ラスト・ターゲット : 映画評論・批評
2011年6月21日更新
2011年7月2日より角川シネマ有楽町ほかにてロードショー
電波と風景をからめる適切なペース。特殊な銃器を組み立てるような映画
アメリカ人が撮ったイタリアの景色ではない。イタリア人以外のヨーロッパ人が撮ったイタリアの風景だ。
「ラスト・ターゲット」の舞台になっているアブルッツォの映像を見て、私は反射的にそう感じた。行ったことはないが、アブルッツォのモンテプルチアーノ(映画のなかにも出てくる)なら何度も飲んだことがある。
案の定、監督のアントン・コービンはオランダ人だった。間抜けなことに、映画が終わるまで私はこの事実に気づかなかった。
コービンが描くのはカステル・デルモンテという古い町だ。町は丘の斜面に貼りついている。石段が多く、旧世界の気配が濃い。こういう環境に派手な銃撃戦やカーチェイスを持ち込むのは最近の流行だが、コービンはそれを避けた。理由のひとつは、主人公がサムライを思わせる「抑えた」殺し屋だからだ。
殺し屋ジャックに扮するのは、ジョージ・クルーニーである。彼は寡黙だ。機械に強く、職人の手をしていて、それでいながら人には逆のことを伝える。つまり、どこか無機質で、注意力の発達した殺し屋だ。日ごろ見馴れた「感じのよい」クルーニーではないが、ジャックは不思議な電波を放っている。
その電波と風景を、コービンは巧みにからませる。気負ったズームやわざとらしいクロースアップを避け、特殊な銃器を組み立てるように、映画を念入りに仕上げていく。
なかでも私が感心したのは、速くもなく遅くもないペースの採用だ。ペースが速すぎればディテールは味わいにくくなるし、遅すぎると展開が退屈になる。コービンはそこを読んで、適切なペースを選択した。下手を打つと半端な語りをもたらしかねない危険な賭けだったが、結果は吉と出ている。ジャックを演じるクルーニーの姿が「サムライ」のアラン・ドロンや「ある殺し屋」の市川雷蔵と部分的に重なるのは演出の勝利だろう。
(芝山幹郎)