サンザシの樹の下でのレビュー・感想・評価
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まんまと泣かされました。
主人公の静秋役のチョウ・ドンユィが、「少年の君」のヒロインだったことを後で知り、納得しました。とにかく、可憐で初々しい。
そして、孫役のショーン・ドウがまたいい!あの嫌味のない爽やかさ。
この奥手な2人のやりとりを見て、
谷川俊太郎の詩の一節、「何故やっちまわないんだ早いとこ」というのが思わず浮かんでしまいましたが、まあ、このもどかしさが、ノスタルジーでもありました。
サンザシの絵柄の洗面器や、金魚のアクセサリーで幸せになれた時代、自分自身にだって確かにあったはず。
描かれているエピソード一つ一つが押し付けがましくなく、心に自然と染み込んできました。
それでも、ストーリー自体は、白血病が出てくるあたり、ベタ中のベタ。泣くまでには至らなかったのですが、ラスト寸前にひっくり返されました。
病院が定期検診と言い張っていたのは、そういうことかと思い、主人公の涙ながらの呼びかけに(しかも、相手の名前ではなく、自分の名前しか呼べない切なさに)胸が詰まってきたところに、アレがきて、一気に涙腺崩壊。まんまと泣かされてしまいました。
全編通して、落ち着いたトーンの色彩が美しく、農村に向かうバスまでが素敵に見えました。病院を追い出され、門の外で一晩過ごすシーンも、素晴らしく美しかったです。
文化大革命時代の中国の純愛。不勉強で文化大革命をよく理解できていな...
文化大革命時代の中国の純愛。不勉強で文化大革命をよく理解できていない。それでも恋愛メインなので見るにはあまり困りません。
薄幸顔のお子ちゃまヒロインが純愛にぴったり。青年の方も好感度よし。
入院、来たよまたまたど定番の展開。新鮮味に欠ける。という訳で号泣とはいかなかった。
健気で心が洗われる様な純愛
チョウドンユィ扮する女子高生ジンチュウらは農村実習に派遣され西坪村に着いた。ジンチュウはサンザシの樹について調べて書こうと思っていた。毛沢東時代は革命のためにが合言葉になってる様だね。
中学生の様な素朴な恋愛かな。健気で心が洗われる様だね。でも母親が25歳まで恋愛は駄目だなんてさすが中国だね。実話の映画化らしいが、静かなトーンで展開しながら悲しい純愛だったね。
【”一生、君を待ち続けるって言ったじゃない・・。”文化大革命の中での淡く儚い恋物語。内気な少女静秋を演じたチョウ・ドンユイのどこか寂し気で、けれども笑うととても愛らしい表情と、ラストに涙した作品。】
■1970年代初頭、文化大革命の渦中にある中国。
国策によって農村実習に派遣された女子高生・静秋(チョウ・ドンユイ)は、泊めてもらう事になった家で、地質調査員の一員として村に来ていた孫(ショーン・ドウ)という青年と出会う。好意を隠さない彼に静秋も次第に引かれていく。
だが静秋の父は、党の思想に背いたのか労働改造所送りとなっており、母も再教育を受ける身。
一方、孫は共産党の幹部の息子であり、裕福で快活な青年であった。
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
■ご存じの通り、チャン・イーモウ監督は、思想制限のある中国で数々の名作を世に出して来た。
それは、今作を観ても分かるが当局を刺激するような表現をしないからである。
だが、私はチャン・イーモウ監督は、若き頃は反文化革命思想を持っていたのではないかと今作の様な作品を観ると思ってしまうのである。
・静秋と孫の儚い恋心を表すシーンの数々。
ー 例えば、二人が病室でベッドを共にするも、孫は静秋の着衣の上から、優しく撫でるだけであったり、川を挟んでお互いに抱擁のポーズを取るシーンであったり・・。-
・今作の魅力は矢張り若き、チョウ・ドンユイの表情であろう。彼女の魅力は「少年の君」を観ても良く分かるが、控えめで、どこか寂し気で、けれども笑うと、とても愛らしいのである。
・静秋が孫の健康状態を心配するシーンでも、明かに白血病になる仕事をしていた孫の姿をサラリと見せる。
ー ここでも、チャン・イーモウ監督は静かなる”マオ・ツー・トン全盛時代”の民を改革の名の元、犠牲にした憤りを表現していると、私は思うのである。-
<今作のラストは切なすぎる。
静秋と孫は3日間の逢瀬をし、写真館で写真を取り、孫は静秋に”青ばかりではなく、赤い服も着てよ。”と言って真紅の布を買って上げ、世間体を考え暫く会うのを止める二人。
けれども、悲劇は突然やってきて・・。
真紅の服を着て病院に駆け付けた静秋の前には、息絶え絶えの孫のやせこけた姿。
そして、孫が見ていた天井には且つて二人が写真館で一緒に撮った笑顔の写真が貼ってあるのである。
今作は、繊細で、儚くも美しい映画である。>
浪花節だよ人生は。
酒井美○さんに似た女優さんだと思った。しかし、社会主義を懸命に支える女性戦士と言うキャラクターては、似合わないキャストだと思う。
この映画の主旨は、文化大革命と言う過酷で無慈悲な社会を『毛沢東』の教えを忘れずに賢明な中国人民は耐えた。と言う事だろう。さて、
それはともかく、
相変わらず、こう言ったお涙頂戴映画を、事情を知らずに日本人は喜んで見る。つまり、自分が『中国人』や『そう』でなくて、平和で良かったが根拠になっている。
抗日運動や中国大飢饉や文化大革や天安門事件が、どんな悲惨な時代であったか考えると、この二人の不幸な事など泣く価値も無い。
兎に角、この監督は、日本の山田洋次や市川崑、そして、レニ・リーフェンシュタールに似ていると僕は感じた。
あと、まだ、30分もある。全く緊張感が感じられない映画だと思うが。中国四千年の歴史を、どこでもある純愛劇で誤魔化してもらいたくない。
追記 途中『二人組に騙され妊娠させられた。だから、中絶する』と言った場面が出てくるが『四人組』と『一人っ子政策』の正当性を語っているように感じた。
演出も演技も臭過ぎる。浪花節だよ人生は。
白血病ではなくて、文化大革命で『粛清された』とかだったら、理解できるけどね。ベットに横たわる姿と、人民服着込んだ党幹部の姿を見ると、そう見えるけどね。多分、白血病でなければ、当局が許さないのだろう。さて、
北京オリンピックを撮った監督と言う事で、彼の真価が分かる。
流れる川。清流の水音と水面のきらめきが胸をさらう
清らかな映画を見ると、心が清められます。
さめざめと泣きました。
こんなに今では汚れてしまった自分でも、まさしくあの頃はああであったこと。
思い出させてもらいました。
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僕は、レンタルのDVDを借りるときは、
①洋画、②邦画、そして③どうでもいい物(=捨てレンタル)、の3種類を選びます。
西洋料理が続いて胃もたれをしたら、和食を頂きますし、和食でも食べたくない時には絶食か薄口の昆布だしのお粥(小津作品、何も起こらない)を求めます。
そして僕の最近のトレンドはアジア物かもしれません。そこには、アジア人である自分自身への「再発見」があり、
魂の源流で、琴線に触れる”良い物“がいっぱい詰まっている“宝箱”だからです。
「新発見」ではない、この「再発見」がアジア物にはあるんですよ。
今回は漢方の“薬膳”をもとめて、中国の映画「サンザシの樹の下で」をチョイスしてみました。
心身ともに、この暑さとコロナ疲れに日々やられていますし、何かの効能があるかもしれません。
サンザシ(山査子)と言えば、思い出すのは以前に観た「最愛の子」(ピーター・チャン監督)です。やつれた農婦が手作りのサンザシのお菓子を持って都会へ出る辛いシーンがありましたっけ。
また、先日のお休みに近所の温泉ランドに行ってみたところ、褐色のお湯の薬草風呂があり、「説明文」にはこのサンザシの図解と効能がかかっていました、
で、ふと思い立って本作をレンタルです。
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見終わって、涙をぬぐいながら思うのは
「男女の出会いと、別れ」なんて、ごくごくありふれていて、どれだけ陳腐なことかとも思うのですが、
それでも有史以来、文学としてのこの定番は、様々のバリエーションで無尽蔵にストーリーが編み出され、そのどれもが我々の思い出のどこかに触れる=人の心を捉えて離さない永遠のテーマなのだということ。
女子高生ジンチュウは
手に触れないように飴をそっとつまんで受け取り、
手に触れないように小径を離れて歩き、
手に触れないように離れて眠る。
出会いから恋の発露までの、心情描写のういういしいこと。
バージンが絶滅した日本では考えられないような うぶなデートシーン。(笑)
万年筆と 氷砂糖と
金魚のマスコットと そして洗面器。
二人が贈り交わした精一杯のプレゼントで、思いやりと優しさの蕾はふくらみ、
一線を越えることを自制して、嗚呼、スンは川の向こうに行ってしまった。
堅物のお母さんが初めて娘の恋心に共感を示す小さな一言も、とてもいいシーンだったな。お母さん、表情は変えないのに想いが変わった瞬間の素晴らしい演技でした。
チャン・イーモア監督の、人間に対する深い愛情と信頼が、こうしてスクリーンに素朴な花となって咲くのですね。
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山奥のあの農村で、次の春、サンザシに紅色の花が咲いたのかどうか。そして留学したジンチュウがその後どうなったのか、
僕らは何も知らされずに映画は物語を閉じます。
中国の旧体制への批判とか、
放射性物質の地下資源を採掘する青年スンの危うさなど、
二人を縛りつける背景のエピソードがさりげなく映され、
「各シーン」は短め短めにフェードアウトしては暗転をし、字幕での説明がそこに折り込まれおり、小説を読むかのように、映像はあたかもその小説の挿し絵であるかのように、語り過ぎない余韻の上品さがある。
監督の繊細な手腕を見ました。
遅かれ早かれ、恋人や夫婦には別離は必ず来るのです(スンの言うように)。
どちらかが死んで、そのあともう一人も何処かで死んで、それでその時に二人の人生は終わり。本は閉じられて二人の物語が読み了わります。
思想矯正と“反省文”を書かされるために下放されたジンチュウなのだけれど、出会いの尊さは全てに勝っていた。
四季は死をも政治をも超えて変わらずに巡ってきた。
照らわずに愛の素晴らしさを謳います。
僕の心には紅いサンザシが咲きましたよ。
目を閉じると、スンの笑顔と声がまぶたに浮かびます。
直球です。
二人の流す涙が、僕の胸をふるわせています。
ラスト、予感はしていたものの・・・
一つ一つのカットが絵画を見ているようである。特に気に入っているのが、農村での実習(下放)で、部屋でひとり何かを万年筆で書いている時、光と影、構図がまるでフェルメールの絵画のようで美しかった。
病院のお見舞いに行った帰り、川を隔てて、ふたりが抱き合うポーズをするシーン、見終わってからこのシーンを思い出すと、切なすぎて泣けてくる。
ハッピーエンドになればいいなと期待していたが、後半に入って彼が白血病で入院したとの噂を聞いたあたりから、お涙頂戴映画になってしまうのかと思ってしまって、覚悟はしていたが、最後はやはり彼のあまりにも痛々しい姿を見たら、思わず泣けてしまった。
文革で会った二人
古井戸(1987年製作の映画)で初めてチャン・イーモウZhang Yimouという人を知った。私は大学卒業後すぐ、中国の文化、特に歴史や文学に憧れた。最後、溥儀が平民になって、長く続いた皇帝というものがなくなったことが好きだし、中国の文化大革命も誇らしく思えた時期があった。第2時大戦後、毛沢東を中心として、封建、資本主義ではない社会主義の文化を作った時代に(1966年から1976年)賛否両論はあるのが承知で言うが、女性の台頭、男女ともに地方で労働をすることが社会貢献の意識を高めることだと思って、憧れた。
そして、中国映画を専門に放映する古びた小さい映画館で観た最初の中国映画が『古井戸』だった。最近コロナ感染で自粛の時期にチャン・イーモウZhang Yimouの作品をネットで無料で観出した。それが、『サンザシの樹の下で』。なんと悲しい純愛映画で、ジン(チョウ・ドンユィ)は一生サン(ショーン・ドウー:カナダ人で北京で演劇の勉強を)のことを忘れられないだろうなとおもわせるようなえいがだ。サンザシの木のあった地域が三峡ダムという水力発電のダム建設のためこのサンザシの木はサンと一緒に水の中に沈んでしまったが、水の中でも白い花をさかせているそうだ。
この二人の恋愛についてはみなさんが同じことを感じているので書かないが、この文化大革命がこの二人を結びつけた。文化大革命によっておこる、右翼(ここではこの言葉を使っている)弾圧が、家族の仕事を奪ったり、村八分のように静かに控えめに生きていかなければならない悲しい人生を歩ませている。父親が右翼で囚われの身でなければ、もっと大胆に、例えば、手を握って歩くことさえできたのに。また、文化大革命の大躍進政策によって、産業、農業など力に力を入れていたから スンの働いている地質調査隊の場所が危険な薬品かなにかを扱っていたのかもしれない。それも、ジンのために残業を繰り返していたから。それに、文革で父親が犠牲になったからこそ、母親が人一倍力をジンに注ぎ、ジンは先生という仕事を獲得できたかもしれない。何も答えはないが、文革は否定的な面だけではないとこの映画からもわかる。
滑らかなカメラワークと純情の描き方
未見と思いレンタルしたが、どこかで観ていた。最近こういう観たことを忘れてもう一度観るパターンが多い。こうして鑑賞記録を残せるサービスはやはりありがたい。そして何度観ても良かったと思える作品ならこういうことが何度あってもいいと思う。
これぞチャン・イーモウと呼べる流麗な横方向への移動カメラ。菜の花が咲き誇る道を主人公の女の子が駆けるシーンは、「初恋のきた道」でチャン・ツイィーが演じたもののコピーと言えるが、それに劣らぬ美しさと初々しさがある。そして、なんども繰り返される自転車のシーン。滑らかな移動は、被写体が感じている心地よさを観客も一体となって感じることができる。
登場する男の子と女の子。この二人の気持ちの昂ぶりは、彼が川の水に入ることで、それまで鏡のように静かだった水面が、ざぶざぶ乱されることで表現されている。この渡し船のシーンと昼休みの水遊びのシーンは見ていて本当に気持ちが良い。無邪気に水の感触を愉しみ、恋のことだけで頭の中がいっぱいという、青春の特権的な感覚を共有することができる。
そして、二人の距離が極限まで縮まる様子は、彼が彼女の足に触れることに象徴されている。素足でセメントを掻き混ぜたせいで皮膚が爛れたときと、男の子の入院先で就寝前に足を洗うときの二度、女の子は彼に素足を触らせることになる。
女性が素足を男性に見せることが性的忌避を伴う行為であった文化をこの二人は生きている。そのことを考慮すると、そこでのこの行為はつまり性的なものと等価である。
それにもかかわらず、彼女はこれを男の子の親切として受け止めて、なんの警戒もなく素足に触れさせる。男女の性的な交わりについての何の知識もない彼女が、素足を男に触らせることの危うさと純粋さを、これらのシーンは存分に画面に表している。
このように画で勝負している映画を観ると、また映画を観たくなる。間違えて二度目を観ても損した気にはならなかった。
まだ世の中、こんな汚れなき純愛物語あるんだね
1970年代初頭、文化大革命下の中国。都会育ちの女学生ジンチュウは、再教育の為に派遣された農村で誠実なエリート青年スンと出会う。惹かれ合う二人だったが、それは身分違いの恋だった…。
チャン・イーモウが再び描く、「初恋のきた道」を彷彿させる純愛物語。
「HERO」や「LOVERS」のような華麗な武侠映画もイイが、こういう情感溢れる静かな作品こそイーモウのホームグラウンド。しっとりと作品世界に入って行ける。
若い男女が出会って、惹かれ合って、引き裂かれて…純愛モノの典型的ストーリー。
帰り道そっと手を繋いだり、人目を忍んで会ったり、二人で一つの防寒着を羽織ったり、自転車を二人乗りしたり…こっぱずかし〜!シーンのオンパレード。
でも、日本のベタな純愛モノとはちょっと違うんだな。
日本の純愛モノって、あからさまに涙を誘ったり、こんな純愛してみたいだろ〜?っていう演出が見え見えなんだけど、本作は一つ一つにいやらしさが無い。真摯な心が伝わってくる。
ラブシーンやキスシーンを描かなくたって、ひたむきな恋心を表現出来、だからこそ最後の切なさも一層際立つ。
(無論、ラブシーンもキスシーンも否定する気は毛頭無いが)
この映画の象徴とも言えるのが、ジンチュウを演じたチョウ・ドンユィ。
まだ世の中に、こんなにお下げ髪が似合う純情女の子がいるんだ…と思わせてくれるくらい瑞々しい。
とびっきりの可愛い娘というわけではない。幸薄そうで華奢な体。でも、その健気な普通っぽさがとってもイイ。
清く正しく育って欲しい…なんて、どうしても親目線になっちゃう(笑)
チャン・ツィイーも「初恋のきた道」の時はあんなに可憐だったのに、いつの間にか大富豪と結婚しちゃって、何だか高飛車なイメージになっちゃったからなぁ…。
時代背景は少々呑み込み難いが、今や死語となった汚れなき純愛物語(しかも実話!)に胸満たされる。
悲劇。。
予告を見て予想の通り、ヒロインがぼろぼろ涙を流す悲劇が待ってます・・・
実話を基に作られたそうですが、この展開には泣けない、しらけてしまいました。
中盤までは楽しませてもらいました。ヒロイン役の子が可愛いなぁと観ていたんですが、この俳優さんも爽やかで歯並びが良くてはんさむですね。
定番王道の悲恋物語。
名画座にて。
1970年代初頭の文化大革命を背景に描いた男女の悲恋物語。
Z・イーモウらしさが戻ってきた文芸作品で古めかしく泥臭い、
彼のファンなら最近の超大作よりとても楽しめる作品である。
ただ物語の背景にある文革、これはあくまで背景に留まり、
彼らの悲恋の原因は別のところに存在する、今までの文革が
メインの作品の儚さを期待するとそうでもなかった展開に驚く。
この時代でなくてもおそらくこの物語は成立する話なのである。
貧しい都会の少女と農村のエリート青年。
どっちがいいか?なんて思える余裕すらなくこの時代、少女は
家計を助けるため何としても教員として学校に残らねばならない。
恋愛御法度。すべての行動が監視体制にあると母親に脅され、
農村実習先で出逢った青年との逢瀬もままならない。
が。けっこうこの青年はしつこく^^;何度でも^^;逢いに来る。
それだけ恵まれている(地質調査員というが)彼の生活事情が
明かされるにつれ、あまりの身分違いに少女は別れを決意する。
が。しつこいんだって~この彼は^^;ホント、松ケンなみに!(爆)
死ぬまでずっと君を待っている、なんて言われたらどうだろう。
ここまで自分を想ってくれる青年、かなり幼い恋愛感情しか
持てない少女にはあまりに衝撃的で重くのしかかってしまうが、
彼との逢瀬が楽しくてたまらない。そりゃそういう歳だものv
あぁ~なんとかこの時代が終わって、
やがてこの二人が結婚できたら…と祈るばかりになるのだが。
悲恋、というからには相応の結末が待っている。
ラストの青年の姿、あまりにリアルで(かなりの熱演)胸に迫る。
しかし大変申し訳ないが(こんな言い方して)
どう見ても原口あきまさとかフットボールアワーの後藤にしか
見えないショーン・ドウの笑顔と白い歯を観る度に複雑な気持に。
少女役のチョウ・ドンユイは第2のチャン・ツィイーを噂される
ほどの可愛らしさで(かなり幼く見えるが)人気が出そうな気配。
何度も彼を笑顔で振り返った「初恋のきた道」と同じような構図で、
今回の彼女は何度も彼を涙で振り返る。愛してる、には届かない
複雑で悲しげな瞳が何ともいえず胸に刺さる。
物語としてはかなり凡庸でアッサリしすぎた印象が残るが、
時代はどうあれ、こうして引き裂かれた二人は多いのだろう。
(しかしあの自転車の乗り方はダメですよ、日本じゃ道交法違反に)
衝動よ、妄想よ、目覚めよ!
「初恋のきた道」などの作品で知られるチャン・イーモウ監督が、新人女優チョウ・ドンユィを主演に迎えて描く、ラブストーリー。
「恋愛」というキーワードを軸に、映画を創る。その単純明快な挑戦が、ここまで難しくなった時代は無かっただろう。某県の10~20代男女に行ったアンケートでは、実に8割の男女に恋人がいないという真実が浮き彫りに。「なぜ、恋人がいないのですか?」という質問に「必要性を感じられない」「面倒くさい」という答えが大半を占める現実。
コレハ・・・コマッタ。
多くの映画人が、頭を抱える時代が目の前に広がっている。観客を暗闇の芸術に誘い込む一つの大事な要素が「面倒くさい」の一言で蹴散らされようとしているのだ。だからこそ、昨今のラブストーリーは失恋から始めてみたり、体の関係から始めてみたり、「奇抜と異色」の物語へと変貌を遂げ、何とか注目を浴びようと躍起になっている。
その中で、現代中国映画の代名詞チャン・イーモウが果敢に切ったカード。それは、余りに真っ直ぐで、余りに繊細で、余りに可愛い恋愛劇だった。
文化大革命を背景に、惹かれては離れを繰り返す一組の男女の恋を描き出す本作。多少、コメディの要素を挿し込んではいるが、基本は使い古されたラブ描写を徹底して畳み掛ける純粋無垢な世界が展開される。一本の映画作品として批判するのは非常に難しい、挑戦とは真逆の安心感ここにあり。観客は大いに困惑すると同時に、その美しさに思わず涙が溢れ出すのを止められない。
この作品が、今の時代に生まれた理由。それは、「恋愛」がどれだけ、人を突き動かす力を持つか、くすんだ世界を塗り替える可能性を秘めるかを、私達に叩き付けることにある。先の見えない未来に、ラブストーリーが必要か否かを考えされることにある。それは果ては、映画が貴方に必要かを問いただすことに繋がっていく。
なまりきった感情よ、衝動を忘れた妄想よ、目覚めよ!清潔な恋愛物語が今、その暗黙のメッセージを叫びだす。その輝きを、映画界に革命をもたらしてきたイーモウが示したのは必然なのかもしれない。
何はともあれ、素直に心を潤したいという目的で観ていただきたい。そして、ちょっと考えてみてはいかがだろう。
私に恋愛は、映画は、物語は、必要か?
圧倒的な純情。これこそ「人を恋うる心」なのではないかと溜飲を下しました。
チャンー・イーモウが、新たなミューズをひっさげて、原点回帰とも言うべき純愛映画に戻ってきました。最近のイーモウ監督作品は、『HERO』などアクション映画が多くなっていました。小地蔵は、商業路線に毒されたのではと斜に構えていたので、本作の発表には、多いに期待したものです。なぜかというと、監督の出世作『初恋のきた道』という作品が小地蔵の涙腺を思いきっりえぐったピュアな初恋物語でして、今でも忘れ得ぬ感動を記憶しているから。
本作もその『初恋のきた道』に負けず劣らず、世界遺産に登録すべきではないかと思うくらいの純情が描かれていていました。何しろ予告編だけでも思わず泣けてくるのですから相当なものなのです。
本編を見ても、後半やはり感動の余り泣けてきました。破格の経済成長に沸く現代の中国人から見れば空想のおとぎ話と映るかもしれません。まして日本人からすれば、神話のような純情さです。でも世知辛い世の中にあって、現実に打ちひしがれることの多い日々を過ごしがちですね。たまには銀幕の世界にどっぷり浸かって、世情を超えた純情に心を打たれれば、魂のいい洗濯になること請け合いです。ちょっとト書きの多い進行には疑問を持ちましたが、きっと映画を見た満足感に包まれる作品でしょう。
さて、物語は実話を基にした初恋の悲話です。
ヒロインが恋する相手が白血病で死んでしまうという悲恋物語は、韓国映画にありがちなストーリーです。しかし、韓国映画が観客を力業で泣かせようと仕掛けてくるのに比べて、イーモウ監督は、圧倒的な映像美と僅かな表情の機微の変化で、見ている方をごく自然に号泣させてしまうのでした。
一番印象に残るシーンとしては、小川の辺をふたりが連なって歩くシーン。まだ手をつなぐことすら気恥ずかしいふたりでした。それでも川を飛び石越しに渡ろうとするとき、スンはジンチュウに小枝を渡し、誘導します。カメラはその小枝をアップしていくと、徐々に小枝を握っているふたりの手と手との間が短くなっていく、最後はその手がしっかり結ばれるのです。初めてお互いの恋心が確認された瞬間でした。
ふたりの関係は信じがたいほどうぶでピュアなプライトニックでした。スンをお泊まり看病にきたとき、一つのベッドで一夜を過ごすことになるのですが、スンは一切手を出さないのですね。そしてジンチュウは堕胎しようと悩む友人に、自分も妊娠したかもと告白するのです。ベッドで一夜を共にしただけでも子供が出来てしまうと信じていたジンチュウでした。
『コクリコ坂から』を見て、そこで語ろうとした「人を恋うる心」にイマイチぴんと来ませんでした。本作を見て、これこそ「人を恋うる心」なのではないか!と溜飲を下ししたのです。本作がふたりが恋した時代をリアルタイムで瑞々しく描き出しているのに比べて、宮崎駿監督は、遠い過去の記憶を息子監督を使ってぼんやりと伝えているのに過ぎなかったのです。
それに比べて、本作は単なる甘い哀愁に浸るのでなく、文化大革命の嵐が吹き荒れた1970年代初頭、当時の厳しい「現実」を直視しています。
そもそもジンチュウは「下放」という国家の政策で都会から農村へ送られてきたのです。そこで偶然スンと出会ったのでした。村には大きなサンザシの樹がありました。その樹の下で、二人は次第にお互いを意識し恋するようになったのです。でも、反革命分子と断罪された彼女の両親に対する制裁や予期せぬ試練に行く手を阻まれます。
家族が背負った苦難を乗り越えて、幸運にも教職に就く機会を得たジンチュウ。革命の精神に背いて恋愛に浮かれていると知られたら、たちまち非難を浴び、すべてを失ってしまうことになりかねません。
監督は、甘美な初恋の話のなかに、強烈な毒を埋め込んだのでした。表向きは毛沢東語録を手に文革を支持する一方、裏ではその政治闘争の時代が過ぎ去ることを密かに念じたり、自由と解放を夢見たり。そこには苦難の時代を歯を食いしばって生き抜いた庶民の本音が、ありありと浮上してきます。
激しい文革の陰で脈打つ生への渇望と人間性の回復こそ、この時代を生きた監督の実感ではないでしょうか。あれから40年たった現在、文革を歴史的な事件として客観的に見つめられるようになったところは評価できます。しかし、チベットやウイグルでの民族弾圧を思えば、まだまだ中国で本作のような悲恋は終わっていなく、現在も進行しているといえるでしょう。いや、日本もうかうかしていると中国の属国にされて、本作が描かれたような社会に逆戻りさせられることだってあり得ることです。
東電の国有化が検討されるなど、次第に国家社会主義の足跡が、日本にも忍び寄ってきています。本作で涙するばかりでなく、自由でいられること、好きな人と自由に恋愛できることがどれだけ価値あることか、噛みしめて欲しいものだと小地蔵は思います。
イーモウ監督の新たなミューズとなったチョウ・ドンユィ。チャン・ツィイーのデビュー時と比べて、可憐で透明感を感じさせてくれました。彼女の存在なくして、ジンチュウの純情さは説得力が出なかったでしょう。犯しがたい雰囲気をもった彼女の今後の活躍にも注目したいところです。
涙がとまりませんでした。
話は王道中の王道ですが、主演二人の自然な演技や、繊細で美しい映像に序盤から涙がとまりませんでした。あまりにも号泣しすぎて一人できて良かったと思いました。実話らしいのですが、わたしもこんな恋愛の記憶が欲しかったです。
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