わたしを離さないでのレビュー・感想・評価
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とてつもなく残酷で哀しいが、静かで美しい物語
人は、過酷な運命を強いられた時、どうするだろう?その運命を好転するために、立ち向かい道を切り開くことの「勇気」は必要だが、時にその運命を受け入れる「勇気」も必要だ。しかしその「受け入れ方」によって、その人の「強さ」の度合いがある。
寄宿学校で学ぶキャシー、ルース、トミー。一見典型的なイギリスの寄宿学校に見える『ヘイルシャム』だが、すぐに大きな違和感に見舞われる。周囲と完全に隔離され、子供たちには徹底的な健康管理が行われている。その違和感の正体、それは—、ここに集められた子供たちは、臓器移植を目的に作られたクローンだということ—。この子供たちは成人になるとすぐに数回の臓器移植が行われ、ほとんどが30歳に達する前に”終了”を迎える。この”死”ではない”終了”という言葉にすでに彼女たちの立場が明確に表現されている。彼女たちは外の世界にとっては医療の”道具”に過ぎないのだ。物語が進むと彼女たちの「オリジナル」は、教養のある富裕層ではなく、娼婦などの社会の底辺に生きている者たちだということも分かってくる。本編では触れられてはいないが、私が想像するに、おそらく教養ある富裕層たちは、クローン技術に対して非を唱える人が大勢いるであろう。金の為にDNAを提供するのは下層階級の者たちだ。しかし実際に臓器提供を受けられるのは富裕層たちなのだ。未だに階級意識の強いイギリスならではの皮肉な状況となっているだろう。外の世界の富裕層たちにとって、『ヘイルシャム』の子供たちは下層階級に生きる人間「以下」の存在なのだ。それを如実に現しているが、ここの子供たちが待ちわびている「買物の日」。ダンボール箱に詰められてくるオモチャなどを、オモチャのコインで買うのだが、どう見てもそのオモチャは、外の世界で捨てられたであろうただのガラクタなのだ・・・。トミーはその中から1本のカセットテープを買い、キャシーにプレゼントする。そのラブソングには「わたしを離さないで・・・」のフレーズが・・・。
3人は成長するにつれ、ごくごく普通の若者のように恋や友情に悩む。嫉妬心と、置いていかれる孤独感によって、キャシーからトミーを奪ったルースは、そのことを後悔し、2人に最後の望みを託して”終了”して行く。彼女の開かれた目が映すのは「諦念」・・・。ルースから「本当に愛し合っていることが証明できれば、数年の猶予が与えられる」という情報を得て、愛を証明するためにヘイルシャムの校長を訪ねるキャシーとトミー。一縷の望みのために必死に絵を描くトミー。解っているのだろうか、それは「猶予」であって「免除」ではないことを?たった3~4年でも愛する人と暮らしたいと思う若い2人の心に、私は涙を禁じえなかった。無常にも希望は絶たれる。はじめから猶予などなかったのだ。激しい慟哭を残してトミーも”終了”して行く、愛するキャシーに見守られながら・・・。彼の最後の微笑みに浮かぶのは「甘受」・・・。
それではキャシーは・・・?
キャシーには他の2人にはない「強さ」がある。自分の「立場」を一番理解しているとも言えよう。彼女は自分の意思で行動できる「力(パワー)」もある。彼女の強さを証明しているエピソードが2つある。まず、ゴミ箱から拾ったポルノ雑誌を見るシーン。最初は思春期の少女の好奇心からなのかと思ったが、後にその写真の中に自分の「オリジナル」がいないかどうか探していたことが分かる。「そんな物見るな」というトミーに彼女は「一緒に見よう」と答えるのである。自分の「オリジナル」がヌードモデルだったとしたら、普通なら人には隠しておきたいと思うものだ。それが好きな男の子だったらなおさらだ。しかし彼女はトミーに「一緒に見よう」と言うのだ。自分の全てを共有しようとする絶対的な信頼があるということだ。もう1つは、彼女は「介護人」としての仕事を自ら進んで行うこと。「介護人」とは、提供者の精神的な支えとなり、”終了”を見守ること。普通は「介護人」とは名ばかりで、自分が提供者になる前の数ヶ月を何もしないで暮らすという。しかし彼女は進んで何人もの提供者の”終了”を見守って来た、その姿は後の自分自身であることを承知の上で。彼女のこれらの強さはどこから来るのか?それはラストシーンで明らかにされる。本気で人を好きになったこと、そして『ヘイルシャム』の思い出・・・。『ヘイルシャム』で校長が子供たちに絵を描かせたのは、「愛」を証明するためではなく、子供たちの「魂」を証明するためのものだった。それは外の世界に彼女たちの存在意義を示すためではなく(哀しいかな彼女たちの存在意義は認められなかった)、自分自身の存在意義を気付かせるためだったと私は思う。最初から死に行くために生まれた子供たち、本来なら愛も魂もアイデンティティも必要無い。健康な臓器さえあればいいのだ。しかしヘイルシャムの子供たちは、未来を悲観して自殺したりしない、運命を受け入れる。ほとんどがルースやトミーのような「諦念」と「甘受」だろうが、キャシーは運命を受け入れること自体に、アンデンティティを見出したのである。
本作は残酷でとてつもなく哀しい物語だ。全編を支配する静謐で荘厳な雰囲気は、キャシーの心情そのものだ。色味を抑えた美しい映像とも相まって、観る者に深い感銘を与える。3人が揃って最後に出かけた海辺の情景。砂浜に横たわる廃船、大海原に出ることなく朽ちていく船が3人の姿と重なり、傍観者である私には、ただただ泣くことしか出来なかった・・・。
生き続けるということ
人間のエゴを全て実現すると、映画のようなクローンによる臓器農場が出来上がるかもしれない。クローンとはいえ人間であるから生の要求、自由の要求はあるはずだが、臓器の提供を受ける側の論理で、従順なコピー人間のみが登場する。全てが生きたいと思う人間のエゴで覆いつくされている。
ラットの体から人間の耳が再生されている。耳に意思はない。恋愛もしない。同級生からいじめられて大声を張り上げない。うわさ話を信じて臓器提供を先送りしたりはしない。ラットの耳であれば、抵抗なく、病気の耳と交換することができるかもしれない。
でも一歩先にクローン人間の飼育を欲しているかもしれない。
この薄皮一枚のエゴの違いがと気になった映画となった。
自分は献体腎移植を待つ透析患者。切に移植を待つエゴに気付かされた。
自分の生も唯一。クローンの生も唯一。その唯一の生を全うしていきたい。
余命と感情。
原作は読まず(というか知らず^^;)観てみた。
とある映画情報番組で、「これは近過去SFですね。」と言っていた。
…巧いこと言う!!
そうなのだ。描かれている世界、これから為されることは他作でも
描かれているが、今作にはなんとも古めかしい70年代のテイストが
溢れ(もっと昔でも通じそうだけど^^;)その景色の美しさと彼らの
恋愛、命に対する価値観や真相が相まって、泣けてくるのである。
まぁ欲をいえば…観た時期が時期なだけに(震災後)正直辛かった。
映画に文句をつける気はないが…儚く散った命を前にして、それを
引き延ばすための存在が平然と作られている内容に、鬱積を覚える。
しかし本作はその面を強調せず、彼らの日常と規律、恋愛、行動に
焦点を絞り、普通の人間と何ら変わらない価値観を浮き彫りにする。
もちろん…そうでなければならないのだが、彼らがある噂を信じたり、
自身のルーツに興味を示したり、やがて恋愛したり…と、まるで普通
の価値観を持って育ってきたことに、教師達は興味を示し、私達は
より哀しみを増す結果となる。。
平然と職務をこなす校長やマダムに対し、新任の教師はその現実に
耐えきれず、彼らに真相を話して辞任させられる。ごく普通の見解を
改めて否定され、私達観客もかなりショックな展開となる。
しかし…。
この状況で生まれ育ち、外界のことを何も知らないで育った彼らが、
少しずつ真相に近づく過程は、確かに哀しいのだが、観応えがある。
絵画が上手と評判のトミーは、それが自身の愛と能力を示していると
雄弁に語るが、希望を打ち砕かれて大きく泣き叫ぶ。
それを冷静に見守るキャシーも、彼らに割って入ったルースも、皆
運命に逆らうことはできないままなのである。
これが近未来の?SFとなれば、すぐさま反乱!!となりそうだけど、
今作にはそれもない。運命は運命として。受け入れるのが当然の如く。
原題にもなっている「NEVER LET ME GO」
映画ではこのテープを聴きながら、キャシーが枕を抱くシーンが
印象的だが、原作ではもっと心に残るシーンになっているそうだ。
例えば自分の余命がどこかで判明し、もう長くはないと知った時に、
それまでの月日を楽しむか、医療技術に希望を託すか、運命をどう
受け入れるかは様々だと思うのだが、アンチ○○というのはイヤだな
と思うのが私の考え方。流れに逆行して老いや病を止めても、いつか
近いところで頻繁にお逢いすることになる…老いや寿命があるから
人間はいまを大切に生きようと思うのであって、機械ではないのだ。
(この施術が近過去に行われてなくて良かった。未来もやめようね。)
魂は実在する
人間の醜い部分を見せつける映画。
マダムと校長は、臓器移植のために誕生させたクローン人間には、魂がないと結論づけたわけです。
あれほど愛し合い、嫉妬し、泣き叫んだクローン人間に魂がないとはどういうことでしょうか?
愛し合うという行為は、魂が実在している証明にならず、単なる化学反応の一種にすぎないと言いたいのでしょう。
しかし、マダムと校長は厳密に考えての判断ではなく、単に自分達に都合が良くなるように、強引に彼らを魂がないと決めつけたのではないでしょうか。しかも別れ際、優しい言葉をかけ、自分達は良き理解者、善人だとでも言いたいように。利己的な面−自分自身の利益のために他人を欺く、決して相手に直接気付かれないように、なるべく悟られないように、そして自分は善良な人間であると一生自分自身を騙し続けて生きていく。そして大部分の人間は、かわいそうだと言いながら、見て見ぬふりをして生きていく。
人間社会が出来てから今まで決してかわらない人間の本質。
ナニモノにも、なれないから
カズオ・イシグロの同名小説を、キャリー・マリガン、キーラ・ナイトレイといった俳優陣を迎え、マーク・ロマネク監督が映画化。
一見すると、極めて特殊な環境の中にあって激しく燃え上がる愛を描くラブストーリーのようにみえる。しかし、頭を真っ白にして物語に向き合っていくと、本作の意図する世界はそれほど単純ではないことに気が付く。
淡々と、激しい感情を敢えて排除するように構築された静かな世界。それでも、この作品はある一つのポイントを経て、流れが変わっていく。それは、「自分たちが、臓器売買のために作られた商品である」という現実を知らされる場面だ。
明日が当然のように訪れ、友達を作り、恋をする。そんな、自分次第でどんな道でも歩いていける未来を信じていた子供たち。だが、自分たちが単なる他人の延命のため作られた商品であると知ったとき、彼等の世界は変わる。
どんなに笑っても、背が伸びても、髪が伸びても、「未来に敷かれた一本の道を踏み外すことは出来ない」。この前提が幼い魂を支配し、突き進む青春を本人達が拒絶しているように見えてくる。
ここで忘れてはいけないのは、子供たちが恐れているのは「決められた、死」ではないことだ。それは彼等自身がどんな人間にも襲い来る運命だと分かっている。何より恐れているのは「何者にも、なれない」ことである。誰かの姿を借りて、生きる自分。そこには「わたし」はない。道具として管理された「家畜」の如き生物しかいない。何にでも変わっていくという人間の本質的な活力を奪われたとき、そこに残るのは空虚だけだ。
身体は成熟し、臓器を失ってもその空虚な心は満たされない。だからこそ、本作には「死」を残酷に描かず、完了、終了という達成感をもって考える視点がある。今、どんなに苦しくても明日が来て、息をして何かに変わっていくことを許された私達は、どんなに幸せか、明るいか、静かに本作は私達に突きつけてくる。
臓器売買、クローンという特異なテーマに目を奪われがちだが、その裏にあるのは、今を生きる私達の無限の可能性を剥き出しにして提示する沈黙の応援歌だ。
腐るな、愚痴るな、とにかく生きろ・・ナニモノかになれと、歌っている。
何かが足りない気がする
期待が大きすぎただけに何か物足りない気がしました。本当に愛し合った二人には臓器提供の猶予期間が与えられるという部分をもっと膨らませてくれるといいのにな、と思いました。が、それでも後半はずっと涙が止まりませんでした。
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