「【物語として】」星を追う子ども ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【物語として】
シンが、殺してくれと請う森崎に対し、
「お前は、喪失感を抱えて生きていかなければならない」
と言うが、喪失感を抱えながら生きることは、人間の最も人間らしい部分ではないのかと思う。
だから、亡くなった親族や仲間を、死者を、手厚く葬ったり、敬ったりするのだ。
おそらく、こうしたことは、ホモ・サピエンスにしろ、ネアンデルタール人にしろ、宗教感の原型となったもののはずだ。
しかし、その喪失感が大きければ大きいほど、再び会いたいという思いは募り、更に、人間は死後の世界を作り出したのではないだろうか。
そして、現世と死後の世界を繋ぐルートを思い浮かべたり、死後の世界から愛する人を連れ戻したいという欲求が生まれて、様々な物語が生まれた。
日本では、この映画でも出てくる古事記の「イザナギ、イザナミ」の物語だし、「燃ゆる女の肖像」でモチーフとして語られる「オルフェとユリディス」は、オペラ作品として知られているが、ベースはギリシャ神話だ。
もうひとつ、シンが、自分や明日菜を助けた老人に対し、立ち去る際、
「アガルタは、人の命の儚さを知り過ぎているが故に滅びようとしているのではないか」
と言うが、これにも、どこか奥深さを感じたりする。
僕は、田舎のお寺の血筋で、般若心経の他にも少し長いお経や、いくつかの陀羅尼や真言などに、諳(そら)んじられるものもある。
そして、宗教としては、基本的には仏教が好きだ。
ジャレド・ダイアモンドが、仏教はどちらかというと哲学に近いのではないかと言っていたのを思い出すが、そんな要素も理由だろうか。
だが、仏教は内なる和を求める割に、社会とどう関わるかという教示は極端に少ない。
それは、価値観も含めて常に移り変わる世界にあって、人は、それに折り合いをつけて生きなければならないという般若心経の根底にもある哲学だとは思うし、移り変わることを拒否していては、決して生きていくことはできないのだというメッセージでもあるように思う。
こう考えると、この明日菜の冒険譚は、実は宗教的だし、ジブリとはちょっと違うなと思う。
亡くなった大切な人や、別れた好きな人、なかなか会うことが叶わない友人や知人を想うことは、実は内なる自分自身と向き合うことだと思っている。
僕の大学のゼミの恩師が、亡くなった友人が時々、アドバイスをくれると言っていたのを覚えている。
僕達は喪失感と折り合いをつけながら、ノスタルジーを抱えながら、前向きに生きていくのだ。
ただ、今、僕達が折り合いをつけなくてはならないのは、喪失感だけではないだろう。
分断や、環境、持続可能性などもそうだ。
こう考えながら、ジブリの作品と並行して観れたら良いのではないだろうか。