「荒れ狂った自転車少年。 痛みと傷にそっと寄り添うベートーヴェンの調べ。」少年と自転車 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
荒れ狂った自転車少年。 痛みと傷にそっと寄り添うベートーヴェンの調べ。
場面転換のたびに、静かな、抑制された弦楽が流れる。
それも短くカットされて。
極めてゆっくりのテンポで。
同じ曲が何度か繰り返しで鳴っていた。
お気づきだったろうか。
これは「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番」。その第2楽章の冒頭の、ほんのさわりの部分なのだが、
それがあまりにも短い引用でフェードアウトされており、またそれでも
あまりにも甘美な響きなもので、宗教曲か、あるいはモーツァルトの何かのアリアの伴奏かと思ったほどだ。
そしてこのメロディは、荒れた少年のいるこの情景には場違いで、似つかわしくない。
怒りと悲しみの思いから激しく自転車を漕ぐ少年のシーンに不釣り合いなのだ。
違和感があるのだ。
しかし、
このサウンドトラックの曲名を知る人ならば判る仕掛けが、この選曲には隠されてある。
ダルデンヌ兄弟監督は、この傷だらけでこの荒んだ少年に、
その 血をながしているその生き様と、 辛い物語に、
この緩徐楽章(アダージョ)による「安らぎの時」を、選りすぐりに選んで静かに聴かせてくれる。
それはまるで優しく降りてくる夜露の包み込みのようだ。
繰り返し繰り返し、慰めを授けているのだ。
いつの日か、そういつの日か、その弦楽の繰り返しの最後には必ず「まだ聴こえていなかったあの美しいピアノが鳴り始めるはずなのだ」と、聴き手に待望させる仕掛けだ。
つまり、このアダージョの数回の繰り返しのあとには、「物語の結末はきっと平安なものとなるはずだ」と我々に信じさせてくれる“ネタバレの選曲”を、
監督が約束してくれているわけだ。
徹底して暗く、先の見えないシリルの人生に、誰かが幸せをいのっていてほしいと監督はきっと考えている。
この選曲は、
愛ゆえだと思う。
監督の、この少年に注がれる眼差しの優しさゆえだと思う。
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映画の構成 ―
◆自分を捨てた父親への、強烈な不安と思慕。そして失意の「第1楽章」。
◆父親を失い、こんどは兄的存在に憧れて、麻薬密売人の少年についていってしまう「第2楽章」。そして、
◆里親を買って出てくれたサマンサへの愛情と責任感の萌芽で物語が終わる「終楽章」だ。
「少年と自転車」なぞと云うこの題名を見て、なんの前知識もなかった僕である。
おそらく子どもたちの無邪気な冒険物語とか何かだろうと思っていた。
が、父子家庭が崩壊してゆく瞬間の残酷なさまを直視させられるのだし、
父親と自分を繋げてくれる縁=よすがだった自転車が繰り返し盗まれてしまうという、哀しみの物語だったわけだ。
うちにも里子として預かり、僕とは兄妹として育った子たちがいた。
仏伊伯の共同制作。
フランス映画独特の冷めて突き放す非情さと、
イタリアの哀切がないまぜになった傑作だと思った。
もちろん1948年のネオリアリズモ、「自転車泥棒」の記憶を、スタッフたちが共有していない筈はない。
本作は2003年に日本を訪ねたダルデンヌ監督が、日本の児童養護施設を訪れ、
「生まれたときからこの施設で暮らし、迎えにこない親の姿を待って、いつも屋根の上にいた子供の話」を聞き、
この脚本を書いたのだそうだ。
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シリルは、
サマンサのために、
そして今度は自分自身の人生のために、
まだこんなに幼いのに、
あまりにも早い自立となってしまった彼なのだが、
ラストは己の足で、ペダルを強く踏んで、新しい道を進み始めるシリルを見送るところで
映画が終わる。
そして、ピアノが、鳴り始める。
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エンディング曲:
ベートーヴェン ピアノ協奏曲5番「皇帝」第2楽章Adajio um poco mosso (アルフレッド・ブレンデル+ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、指揮ベルナルド・ハイティンク/動画はブレンデルの上半身写真とピンクのラベルのもの) 。
他のピアニストの演奏よりも遥かにゆっくりだ。
鍵盤のこの下降音は、静かに天からくだるようなパッセージ。
シリルの心にも、そして
屋根の上の子どもたちにも染みて、
慰めが与えられるようにと
祈るかのような演奏だ。
とうとう耳が聴こえなくなったベートーヴェンが、それまで続けてきた自身のピアノでの初演発表を初めて諦めた一曲でもある。
その事を知ると、またさらに胸が痛い。