わが母の記のレビュー・感想・評価
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お母さん、と渡る海峡
若いからその死は辛いが、
年がだいぶいった人なら
もう十分生きたのだから大往生だ。
昔なら赤飯炊き、祝い箸配るとか、らしい。
とんでもない‼️
いくら年を重ねようと、
だんだんと自分や周りのことがわからなくなり、
突然、キレたり強情張ったり、
しても、
自分を産んでくれた母なんだよ。
捨てられた、と思い、
土蔵のばあちゃの作ってくれた
ご飯しか食べなかった。
いくら
本家の祖父ちゃん祖母ちゃん母さんが引き止めて
食べるよう何度も勧めても、だ。
私をアメリカ🇺🇸さんと、叔父さんと間違えて、
まだ違う人と間違えて、
たまたま言ってくれたこと。
私の息子を盗ったあの女、いなくなって良かった。
お父さんの転勤で台湾に行く時、
子供達をバラバラに分けて船に乗せ、
一人でも生きていけるたくましい子を
実家にひとり残していかないと、
ご先祖様に申し訳ない。 って。
母さん、
知らなかったよ、
あれ、僕の目から何か出て来た。
顔洗って来よう。
付け足し:
作中に『東京物語』についての長女の志賀子の
言葉がありますが、やはり、あの長男長女は薄情だと言ってられました。
何故か鑑賞後に自分の老後が心配になった
初めての鑑賞
自分は母親に捨てられたと思い込んでいる主人公
実は船が沈没し一家の血筋が途絶えることを恐れて、長男を残したことを知らなかった
母はそのことをずっと後悔していた・・・・
良い映画を見た
樹木希林の演技はすごい
演技と分かっていてもイライラした
何故か自分が認知症になったらどうしようかと心配になった
女優 樹木希林
老いた母親の八重(樹木希林さん)が呟いた言葉に、息子の人気作家伊上(役所広司さん)嗚咽する姿に涙した。
樹木希林さんの実の娘、内田也哉子さんが映るシーンが印象的。
樹木希林さん、役所広司さんお二人の演技が秀逸。
-お母さん…と…渡る海峡。だけど、僕の一番好きなのは、地球の何処にもない小さな海峡。お母さん…と…渡る海峡…。
NHK-BSを録画にて鑑賞
そばがき
主人公、洪作(役所広司)が、母校の校庭で「この遊動円木で詩を書いたことがある」と琴子(宮崎あおい)に話すが、詩の内容が思い出せない。
これが伏線になっている。
その詩を母が唐突に諳んじる場面がある。
ぼけてしまった母が、その詩の切れ端を後生大事に懐中しており、かつ丸暗記しており、よどみなく詠う。
洪作は、堪えきれず、ドッと泣き崩れる。
それは観る側も同様である。
白眉だった。
もう一つ。
紀子(菊池亜希子)の出帆のデッキでの妻との会話。
……海を渡るときは、もし沈没すれば、一家が途絶えてしまうから、それじゃご先祖様に申し訳ない、だから長男だけは残したのだ……、ということを、結婚式のとき母から聞いた、と話す妻(赤間麻里子)。
洪作は驚いて「おまえそれを知っててなぜ俺の(母に捨てられたという)言い分を修正しなかったんだ?」
「あなたが聞き分けよくなったのはつい最近ですよ……あなたは捨てられたと思っていて、いいんです。素晴らしい小説書いて下さるのだから」
洪作は何十年間も、捨てられたと、母を恨んできたのに、妻からサラッとそんなことを話され、啞然としてしまう。
母に捨てられたという反骨心が、洪作に小説を書かしめる、ということを妻が知り抜いていたからこそ、それを何年も、自分の中だけにしまっておいた、の構図。
かしずくだけの腰元みたいな妻にしか見えなかったのに、しっかりと計算高く洪作を支え、扶けていたという、妻のしたたかさが判明する場面だった。赤間麻里子の、ぜんぜん目立たない名演だった。
樹木希林と役所広司は言うに及ばず、ほか原田組みんな名演だったが、個人的に登場場面もセリフもちょっとだけの真野恵里菜が印象的だった。
湯ヶ島の下女、貞代。
ひどい伊豆弁で泥だらけの田舎娘。
出たかと思えば消える野生っ子で、片っぽの鼻孔ふさいで、ふんっと鼻屎を出すのが癖。天真爛漫で、魅力だった。
──意外なところに意外な人。
駆込み女と駆出し男の松本若菜みたいな隠し味が原田映画の巧味だと思う。
序盤の率直な感想は、いい暮らししてんなあ、というもの。
60年代の上流階級の人々の暮らしぶりが再現されている。
「巨人・大鵬・卵焼き」と言われた時代。
わたしはもっと後の世代だが、70年代も80年代も、井上靖はずっと流行作家だったと記憶している。築かれた財には頷けるものがあった。
海辺のリゾートホテルでの家族旅行。昼間はゴルフ、ディナーで生バンド演奏。吹き抜けのエントランスホール、バーがあって、ビリアード場があって。
60年代の車輌、松原の海や神代杉の境内、世田谷の本宅に軽井沢の別荘、投光機のあるテニスコート。どこで撮ったのかわからないが、どのシークエンスもまるでほんとうの昔のように綺麗だった。
その佳景のなかを、母が亡くなるまでの10有余年の経年とともに、壊れゆく母とともに、徐々にドラマに呑み込まれた。
普遍的な話だが、より美しくしているのは60年代だと思った。
やや短絡な言い方だが、そこはまだ夢や希望があった時代──なのかもしれない。
4回観た
一度目は映画館で祖母と。
二度目はもう一度確かめるために家でDVD。
三度目は妻に見せるために家でDVD。
四度目は妻に請われて家でDVD。
☆良かったところ☆
映画は幻滅の装置だ、ああ作ってはいけない、もう観てはいけないなあ、と思うことが、映画鑑賞後、まあよくあるが、本作は映画が幻滅の装置であることがじゅうにぶんによく機能している。(これは名作映画の条件ではないか。)
ここで私のやたら言う「幻滅」とは、スクリーン上で夢想を描かれた挙句、それが高が幻想にすぎない嘘っぱちだよ、としらじらしく暴かれることによって、夢を抱いてしまったこちらはガッカリすることだ、として、「幻滅」させられること、一見あまりにネガティブな言葉だが、何もマイナスに働くに限ったことではないくらい、映画が好きならその好きな作品を観終わった後、家路につくその瞬間の気持ちが「幻滅」なのだから、大いにプラスに作用することもある、と理解している。
本作の「幻滅」の素晴らしき構造を説明したい。させて下さい。
まず、たかが映画である、と言う時点で、もう「幻滅」だ。これはどの作品にも共通で、その前提があるからこそ、芸術たりうる。批評されるに足る作品たりうる。
次に、役所広司演じる主人公、伊上の「幻滅」だ。伊上はこの作品の中で、何度も幻滅する。家族に期待しては集中砲火で責められ幻滅、父の死に目に会うては邪険にされ幻滅、母への怨念でもって母に執着しても肩透かしを喰らって幻滅。
幻滅、幻滅、幻滅の、とくに出だしから中盤にかけて、かっこいい頼りがいのありそうな一家のあるじは、雷に必死になって怯えるほどか弱く、周囲から気を遣われ見透かされる。
そしてここでうまいのが、彼は小説家であるという、その役割自体のもつ構造だ。
小説家として自伝的小説・私小説を、彼は自分を客観視し見下し透徹した視点で書き込んで行く。そんな理知的な姿には、我々、映画作品内でもっとも理知的な参加者=鑑賞者は、この男をまだ「幻滅」しないで済むのだ。この気持ちは伊上に寄り添う、宮崎あおい演じる三女にじつに、近い。彼女が観客の目となり、理性となって、伊上に立ち向かい、挑み、最終的には抱擁する。
さて、とにかく、
それら「幻滅」が続けば、人は成長するものだ。この作品は、家族の年月の経過を切り取ったものであるが、伊上は年月を経て、一言で、老化、というほどやわでない。見た目にも変化が生じて、それに伴い、性質のカドが取れ、円熟味を帯びて行く、その過程が、端的に、明確に、かつ控えめに描かれていく。「幻滅」への耐性がつくられていく、尊敬に値する人物が、できていく。我々は彼の家族とともにほっと胸なでおろすとともに、時折頼りがいのある父、大好きなその一面を見る気分だ。
にも関わらず、なのだ。老成してなお、伊上には、譲れない幻想があるのだ。
それは彼の固執する、実母への恨み。幾度とない肩透かしを経ても、なお、その思いは煮えたぎる、母に挑むその目はまるで、それこそまだ小さな子供のように、愛に飢え、愛を熱望した眼差しだ。最も理知的な我々は、我々の次に理知的な伊上をほぼ信頼しているので、この彼の思いには並々ならぬものがあるのだな、と思いやる。
それが幾度か、差し込まれながら、彼の、想像だにしなかったかたちでの愛の結実は、まさしく母の死の直前に訪れる。全体のストーリー的には、事件が解決する大きなポイント、というほどダイナミックなことは言えない、もっとそっけなくて、いわば、一つ伏線が回収された、かのように、だが、リアリティをもったひとつのエピソードが、終盤発生する。
理知の王たる我々鑑賞者は、あんなに冷静だった伊上の、しかも老成した彼の、しかしその子供じみたリアクションには、本作カメラマン芦澤さんのとらえる、作中最接近、緊迫した距離感にて、手を叩き隣人と抱擁し涙に噎せて嗚咽するほど感情を揺さぶられるのであった。
(この感動の種類は、ニューシネマパラダイスのラストに似ているかもしれない。)
大まかな「幻滅」構造については以上だが、
原田監督の凄いのは、各シーンの隅に「幻滅」の毒がはびこる、観客はスキあらば粗探しし、冗長してしまう、その前に、新鮮な情報の提供が、カットバック、カット、セリフ、それらを融合した技が、じつにリズミカルになされる面である。
これは監督一流の編集・脚本の手腕であり、惚れ惚れしています。ほか作品に際しても、私は原田監督だけは、信頼してやまない。(海外でいうと、「バベル」「バードマン」のイニャリトゥ監督が似ているか)
★悪かったところ★
なし。
おばあちゃんは、息子さんを郷里に置き去りにしたんですよね
「映画「わが母の記」(原田眞人監督)から。
映画ファンとしては贅沢なことに、ロケ地があまりに身近すぎて、
「えっ? ここ、湯ヶ島じゃない、中伊豆のあそこかな」とか
「あっ、この場所、行ったことある」「この伊豆弁、変だろう?」・・
いつもと違った映画鑑賞の視点に、やや違和感を感じながら観終わった。
帰宅して、暗闇の中でメモした手帳を整理していたら、
主人公のほんの小さな心の変化(これも違和感)に気付いた。
役所広司さん演じる、主人公・伊上洪作が、
樹木希林さん演じる、母・八重に語りかける呼び方である。
冒頭「おふくろ」(「お母さん」)と呼んでいたのに、
作品のある場面から「おばあちゃん」に呼びかけるようになる。
私が、普段、何気なく母親に声を掛ける時、(特にふたりの時は・・)
「おふくろ」とか「お母さん」と口にしても「おばあちゃん」とは言わない。
それこそ、違和感があるから。(息子にしかわからない感覚かも)
だから「祖母」という意味の「おばあちゃん」ではなく、悲しいけれど
単なる「高齢者の女性」という意味の「おばあちゃん」として使い、
それでも一所懸命に話しかけている姿に、心が震え、涙腺が緩んだ。
自分の母親が記憶をなくしていき、息子のことも忘れてしまう現実、
それをどう受け止めて、周りの家族に悟られないように、
母への想いを持ち続けていくか、大きなテーマであった気がする。
孫が祖母を「おばあちゃん」と呼ぶ感覚とはちょっと違う、
息子が母を「おばあちゃん」と呼ぶ感覚は、心が痛む。
いつまでも「おふくろ」(「お母さん」)と声を掛けたいものである。
無農薬野菜のような映画やねぇ
翌日が母の日だったのと、私が介護福祉士だという理由が無ければ観賞欲求が湧いてこない映画である。
案の定、可もなく不可も無いホームドラマだった。
痴呆が進みどんどん判断力が混乱していく老婆の心中を表現した樹木希林の描写力に圧倒されたが、全体的には、それ以上でも、それ以下でもない。
無農薬野菜みたいな映画やと評しても良いだろう。
それは、井上自身が既に大ベストセラー作家となり、経済的にも人間的にも裕福な環境やからやと思う。
いざ老婆を引き取る際、療養先としてリゾート別荘に招く時点で、一般人とかけ離れている。
老いた両親の奇行に振り回される別荘の無い我々は、どこに招けば良いのだ?と一気に冷めた。
介護に一生懸命なのは、息子の役所広司より、孫娘の宮崎あおい達やったし。
幼少期に母に捨てられたと思い込んでいるとはいえ、他人ごとのような感覚を感じ、殆ど感動できなかった。
まあ、母へ感謝せなぁあかんなと実感させてくれただけでも収穫なんかな。
帰りにプレゼントは何にしようか迷いながら、最後に短歌を一首
『崩れゆく 絆の在処 背負う道 捨てられてこそ したためる愛』
by全竜
余裕と悪態。
個人的に自分には兄がいて、さらには息子がいるせいか、
母親から息子への愛。は自分自身でよ~く分かっている^^;
(もう少し言うと、息子が母親命!になるのも)
なので冒頭の、母親と主人公の雨の別れ。のエピソードが
(これが彼には相当のトラウマだったのだろうけど)
まさか、母親が息子を捨てたりするワケないだろーが!と
そこに何らかの理由(これもほぼ予想通り)があると思った。
でもねぇ、子供にそんなこと分かるはずがないのだ。
小さい頃の、その鮮明な記憶だけが、彼をずっと苦しめた。
では母親の方は、どうだったのだろうか。
主人公が聞きたくて仕方なかったその真相は、
意外な所で、さらに意外な人物によって、明かされる…。
本作のテーマは、そこなんだと思っていた。
母親が認知症を患いながら、その真実を語り、主人公が号泣
するシーンを期待していた私は(号泣はしてたが)、その場面の
意外な淡白さに驚いた(もちろん感動はしたけれど…)
井上靖の自伝的小説の映画化、さすがに文学作品とあって
監督が原田眞人だというのに(爆)インテリ度がバリバリで^^;
知的で崇高な会話が飛び交う、飛び交う。かといって嫌味な
シーンが多いわけではなく、凄いな~この家。とか、わぁ~
別荘だ。とか、何しろ井上靖だから^^;当たり前のように豪華。
これだけ裕福だから介護もできたんだろう(それは、あるぞ)と
やっかみのひとつも出てきそうになるが、でもそれは本当だ。
介護の大変さ(程度にも因ろうが)は、経済的にも精神的にも
ある程度のゆとりがなければ、看ている方が先に参ってしまう。
今作でも兄妹の多さ、使用人を始め手助けする人達の多さが
格段に現在とは違う。たった一人の子供がたったひとりの親と
向き合って介護をするのは、立場を変えると子育て中に起こる
育児ノイローゼと同じである。立場を分かち合う人がいたから
なんとかその苦境を乗り越えられた、という経験は多いものだ。
赤ちゃんにしても老親にしても、憎むべき存在ではないのに
(むしろその逆なのに)悲しいかな、精神的疲労は愛情を裏返し
してしまうものだから辛い。今作では優しい孫(宮崎あおい)が
祖母の世話をかって出るが、やがて彼女に精神的疲労が溜まり
爆発するところがとてもリアルだった(立ち直りが早すぎるけど)
まぁこれが、家族なんだな…と思うのだが。
自分を捨てたはずの母親をどうしても切り捨てられない。
愛されたくて、抱きしめてもらいたくて、仕方なかったのだろう。
憎む気持ちと愛を乞う気持ちが入り混じる息子の苦悩を、彼は
小説の中で昇華させていた。その小説を書かせる意欲を与えた
トラウマの謎が、実は母親以外の人物からも明かされなかった、
という二段構えのオチがすごい。才能は、その人物を取り巻く
人々が開花させるものだということをあからさまに描いている。
冒頭で妹たちが口々に云う、お兄さんは幸せだったわよ~!は
本当だと思った。幸せですよ、伊上洪作さん。貴方は本当に…。
個人的に重なった部分は、まだあった。
私の父親は小さい頃奉仕に出されたり、兄弟は養子に貰われたり
していったそうだ。貧乏と裕福の違いがあっても離されたわけだ。
しかし子供時分の想い出というのはどうしてこう鮮明なのだろう。
その頃に親の愛情いっぱいに受けて育った子供たちが、成人して
多くの人に愛情を与えられることが本来は望ましいのだろうな。。
今作に登場する家族に悪人はおらず(当たり前か^^;)そこへ飄々と
悪態をつく祖母の姿がやけにおかしい。心に余裕があるというのは
こういうことなのだ。苦笑いも幸福のひとつの象徴かもしれない。
(樹木希林は、まんまの演技^^;絶妙な素を持っているのが羨ましい)
重くて重くて仕方無いのに、下ろしたくない背中の荷。
(どちらかと言えば)社会派として知られる原田眞人監督が描く、昭和を舞台にした人間ドラマ。
アドリブのようにリアルで矢継ぎ早な会話。編集テンポの速さ。
そして、多くの情報量を伝えながら、物語の細かな
伏線を観客に理解させられる卓越した説明能力。
やっぱこの監督さんは凄い。
加えて見事なのは、日本独特の風景・風習を納めた画の美しさ。
とりわけ季節毎に変わる木々の表情、木洩れ日の美しさ、終盤の海の雄大さは忘れ難い。
そして演技。
出演者みな素晴らしいが、まずはやはり、役所広司と宮崎あおい。
長い年月をかけて親子間の情が移り変わってゆく様子が実に自然だ。
役所広司は、
厳格な性格が、雪解けのように少しずつ和らいでゆく様が見事。
(私事だが、近頃めっきり優しくなった自分の親父を連想した)
船での「お前を見捨てる訳じゃないぞ」という台詞は、
主人公の生い立ちの複雑さと娘への深い愛情を同時に表した、良い台詞だと思う。
宮崎あおいも◎。
女学生役に全く違和感が無い点も驚きだが(笑)、
父や祖母に向ける疎ましさと愛情の入り交じった言動、
姉妹や親戚達との会話の生っぽさと言ったら!
そして、樹木希林。
老いてゆく様のリアルさ。時に微笑ましく、時に鬼気迫る演技。
演技も台詞も誇張せず、どうしてあそこまで圧倒的な存在感が出せるのか?
息子の顔を忘れるほどに衰えてもなお、
ずっと捜し続けた息子の姿。
ずっと忘れられなかった息子の詩。
そして最後、暗闇に佇む母。初めて、真っ直ぐに息子を見つめる母の眼。
幽霊であれ幻覚であれ、あれは母への想いの深さの表れ。
涙せずにはいられなかった。
世の中で、家族くらいに面倒な存在も無い。
家族は、重くて重くて仕方無いのに、
それでも下ろしたくない大切な背中の荷のようなもの。
さいわい僕の親は、背負う心配をするにはまだ早いようだが、
残念ながら今の日本は、劇中のように、沢山の親戚どうしで
互いを支えながら暮らしている時代ではない。
いつかその時期が来た時……
その時、僕には親を背負えるだけの脚力があるだろうか?
あるいは、背中から下ろす事に耐えられるのだろうか?
まだ分からないけど、いや正直、分かりたくもないのだけれど……
なるべく長く背負っていてあげたいと、本作を観て願った。
今月3本目の5.0判定を出すのは流石に躊躇したのだが……
素晴らしい映画です。
<2012/4/28鑑賞>
あおいちゃん好きさ~ん、出ずっぱりですよ~♪
役所広司、樹木希林メインの映画だと思ってたら
宮崎あおいちゃん出ずっぱりでうれしい誤算。
役者陣も皆良いのでキャスティングで裏切られることはないです。
あおいちゃんファンとしては「三浦貴大めっ!」と感じた程度です、ぶうぶう(笑)。
時間がすっ飛ぶのはいたしかたない?
目をつぶれる……範疇かな。
大河の篤姫ほどの時間幅ではないけれども
セーラー服からちょいアダルトなあおいちゃんまで、
ちょっぴり悪態をついたり甲斐甲斐しかったり
色々な姿を見られます♪
樹木希林さん出演のテレビ「寺内貫太郎一家」をリアルタイムで
見ていたであろう世代には、もう樹木希林が老婆を演じるだけで
笑えます。同じ言動を繰り返したり毒のあるセリフをポロッと吐いたり
「素の樹木希林だろ!コントだろ!」と笑えてしまいます。
あの頃から全く変わっていないのではないかとゾッとさえします。
ところが、樹木希林のセリフで役所広司が涙をこぼすシーンで一変、
ここからは「時間ですよ!」の樹木希林ではなく
役としての樹木希林にガラッとチェンジし
エンディングまで魅了します。
泣かせる映画というのは、笑いのエッセンスとこみあげる感情の高ぶり
をうまく押し引きしたものであるという持論があるのですが
この映画はまさにそれです。
むしろ終盤まであっさりと仕上げている映画なので、
鑑賞後は爽やかでさえあります。
こんな亡くなり方は今の日本では間違いなく稀有だし、
特別養護施設に預けてしまうこともなく裕福な家族が
なんだかんだ言いながらも寛容に、婆ちゃんに最後まで付き合い
そして最期まで看取る、
幸せな時代だったんだな、家族だったんだな
と現実を振り返って虚しくさえ感じられました。
……宮崎あおいが手にしているカメラが
ハーフサイズフィルムカメラの名機"オリンパス ペン"なのが
昨今の騒動でオリンパスのCMがTVで流れなくなった今、
諸行無常を感じさせます……
(映画撮影中にはこんな騒動は想像だに出来なかったでしょうw)
評価のマイナス0.5は試写会場の音響が良くなかったのか
音が割れていてセリフがよく聞こえなかったためと
映画音楽がイマイチだったためですw
母の優しさが切々と胸に、生きている事、家族に恵まれる事に感謝したくなった!
先ず一番にこの映画で素敵だなって思えた事は、非常に情景カットを初めとして、映像的に美しかった事。と書いたら、えぇそれが何、どうした?本編とどう繋がるのと反論が返ってきそうだが、つまり、今から50年前の日本の匂いが溢れ出ているって思えたのです。
今ヒット中の「3丁目の夕日64」は本当の昭和30年代では無く、みんなの心の中の昭和のイメージの再現と言われているように、古臭い小道具があっても、セットばかりで、何か嘘っぽい感じがしていたのに比べると本作は、四季折々の自然の美しい景色を存分に映している事で、高度成長期を迎える頃の日本の香りがして、それと共に人々の息使いも今より、ゆっくりと流れていた時間の様子がとても心地良く、安心して映画の世界に溶け込む事が出来た。
昭和のあの時代は、一家の主人たる者は、雷親父と相場が決まっていたし、その親父の機嫌を損ねると卓袱台をひっくり返すさんばかりに振る舞う理不尽な世界が普通の時代。だから気難しい作家の家庭で、そして八重が沼津から来ると3世帯の大家族になり、てんてこ舞いになる。その様がとてもリアルで、きめ細かく描かれていた。
長男である伊上洪作はずっと母の八重に自分一人が捨てられたと思い悩んで生きて来たけれど、その母が徐々に認知症を患ってゆく中で、その息子を誰よりも大切に思い続けて生きて来た事を知る。
洪作と母、そして洪作と娘たち、そして八重と孫娘たち、同じ家族の中でもそれぞれの立場で、その距離の取り方の違いや性格の違いが出てくる。八重に対する想いも皆違うし、そんな身近で大切な家族同志であるからこそ、可愛さ余って、時に憎しみが倍増してしまうと言う悲しさも切々と伝わってくるのだ。
そして少しずつ壊れてゆく八重を軸に、洪作の気持ちも徐々に変化し始めると、その変化の輪は、その他の家族同志への理解へとどんどん広がりを見せ、お互いの家族の気持ちの理解の輪が、どんどん広がって、年月と共に人間として成長していく様子が手に取る様にあぶり出されてゆく。
徘徊する高齢の母を抱える家族の苦悩を時に、笑いを誘うように描いているけれども、それだけに、決して笑う事が出来ない、当事者家族の苦悩がより深く伝わってくる。
その一方で、お互いが苦悩する中から、解り合う気持ちが芽生える事で安らぎを憶えてゆく、大家族ならではの貴重なプロセスがとても、観ている私に安らぎを運んでくれた。
老いとは、どんなに嫌っても、いずれは誰でも避ける事は出来ずに、体験していかなければならない問題だけれども、必ずしも憎むべき事でも、悲しむべき事でも無く、人として生きていくプロセスの一コマであり、家族にとってもとても理解を深め合うためには必要不可欠なプロセスの一つであることが伝わってくる。
役所広司、樹木希林両人の芝居が素晴らしいのをはじめ、みな、それぞれ役者陣がとっても個性的な芸達者なキャストばかりが出演して、配役もとても自然で映画を存分に楽しむ事が出来た。家族を描く日本映画は素朴でも、素晴らしい感動を提供してくれるのだ!!
情景、心情、親子愛…丁寧に紡がれた作品
役所広司さん演じる伊上洪作(≒故・井上靖)と
樹木希林さん演じる洪作の母・八重が織りなす母子愛の
お話ということで、もう「涙」は決定です。
タオルハンカチ持参で行きました(笑)
本編は、いきなり初っ端…回想シーンから始まるのですが、
【設定からしては幾分、若いかな?】と思える、
ある女優さんが樹木希林さん演じる「八重」の往年役として登場します。
そのわずかな回想シーンが、
この映画全編の屋台骨を支えていると言えなくもない気がするんですが、
セリフもない短いシーンながら、とても良い演技でストーリーを印象付けていました。
その重要な役どころは八重と同じ「眼」をもつ、
樹木希林さんの愛娘・内田也哉子さんでした!
私は最初気づかず、後の回想シーンで気づきました。
その位、短いコマですが怪物女優樹木希林の演技を大切に繋ぐべく丁寧かつ【強い女性】を演じられています。
なんかそういった意味では三浦友和・百恵さん夫妻の次男で友和さんと同じ「眼」をもつ、
三浦 貴大さんが出演されていたり(こちらも良い役者さん♪)
色んな所で「親と子」を感じさせる映画で。。
そんなところまで狙ってないかもですけど。。
で、作品の感想としては、話の縦横がとても上手に、
そして丁寧に織りなされた作品だと思いました。
例えば八重にとっては孫となる洪作の三女、
宮崎あおいサン演じる「琴子」が八重に
「子どもの頃のお父さんはどんなだったか?」と尋ねた際の
八重に似つかわない、「八重らしからぬ答え」が後の重要な伏線となっていて、
その伏線の意味が氷解した時に「ああ、もう一度丁寧に観返したい」って心から思ったり。
井上靖さんの「しろばんば」などでも有名な通り、
役所さん演じる「洪作」は母と引き離された少年時代を過ごしていて、
そのことが母へわだかまりを残しています。
それ故、痴呆が進んでいく中での母への態度は
ちょっと意地悪だったり、卑屈だったり、恨みがましかったり…非常に人間的です。
多感な時代を母と分かれて暮らしたことを、その選択をした母親を作家として大成した後も恨み続ける洪作。
自分の娘たちに過干渉するのも、それ故じゃないかと思えるほど何度も何度も執拗に「母は自分を捨てた」と言い続けます。
でも、「信じることも愛なのだ」という事が分かった後の、娘にかける言葉「捨てる訳じゃないからな!」という台詞は秀逸、非常に台本や構成の丁寧さを感じました。
それにしても樹木希林さんは凄い!
「痴呆がさせること」という設定とはいえ、すんごい嫌なババァをぬけぬけと演じ、ある時はコミカルにある時は憎々しく、そして落とす所では、サラリと…それでいて本当に重く落とす。。
凄い女優さんだなぁと改めて思いました。
正直、前半は結構眠たい緩くタルイ流れです。
ただ全編を通して映像がすんばらしく美しかったので
最初は、「叙情的なだけの作品」かと思って「それでもいいかな…」と思った感じで。。
でも後半から必ずグっときますので、前半は情景メインで楽しんでください。
映像美はこの映画の重要な横糸になっている気もします。
GWを実家で過ごす方は公開日にこれを見に行って親への思いを強めてから行くと接し方が変わって来るかもしれません。
最後になりますが、そしてどうでもいいことですが三國連太郎さん。。。。年を取りましたね。。
それでも、とても強い存在感を示していらしました。
愛情と奉仕による家族の在り方
「家族の在り方」を描く作品は多い。本作の家族は、有名作家である主人公と認知症の母の“記憶の行き違い”を軸に、愛情と奉仕によって強く結ばれた家族の物語だ。井上靖の自伝的小説が原作なだけに、昭和時代のセレブな暮らし向きが興味深い。家族たちは静岡の実家、東京の本宅、長野の別荘などでその折々を過ごし、一流ホテルで母の誕生パーティーを催したりと、豊かで満ち足りているように見える(夜食に食べるシュークリームの美味しそうなこと!)。しかし、母の認知症は年々ひどくなり、娘の顔も判らず、夜中に徘徊を繰り返す。介護を一手に引き受けた孫娘は、認知症の祖母と本気でケンカをするなど、同情や義務からではない、愛情からなる真の奉仕を見せる。
では、この幸福そうな家族の中で、母はいったい夜な夜な何を探しているのだろう?息子の顔も判別できないが、彼女の中で息子の“記憶”は鮮明だ。しかし母の持つ“記憶”は、息子の“記憶”とは大きく異なる。幼い頃、祖父の愛人に預けられた息子は、「母親に捨てられた」と思い、実母に対して素直な愛情を抱けないでいた。しかし母が息子を手放したのには、ちゃんとした理由があったのだ。今、母は離れて暮らさなければならなくなった息子を、夜も昼も探し求めている。息子がその事実を知った時には、母の認知症はだいぶ進んでいたが、母には息子の気持はちゃんと伝わったと思う。息子に負ぶわれた母の見せる、人生の苦しみを全てぬぐい去った無垢の微笑み。母を演じた樹木希林の、子供のような、菩薩のような、穏やかで愛らしいその表情に胸が熱くなる。
一歩間違えば重くなりがちなテーマを、終始笑いを交えることで、上品で上質なホームドラマに仕上がっている。ただ1つ残念なのは、恍惚の域に達した母の死のシークエンスをラストに持ってきたこと。年老いた母の死は、当然予想できるものなので、せめて物語の中では、穏やかに庭の紅葉を見る縁側の母の姿で終わってほしかった。この母にとって、死とはドラマティックなものではなく、今の安住の延長に過ぎないのだから。
ここに描かれる前向きで愛情深い家族の姿は、デスコミュニケーションな現代の家族には無いものかもしれないが、相手を思いやり信頼するという気持ちは忘れないでいたい。
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