「懐古趣味に浸らず現実に立ち向かっていくメッセージに共感しました。」ミッドナイト・イン・パリ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
懐古趣味に浸らず現実に立ち向かっていくメッセージに共感しました。
なんて素敵にパリのエスプリに酔わせてくれる作品なんだろうと思いました。オープンニングからして、パリの町並みを、朝からミッドナイトまで、音楽を交えながら切り取って映し出しています。その美しい映像には監督のパリに憧憬する思いがたっぷり込められているように思えました。
ある意味でフランス映画よりもフランス的。きっと外国の監督の方が、フランスのいい面をよく見ているのかもしれません。それは日本でも日本文化を研究している外国の方の法が感性が研ぎ澄まされているのと一緒です。
そして、本作では主人公のギルが5度もタイムスリップして、フランスの著名芸術家や文人たちと交流するというファンタジーとなっています。なぜタイムスリップするのか全く説明がない中で、毎日決まった時間に迎えが来る古めかしいプジョーに乗車するだけで、1920年代のパリにワープしてしまう設定は、少し間違えば違和感を感じてしまうところでしょう。けれどもポールが立ち寄るカフェやサロンは、ヘミングウェイやフィッツジェラルド、コール・ポーターがそこにいるのが当然という、彼らなりの自然な佇まいで登場するので、ポール同様に観客も監督の用意した設定に引き込まれてしまうのです。まるでアレン監督の魔法にかけられているような感じでした。劇中でもたっぷりと赤ワインやシャンパンがポールに振る舞われます。観客もホールと同様に映像の雰囲気にほろ酔い気分になってしまう作品なのかもしれません。
ところで本作にとても好感が持てたのは、タイムスリップを重ねる中であることに気づき、人生の生き方を変えるギルの心境の変わり方でした。懐古趣味に浸らず。現実に立ち向かっていこうとする本作のメッセージには、多いに前向きに生きていこうと感じさせてくれるものがありました。
とかくタイムスリップものは、過去にどっぷり浸り、ノルタルジックな気分を強調しがちです。ギルも当初は、現代を捨てて、過去の世界に浸ることがことができればと思っていました。過去の世界は、ギルにとって理想郷とも呼べる憧れの時代だったのです。しかし、その時代に生きるピカソの恋人であり、ギルが次第に惹かれていくアドリアナにとっては、当時は2000年代に生きるギルと同様に退屈な日常にしか感じていませんでした。 アドリアナを誘って1890年のパリへタイムスリップしたとき、自分と同じようにこの時代がいいと言い出すアドリアナの物言いに、ギルは過去への憧憬は現実逃避ではなかったかと気付くわけですね。
そして見渡せば、1890年のカフェにいたダリなどの文化人も、もっと昔のルネッサンスの時代がよかったという。懐古に囚われれば、どんどん昔のほうがよかったという現実否定に歯止めがなくなって、きりがないということにギルは気付いたわけなんです。
冷静に考えれば過去がいいばかりではありません。むしろ文明の発達が遅れている時代では、コレラの流行に対処できなかったり、どこに行くにも交通手段の発達がまだで時間のかかることばかり。きっと1890年代に暮らしても、またまた不満が出てしまうだろうとギルはアドリアナに忠告するのです。仏教でいうと「足ることを知る」ということですね。幸せの青い鳥は1920年のパリに住んでいると憧れていたギルが、タイムスリップを重ねる中で、掴んだものは自分のなかで本当にやりたいと願っている現実に立ち向かっていくことでした。
こころが変わると自然と環境が変わるもの。アドリアナと別れたギルは、パリの永住を決済します。あくまでパリの永住は非現実的と退けるイネズと口論になり、婚約解消に。結局は、婚約自体が惰性の産物でしかなく、いつの間にか現実から遊離した関係となっていたのでした。
しかしお話は、ここで終わりではありません。一つの運命の扉が閉じるとき、新たな運命の扉が開きます。ギルが愛してやまなかった光景、ミッドナイトのパリを雨がロマンチックに濡らしていくとき、ギルに新たな出会いが待ち受けていたのでした。
嗚呼「人生万歳!」。