「女が罪を犯した場所」アンチクライスト Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
女が罪を犯した場所
愛の行為の最中に幼い息子を事故で失った夫婦。哀しみと罪悪感で心の均衡を崩す妻。セラピストの夫は自力で妻の心の病を治そうとする。得体のしれない恐怖に苛まれる妻を、恐怖と向き合うことで克服できるとし、妻の恐怖の一対象である森へ連れて行く。その森の名前は・・・エデン・・・。
私は妻の罪悪感の原因は、自分自身の快楽の最中に子供を失ってしまったことだと思っていた。当然夫もそう思い相応のセラピーを行う。今回のようなシチュエーションの事故は容易に起こりうる。夫婦は悪いことをしているわけではない。もちろん、ベビーベッドの鍵を子供が開けられないものに変えておくとか、窓を閉めておくなどのちょっとした注意が必要だったということはある。その点では親が不注意だ。しかしだからといって精神を病むほどの重い罪悪感にいつまでも苦しむことはない。だから夫は必死で妻の心を治そうと努めるのだ。
だがそうだとすると妻の行動にどうにも腑に落ちない点が出てくる。もし彼女が自分の快楽の為に愛する息子を失ったと思っているのなら、おそらくその行為自体に嫌悪感を抱くのではなかろうか?しかし妻は、治療の妨げになるからダメだという夫の体を執拗に求める。何故だろう?心の隙間を埋めるためか?それにしてはあまりにも常軌を逸しているではないか。これが今回トリアー監督の仕掛けた罠だ。
妻が嫌悪したのは行為そのものではなく、彼女自身の性だ。本作には夫婦が魔女あるいは魔女狩りについて論じるシーンが登場する。この“魔女”が本作のタイトルに繋がる重要なメタファーだ。妻の恐怖の真因は自らの性の中にある魔女性だったのだ。妻は夫を愛するあまり(精神的にも肉体的にも)、邪魔になる子供を殺したのだ・・・!実はこれが彼女の罪悪感の根幹だったのだ。
この森は魔女として狩られた(自ら進んで狩られた)女たちの魂の集まる所。妻がここに恐怖を感じるのは自分の魂が彼女たちの魂と呼応する場所だから。そしてついに妻はこの場所で、自分の中の魔性を呼び覚ましてしまう。
戸惑いながらも確固たる信念を持って冷静さを保とうとするデフォーの抑えた演技と、半裸のゲンズブールの鬼気迫る演技との息づまる攻防。ヒリヒリと神経を焼く緊迫感に観ているだけで息も絶え絶えになる。トリアー監督の描く絶望はいつも生々しい。
妻の魂を森に解放してやった夫が、そこで見たものは犠牲になった子供たちの無垢な魂だ。この荘厳なラストシーンが語るもの、それはこの森の本来の姿だ。エデン・・・女が初めて罪を犯した場所。彼女たちが犠牲となった子供たちの魂を偲ぶ「殯の森」・・・。