劇場公開日 2012年7月28日

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ダークナイト ライジング : 映画評論・批評

2012年7月24日更新

2012年7月28日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー

暗黒と暗黒の正面衝突。捨身の力技に脱帽する

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世界には2種類の暗黒がある。強い暗黒と弱い暗黒。外向的な暗黒と内向的な暗黒。

ダークナイト ライジング」のクリストファー・ノーランは、弱い暗黒や内向的な暗黒を切り離した。もちろん、意図的な削除だ。

すると、どうなるか。

強い暗黒と強い暗黒が、正面衝突する。外向的な暗黒と外向的な暗黒が、真っ向から激突する。善と悪の戦いではない。光と影の戦いでもない。あえていうなら、悪と悪の対決であり、影と影の内戦に近い。

この映画には、不思議なほど善人が出てこない。内気な弱虫や傷つきやすい臆病者も出てこない。主人公クリスチャン・ベールや敵役トム・ハーディはもとより、脇役のひとりひとりに至るまで、カリスマ性はみごとに欠落している。彼らは、泥をかぶったり手を汚したりすることを恐れない。繊細ぶった気取り屋などはどこにも見当たらない。

ラフな映画に聞こえるだろうか。ニュアンスを欠いた力任せの大作に聞こえるだろうか。

そうではない。ここがきわどい分水嶺だ。

ノーランは、確信犯的に陰翳を爆破した。本来は好んでいるはずのエロスやユーモアも、思い切って省いた。むしろ彼は3部作最終章にふさわしい黙示録的世界を展開し、前2作で処理しきれなかったミステリアスな部分を、すり鉢でつぶすように解き明かした。そして、感覚の組織的錯乱に通じる悪夢のセンセーションを、画面いっぱいに弾けさせた。

その結果、めったに見られない「エピック・ノワール=暗黒叙事詩」が出現した。ディケンズの混沌やスウィフトの超越をところどころで匂わせつつ、「ダークナイト ライジング」は胸に響くパワーで驀進(ばくしん)する。この映画は、たんなる大音量のヘビメタではない。交響曲の全弦合奏だ。さらにいうなら、器楽と声楽が合体して伽藍(がらん)を築くロ短調ミサの世界だ。日ごろは抑えの利いた器楽曲を好む私も、このスケールと、ほとんど捨身の力技には脱帽せざるを得なかった。

芝山幹郎

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