「究極の愛とは究極のエゴイズム」髪結いの亭主 Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
究極の愛とは究極のエゴイズム
「髪結いの亭主」とは日本古来からの言い方で、女房に食べさせてもらって、のんびり暮らしている亭主のことを言うそうだ。まさにピッタリの邦題があったものだ。子供の頃から「髪結いの亭主」になることを夢見ていた主人公は、願い通り理想的な髪結いの亭主となる。少年にとっての髪結いは初めて知る官能の対象であり、彼にとってまさに全知全能の愛の女神だ。しかし彼その愛の女神は同時に死を呼ぶ神でもあり、少年時代に憧れた髪結いは、非業の死をとげ、本当に愛した髪結いもまた同じ運命をたどることになる。
ル・コント監督の放つ究極の愛の物語は、果たして本当に愛の物語なのか?私はここにそれぞれのエゴイズムを見てしまうのだが、究極の愛とは究極のエゴイズムなのかもしれない。
「髪結いの亭主」になることだけを夢見てきた主人公を演じるロシュフォールは、普段の紳士的な役柄とは大きく違がった、飄々としたキャラクターを、独特の存在感で演じ特筆に値する。そして彼の愛を一心に受ける髪結いを演じるガリエナは、知性と官能と哀しみを兼ね備えた、“謎めいた女”を堂々と演じ、忘れがたい印象を残す。この2人の静かで穏やかな官能の日々は、美しい映像と相まって、どこかおとぎ話のような非現実感を漂わせ、観る者に来る悲劇を予感させずにはおかない。初めて店に来た客からの唐突すぎる求婚を受け入れたヒロインの心も過去も謎のまま、亭主にも我々にもその美貌を永遠のものとしてしまった。彼女にとっての永遠の愛が死であったのは何故なのか?愛の為に死ぬと書き置きした女房の死を受け入れられない亭主の哀しみは絶望を通り越して滑稽となり、哀しみを誘う。
モザイクの床、壁の鏡、この小さな店は、夫婦にとって愛と官能の全世界だ。髪結いのいなくなったこの店は、もはや愛のない虚構。
少年時代からの夢を追い求めるというエゴイズムを縦糸に、幸福の絶頂で死んで行くエゴイズムを横糸に織られた究極の愛の物語は、美しくも悲しく、残酷でありつつ滑稽な官能の物語でもある。