「ここではないどこかへ」SOMEWHERE 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
ここではないどこかへ
冒頭、同じところをグルグル回り続ける高級車。蚊のように煩わしいエンジン音。ジョニーはこのとき既にうっすら理解していたと思う。
ここに留まっていてはいけない。ここではないどこか(somewhere)へ。
ジョニーは大金持ちの映画スターというおよそ現実離れしたキャラクターだが、そういった虚飾が意味を成さなくなるほどに脆い内面を抱えている。彼は周囲の何もかもが退屈に思えてしまうのだ。
この退屈を具象化した前半部のショットはどれもこれも秀逸だ。ポールダンスをする2人組の美女とか、フィギュアスケートの練習に励む娘とか、撮りようによってはいくらでも美しく見せられる素材をここまでつまらなく撮れるのはすごい。
映画という鉤括弧が瓦解する直前まで長回し、長回し、長回し、そして何事もなかったかのように次のシーンに移行する。ショットそれ自体は極限まで弛緩しているにもかかわらず、何か得体の知れない緊張を強いられた。北野武の作品を見ているときの気持ちに近いかも。
周囲のできごとについて全く興味が持てないジョニーの気持ちはよくわかる。何もかもが退屈で仕方なくてどうしようもなくなることは私にもある。というか誰にだってそういう経験はあると思う。一度くらいは。そしてたぶんジョニーの感じる退屈は、私たちのそれと同様のものだ。それは有産階級の虚無的な豪奢というよりは、もっと根源的な、言うなれば自己存在の拙さに由来するものである。
ジョニーは娘のクレオと関わり合う中で、次第に退屈の正体を掴んでいく。なぜクレオといるときは楽しいのか、なぜ退屈さえも心地よい微睡みに変わるのか、なぜクレオと一緒にいたいと思うのか。
その答えはとても残酷だ。
自分という存在が退屈だから。
自分がぼんやりとした内面しか持たないつまらない人間だから、周りの何もかもがつまらないと感じる。ただそれだけ。
私の場合もそうだった。周囲の諸々がいつの間にか退屈になってしまったのだと思っていたが、それは私自身のつまらなさに由来するものだった。要するに私の感受性が鈍化したことによって、自分の中に入ってくる言葉や情景が飽和を起こしていただけだった。
すべてが内在的な問題であることを悟ったジョニーは、別れた妻に向かって電話口で「俺は空っぽだ」と告白する。何を今更(笑)と思うかもしれないが、それを明確な言葉に置き換え、誰かに伝えられたことによって、ジョニーは少なくとも退屈の堂々巡りから逸れることに成功したのだと思う。
ジョニーは現実離れした金持ちではあるが、その行動フローや規範意識は我々庶民とそれほど変わらない。他者性を自らの内に引き込み、自分ごととして捉え直す。そうすることによって人生のリアリティを回復する。そういう精神のダイナミズム。
とはいえリッチであることによって彼が我々以上に大きな迂回を強いられたことは事実だろう。彼が金持ちでも映画スターでもなかったとしたら、彼はもっと早く「俺は空っぽだ」という自省に至れていたと思う。そう考えるとちょっと哀れだ。
ラストシーンでは、ジョニーの乗った高級車が延々と続いていく道路をひたすら驀進する。同じ道をグルグルと回り続ける冒頭シーンとはあざといくらい対照的だ。
さて、彼は一体どこへ向かうのか?
ここではないどこか。
somewhere.