「4回観た」わが母の記 エイブルさんの映画レビュー(感想・評価)
4回観た
一度目は映画館で祖母と。
二度目はもう一度確かめるために家でDVD。
三度目は妻に見せるために家でDVD。
四度目は妻に請われて家でDVD。
☆良かったところ☆
映画は幻滅の装置だ、ああ作ってはいけない、もう観てはいけないなあ、と思うことが、映画鑑賞後、まあよくあるが、本作は映画が幻滅の装置であることがじゅうにぶんによく機能している。(これは名作映画の条件ではないか。)
ここで私のやたら言う「幻滅」とは、スクリーン上で夢想を描かれた挙句、それが高が幻想にすぎない嘘っぱちだよ、としらじらしく暴かれることによって、夢を抱いてしまったこちらはガッカリすることだ、として、「幻滅」させられること、一見あまりにネガティブな言葉だが、何もマイナスに働くに限ったことではないくらい、映画が好きならその好きな作品を観終わった後、家路につくその瞬間の気持ちが「幻滅」なのだから、大いにプラスに作用することもある、と理解している。
本作の「幻滅」の素晴らしき構造を説明したい。させて下さい。
まず、たかが映画である、と言う時点で、もう「幻滅」だ。これはどの作品にも共通で、その前提があるからこそ、芸術たりうる。批評されるに足る作品たりうる。
次に、役所広司演じる主人公、伊上の「幻滅」だ。伊上はこの作品の中で、何度も幻滅する。家族に期待しては集中砲火で責められ幻滅、父の死に目に会うては邪険にされ幻滅、母への怨念でもって母に執着しても肩透かしを喰らって幻滅。
幻滅、幻滅、幻滅の、とくに出だしから中盤にかけて、かっこいい頼りがいのありそうな一家のあるじは、雷に必死になって怯えるほどか弱く、周囲から気を遣われ見透かされる。
そしてここでうまいのが、彼は小説家であるという、その役割自体のもつ構造だ。
小説家として自伝的小説・私小説を、彼は自分を客観視し見下し透徹した視点で書き込んで行く。そんな理知的な姿には、我々、映画作品内でもっとも理知的な参加者=鑑賞者は、この男をまだ「幻滅」しないで済むのだ。この気持ちは伊上に寄り添う、宮崎あおい演じる三女にじつに、近い。彼女が観客の目となり、理性となって、伊上に立ち向かい、挑み、最終的には抱擁する。
さて、とにかく、
それら「幻滅」が続けば、人は成長するものだ。この作品は、家族の年月の経過を切り取ったものであるが、伊上は年月を経て、一言で、老化、というほどやわでない。見た目にも変化が生じて、それに伴い、性質のカドが取れ、円熟味を帯びて行く、その過程が、端的に、明確に、かつ控えめに描かれていく。「幻滅」への耐性がつくられていく、尊敬に値する人物が、できていく。我々は彼の家族とともにほっと胸なでおろすとともに、時折頼りがいのある父、大好きなその一面を見る気分だ。
にも関わらず、なのだ。老成してなお、伊上には、譲れない幻想があるのだ。
それは彼の固執する、実母への恨み。幾度とない肩透かしを経ても、なお、その思いは煮えたぎる、母に挑むその目はまるで、それこそまだ小さな子供のように、愛に飢え、愛を熱望した眼差しだ。最も理知的な我々は、我々の次に理知的な伊上をほぼ信頼しているので、この彼の思いには並々ならぬものがあるのだな、と思いやる。
それが幾度か、差し込まれながら、彼の、想像だにしなかったかたちでの愛の結実は、まさしく母の死の直前に訪れる。全体のストーリー的には、事件が解決する大きなポイント、というほどダイナミックなことは言えない、もっとそっけなくて、いわば、一つ伏線が回収された、かのように、だが、リアリティをもったひとつのエピソードが、終盤発生する。
理知の王たる我々鑑賞者は、あんなに冷静だった伊上の、しかも老成した彼の、しかしその子供じみたリアクションには、本作カメラマン芦澤さんのとらえる、作中最接近、緊迫した距離感にて、手を叩き隣人と抱擁し涙に噎せて嗚咽するほど感情を揺さぶられるのであった。
(この感動の種類は、ニューシネマパラダイスのラストに似ているかもしれない。)
大まかな「幻滅」構造については以上だが、
原田監督の凄いのは、各シーンの隅に「幻滅」の毒がはびこる、観客はスキあらば粗探しし、冗長してしまう、その前に、新鮮な情報の提供が、カットバック、カット、セリフ、それらを融合した技が、じつにリズミカルになされる面である。
これは監督一流の編集・脚本の手腕であり、惚れ惚れしています。ほか作品に際しても、私は原田監督だけは、信頼してやまない。(海外でいうと、「バベル」「バードマン」のイニャリトゥ監督が似ているか)
★悪かったところ★
なし。