「何故評価されているのか分からない」八日目の蝉 正宗さんの映画レビュー(感想・評価)
何故評価されているのか分からない
少し時間が空いたのでレコーダーに録画してあった「八日目の蝉(映画)」を見る。
・・・全く分からない。結局何を言いたいのか?
レコーダーから消去した後、何度も頭の中で反芻してみるが、どうにも分からない。確か名作扱いされていた筈。
何か見落としているのだろうかと、検索して色々な感想を読んでみる。
う〜ん。何故か皆、誘拐犯の女が子供を愛していると、勘違いして作品を見ているようだ。
誘拐犯の女は子供の事など一切愛してはいない。
彼女の中にあるのは自分の事だけ。
自分の欲望を満たす為の道具として子供を利用しているだけだ。
子供を本当に愛しているのであれば、その子供が最も幸せになれるであろう両親に返せばいいだけの事。
しかし彼女は子供の幸せよりも、自分の感情を優先している。
つまり彼女は、口では子供を愛していると言い訳しながら、自分の欲望を満たしているだけ。
映画の中では、誘拐犯の女が「子供の為に苦労苦悩している」かの様な描写が繰り返されるが、
彼女は最も楽な道を選んでいるだけ。
子供が産めなくなり、不倫相手とも別れなければならない という苦痛絶望(半分以上は自業自得でしかないが)から逃れる為に(精神安定剤的に)子供を利用しているだけだ。
誘拐犯の女も母親も、子供の事など一切見てはいない。
彼女等の中では、あの子供は「金で買ったペット」程度の認識だ。
母親は、所有者である自分に懐かない(自分を癒さない)ペットに苛立っているだけ。
誘拐犯の女も、買ってきたペットが本当の親を求めてどんなに鳴いても、全くペットの心情を無視する飼い主同様に自分の都合(欲望)しか頭にない。
子供は誘拐犯を愛していた訳では無く、保護者を求める本能に従い、最も身近にいる人間に懐いていたに過ぎない。
最後の誘拐犯の台詞も、子供の為に発した言葉では無く、自分が母親気分(自己陶酔)を味わう為、周りに母親アピールをする為の発言に過ぎない。
そもそも彼女が誘拐しなければ、子供が食べていない状況にはならなかった訳だからね。
本当に子供の心配をする様な人間であれば、そもそも その子供を不幸な状況に陥らせる行動は取らない。
(何故か、誘拐犯の女はシングルマザーに置き換えられているようだ。(勿論そう見せ掛けられているのもあるが)
あの子供は誘拐してきた子供であって、彼女はシングルマザーでは無い。
誘拐犯の最後の言葉も、(子供の事など一切考えていないのに)母親気取りもいい加減にしろ という怒りしか湧いてこなかった。
もしあのまま逃げ続けていれば、あの子供は義務教育すら受けられない。)
単純に映画の感想を言えば、リアリティーが無い。
設定・世界観がどんなに荒唐無稽でも気にならないが、そこで生きている人間(キャラクター)の行動が意味不明では説得力が無くなってしまう。
八日目の蝉に出てくる登場人物は全員が「自分の意思」では無く「シナリオ」に添って動いている。
例えば、
あの状況にいて、戸締まりもせず生まれたばかりの子供を置いて出掛けるだろうか?
(おそらく、ガラスを割って侵入したりすると犯罪色が強くなり、シングルマザーに見せ掛ける事が難しくなるから避けたのではないだろうか?もし合鍵を持っていたとしたら当然鍵を変えるだろうし、用心もするだろう)
主人公の「自分の特殊な状況を誰かに理解してほしい」という心情は理解できるが、それを打ち明ける相手にあれを選ぶだろうか?
あの子が何故ああなのかは後に説明されるが、その前の段階で家に上げたり、心を開く理由が全く分からない。
不倫相手も同様だ。何故?
(配役が逆なら、まだ分からなくもないが)
実の母親も、あまりにも人間的に幼稚過ぎないだろうか?
ようやく帰ってきた子供に、あんな態度を取るだろうか?
(誘拐犯の女をシングルマザー(善)に見せ掛ける為だけに、酷い母親(悪)を演じさせられている様にしか感じない)
この作品に無理矢理 教訓的なものを見出すとするなら、
『例え誰からも愛されていなかったとしても
(おそらく作者的には「誰からも愛されていないと思っていたが、実は愛されていたと気付く事で自分の子供に対する愛情が生み出された」としたかったのだろうが、それは誘拐犯の女が子供を返さない(帰さない)段階で破綻してしまっている)
、自分が誰かを(または自分自身を)愛する事から逃げる理由にはならない』
という事だろう。
結果的に映画の主人公は勘違いとは言え、
(無理矢理ハッピーエンドにしようとした結果)
正解に辿り着けた事になる。
この映画の監督(原作者も?)は、何故か
「人間は、誰かから愛される事で、誰かを愛する事が出来る様になる」
と思い込んでいるが、
誰かを愛する条件に、誰かから愛される必要など無い。
例えば、親(保護者)から愛情を持って育てられた幸せな子供が居る。
しかしその「愛情」は、その親がその子供を育てる場合においての正解に過ぎず、
その子供が自分の子供または誰かを愛する時の正解となるとは限らない。
そもそも愛情とは、その対象に特別な思考・判断を求められるから、人間は「それ」を愛情と呼ぶのではないだろうか。
人真似の愛情は、大抵の場合「自己満足」と認識・評価されるだろう。
「料理は愛情」という言葉もある。
大抵の場合、愛情があれば多少手を抜いても許されるだろう という言い訳に用いられる。
本来は、食べさせる相手の為に労力を惜しまない状態の事であり、手抜きとは真逆だ。
これは、料理に限らず「全ての人間関係」に当てはまる言葉でもある。(人間以外でも同じ)