に過ぎぬ」と考える余裕があったからだ。美など、アシェンバッハが刻苦勉励して築き上げた精神世界に至る入口程度のものだと。
しかし、出会ってから4週目に入る頃には、彼は少年一家の散策をこそこそ付け回すようになっている。
一方、ヴェニスは滞在当初から「ものの腐ったような匂いのする入江」であり、「不快に蒸し暑く、空気は澱んで」いたのだが、今では町の中心部に消毒剤の臭いが漂い、事情通のドイツ人たちはすっかり引き上げてしまった。
原因を追究したアシェンバッハは、それがコレラの蔓延であると教えられ、ただちに引き揚げるよう勧められる。今ならまだ「自分が再び自分の手に戻ってくるかもしれぬ」と彼は思い惑い、しかし、そうする代わりに留まることを選択してしまうのだ。
今や彼は、美から精神に至る道は「本当に邪道であり、罪の道であって、必ず人を間違った道へ導く。われわれにはただ彷徨することしかできない」と、狂躁した頭脳で思いめぐらす。
美に踏み迷ったアシェンバッハは、もはや精神世界などそっちのけで美を享受することに全精力を傾けるだけであり、彼の芸術はたった一人の少年に敗北したのである。
さらに彼は少年に気に入られようとして、かつて唾棄するほど軽蔑した若作りの老人と同じ化粧を施し、少年一家の後を追って病んだヴェニスを彷徨し、最後には「腰から手を放しながら遠くのほうを指し示して、希望に溢れた、際限のない世界の中に漂い浮かんでいる」少年を追おうとして砂浜に立ち上がったところで、コレラにより絶命してしまう。
〈美学・芸術論について〉
原作でアシェンバッハの内面の葛藤として描かれている美学・芸術論を、映画はアルフレッドなる友人を登場させ、アシェンバッハと議論させる形で表現している。
「美は精神的な営為によって生まれる。感覚への優位を保つことによってのみ英知、真理と人間の尊厳にたどり着ける」というアシェンバッハは原作の通り、自然美より精神性により生まれる美を優位に置いている。
これに対しアルフレッドは、「美は感覚だけに属し、芸術家が創造することなどできない。英知、真理、尊厳――そんなものが何になる」と彼を批判する。
友人の意見は、アシェンバッハが少年に出会った結果、その芸術観を揺るがせていく過程の比喩である。彼が少年に惹かれれば惹かれるほど、その批判は手厳しくなっていく。
「芸術は教育の一要素」と言うアシェンバッハに対し、友人は「芸術は個人道徳と無関係。汚れに身を晒し、道徳から解放されれば、君は最高の芸術家だ」と、彼を堕落と狂気に誘い、その結果、アシェンバッハは醜悪な化粧に手を付けてしまう。
末尾に近くアシェンバッハの公演が失敗に終わるのも、現実というより己の芸術が敗北した自覚の比喩だろう。だから友人の最後の声は死刑宣告の悪夢と化すのである。
〈評価〉
ヴィスコンティ監督は、主人公の職業を小説家から音楽家に代えたこと、美学・芸術論の内容をいくらか変更させていること、主人公の妻子や売春宿シーンを追加したこと等を除き、この映画を原作に忠実に作っている。したがって、上述のストーリーはほぼそのまま映画作品のストーリーと考えてよい。
結局のところ、本作は精神性が美に敗北する耽美主義の映画という結論になるが、ここで何より素晴らしいのは、腐敗臭と消毒剤、汚染物を焼却する煙にまみれたヴェニス、コレラを病む古都の頽廃の美が、見事に映像化されていることである。
ことに醜悪な化粧を施した主人公が、汚染物を焼却する炎と煙に巻かれた迷路のような街並みを、病に侵され弱った足取りで少年一家を付け回す狂躁と徒労に、観客は惹きつけられてしまう。
果実は腐りかけがいちばん美味いという。全編を通して流れるマーラーの第5番は、敗北した芸術家の辿る腐敗した街並みと響き合い、甘美な頽廃とでもいうべきものを伝えてくるのである。精神性の敗北に美しい形象を付与した稀代の傑作だと思う。
監督の罪は消えないが、アッシェンバッハの恋とビョルン君の美貌もまた永久に不滅です。
2月か3月?に、原作を読みました。 (長い上に抽象的だから好みは分かれそうだが、読んでから映画観た方がいいかも) 実は学生の頃に借りて、画像不良かな?冒頭でストップしてずっとそのままだったのを、約15年越しでようやく最後まで鑑賞。 マーラーのアダージェット(シンフォニー5番4楽章)が素晴らしい、、この映画の魅力は、ビョルン・アンドレセンの美貌とアダージェット、そしてダーク・ボガートの好演に尽きると思う。それから、対象をパッと映すのではなく、ゆっくりズームアップしていくクラシカルで貴族的(?)なカメラワーク。 映画でアッシェンバッハは作曲家というテイになっていたが、原作では作家。色んなバリエーションのケンタウロス風のクリーチャーが狂乱の宴といった感じで押し寄せてくる、かなり不気味な悪夢を終盤で(アッシェンバッハが)見るのだが、映画ではお上品に脚色してあった。(原作のヤツはCG使わなかったら相当チャチなものになるし、、ヴィスコンティの美意識に合わなそう) 夕方、空きっ腹にアルコールを流し込んで物語の続きを読み、めくるめく退廃と蠱惑の世界に浸るという愉しみを原作に与えてもらいました。 ただ、いかんせん山場に乏しいというか、、雰囲気を楽しむ作品だから、、正直アダージェットがなかったらこの映画もだいぶ地味だったろうなと。 (映画『さくらん』が、なまじストーリーが平板なだけに、ほぼ椎名林檎のPVと化してしまった事と似ている) 当時まだティーネイジャーだったビョルン君が、修業と称するヴィスコンティの手でパリのゲイコミュニティに放り込まれ、玩具として消費されていたことが最近のドキュメンタリーで明かされたそうな。 世界的な監督&名門貴族だからと誰も逆らえなかったらしい、と。 当時はたぶん今以上に、同性からの性被害は真面目に取り扱ってもらえなかったろうな、、美少年の宿命かミソギぐらいに捉えて黙殺したんだろうな、、 うちの親とほぼ同年だけど、だいぶ年上に見えてしまう現在のビョルンさん。過酷な半生は深い皺として刻まれてるけど、告発は勇気ある行動だし、この映画はビョルン・アンドレセンの美貌なしには有り得なかった。そう思います。
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