わたしを離さないでのレビュー・感想・評価
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超ギリギリ
こっちでは常識、あっちでは非常識、
そんな事は世界中どこにでもある事。
日本人にしてもそう。時には残虐に見られたり粗暴に見られたりする。時には鼻で笑われていたりする。日本人の考え方、文化そのものをね。でも逆に日本側から見た非常識も、世界中にはたくさん存在する。
この映画は、これからの管理社会に向けての皮肉にも似たメッセージ映画。どんなに過酷な状況も、それが常識、当たり前であるならば、それは普通の事。ほんの少しの希望さえ持つ事を許してさえくれれば人は生きていける。喜びの価値観なんて、与えられた物の中の優劣でしかない。
この物語を作った人、いやぁ凄いね(笑)
色と暗闇
人は皆“終了”する、
“生”を理解することなく命は尽きる
わたしたちが救った人々と、わたしたちと何が違うの…
~~~・~~~・~~~
失くしてしまった物が見つかるという、
荒れ果てた草原の中で
キャシーの、問いかけは続き
そして彼女は、自らに課せられた生を全うするため
トミーもルースもいない世界へと戻っていく…
~~~・~~~・~~~
カズオ・イシグロの作り出した異質な世界に、
映像が実態を与え
音楽が控えめに心の起伏に寄り添う。
監督がワビ・サビを意識したと言うとおり
タイトルバックと、
少し古めかしい服装には、
露草色・芥子色・浅縹色・藍鼠色など
日本古来の美しい色が使われている
原作を読んでからDVDを見たが、
本を読んで描いていた風景と、
映像があまりにも似ていたのに驚いた。
脚本は主役3人の心情に的を絞り
物語の核になる部分のみを組み替えて
すっきりと纏められている。
無数の命を頂いて生かされている私達
これは、私達が選んでしまったかもしれない世界、
決して選んではいけない世界だ。
青春残酷物語
日本生まれのイギリス人作家カズオ・イシグロの小説の映画化。
イギリスの田舎の世間から隔離された寄宿学校。キャシー、トミー、ルースは共に成長し、友情や愛を育むが、ある残酷な運命の為に生まれてきた事を知る…。
若い3人の男女の淡い恋物語で始まり、美しく儚い雰囲気は文芸映画の香り漂う。
そして、唐突に知らされる秘密。寄宿学校の若者たちは、臓器提供の為に生まれてきた特別な命だった。
映画は残酷な運命の物語より、3人の青春ラブストーリーの印象が強い。
人生を決められ、限られた命の中で、3人の心情が交錯する。時に亀裂が生じ、時に赦しを乞い…。
命の代用品として生まれながらも、感情を持った同じ普通の人間。
その姿に、命の重さが深く胸に突き刺さる。
キャリー・マリガン、キーラ・ナイトレイ、アンドリュー・ガーフィールド、光り輝く若い3人が繊細で透明感のある演技を披露。作品にリアリティを与えている。
命について考えさせられる
最後のセリフが胸に刺さります。
いろいろと?となるところはありますが全体的には私好みの映画。
命の重さって人それぞれ違うのか、あるいは全くの平等なのか。
自分自身何を目指して生きているのか。
そんなことを考えさせられる重い作品でした。
キャリー・マリガンの演技が印象的。
死に方を…
あまりにも
重たく 考えさせられる映画でした。
映画とはいえ
世界中のどこかで ありえないとは言い切れない事だからです。
現実からかけ離れていればただのSFとして見れたかもしれませんが 残酷でした
なぜ 彼等は 逃げ出さないのでしょう?従順なのでしょう?
いくつからそのような教えがあったか どのような境遇で生まれてきたのか わからなかったけれど彼等を生んだ親たちは そのような人生を望んだでしょうか?
誰でも 死 と向き合う人生を担っていますが 死に方を特定される人生はあまりにも 可哀想です。
このようなこことが
現実に起こらないことを祈るばかりです。
世界は…。
観ながら、複雑な違和感に襲われました。まず、ある種のSFという先入観があったせいか、全く近未来的な描写やテクニカルな要素がないことに。意匠は現在と変わらないか、むしろ懐かしくさえ感じられます。それは、彼らに与えられるものが、不要になったガラクタだからでもありますが…。
次に台詞の奇異さに。全く違う字幕をつければ、平凡な青春ものにすり替えることも可能なくらいに穏やかな日常を描写しながら、台詞だけが異様な現実を明らかにしていきます。彼らは、それをむしろ淡々と受け止めているようにさえ見えますが、こちらの理性が勝手に違うストーリーを上塗りしたくなってしまうほどに過酷な現実を。
そして、なぜ彼らは、それほどまでに従順なのか?という疑問。原作を読んではいませんが、幼児期は、どう育てられた設定なのか、その描写はあるのかという興味。
人間をまるで機械のように、必要な栄養と知識だけを与えて育てる(飼育と言うべきでしょうか?)恐ろしい実験が、過去、実際に行われたことがあります。その結末は、ここに記しませんが、本作の描く世界とは違うものです。
原作を知らずに勝手な憶測を書いてしまいますが、彼らの幼児期は、子供が欲しくても出来ない夫婦に短期間預けられるという設定が必要な気がします。
なぜなら、遺伝子は愛を知らないのです。それは後天的に学習して身につけるものなのですから。
だからこそ、愛し合うもの同士が結ばれ、友人たちに祝福され社会的に認知されることは特別なことなのです。
その儚い夢、根も葉もない噂にすがった、微かな希望はあっけなく砕かれてしまいます。青年の言葉にならない叫びが違和感と痛ましさをフルボリュームにしてバラ撒きます。観るものは、それを受け止めねばなりません。監督の意図が、こちらの気持ちに不協和音を生じさせることにあるのなら、成功と言えるでしょう。
暴力も差別も、許し難い犠牲も、言葉によってなされるのでしょうか?
世界は言葉で出来ています。
決して抗えぬ運命なのか?
時は1970年代のある寄宿舎。
主人公たち3人の子供たちは、
そこで厳重な管理の元、生活しています。
物語の「背景」は、早い段階で明らかになります。
3人の主人公の友情と恋愛模様が中心に描かれるんですが、
その「背景」にあるものを
観ている側は意識せざるを得ません。
人は誰でも、いつかは死を迎える。
それは誰にも抗うことはできません。
決して抗えぬ運命の中で、もがき苦しむ若者たちの姿を
残酷なまでに淡々と描いた作品です。
果たして主人公たちは、
本当に運命を受け入れていたのか?
それとも、諦めに近い気持ちだったのか?
子供の頃からの教育で「洗脳」されていただけなのか?
あまりにも、やるせなく、切ない作品でした。
私の心を掴んで離さない、ショックが心から離れない衝撃の問題作。
これは、近未来SF作品では無い、もしかして、知らない何処かで本当に行われているかも知れないと言う恐怖に駆られた映画だった。
医学の進歩により、本来なら助からない命を、ドナーの臓器提供により生き延びる事が可能となった現在、それは犯罪では無いし、双方が納得していれば、臓器提供するドナーは、
現在まで生きていた肉体は、死滅しても、身体の一部の臓器が、他の人の臓器となり、新しい肉体で生き始める事で、新しい命を得て生きる事になるのだ。
それ自体は決して悪い事ではないだろう。ドナーの家族も、時にそうして、命がバトンされる事で、ドナーとの死別の心の悲しみを和らげられる事すら時にはある。
海外では、脳死や事故死等で、死が判定された時、臓器提供をするドナーは、生前、臓器提供する事に同意しているので、自分の肉体の死を受け入れる。が、それはあくまでも
不慮の事態であり、ドナーが生れ付き、本人の意思で判断出来ない年齢から、ドナーとして生きる事が運命付けられているのでは決して無い。
ドナーの生産工場と言える、寄宿舎ヘールシャムでの青春物語は、余りにも残酷だ。
改めて、生命とは?生きるとは?人生の目的は?人を愛するとは?生と死とは?
生命の領域、それは人間と神との関係の領域でもあるが、敢えてこの映画は神の領域を無視している。
人間は、死を間近にすると、自己の人生の清算を誰でもするのだろうか?
2回に及ぶ臓器提供を済ませて、衰弱したルースが、キャッシーとトミーに、最後の償いをしようと試みたが、その願いも結果的には、キャッシーとトミーが一抹の夢をも叶える事が出来ない、悲しいラスト、
3人が、初めて外出したシーンが蘇る、そして、3度目の臓器提供をするトミーの笑顔が脳裏から離れない。只ガラス越しに、見守る事しか許されないキャッシーの虚ろな顔が心を捉えて離さない。
暫らくは、未だ、心の整理が付かないだろう。予告を見た時から見たかった。映画館では、怖くて無理と判断して、DVDが出る迄待ってから観たが、予想はしていても、此処まで引きずる映画になるとは・・・
片田舎の風景が、そして海に打ち上げられた、古船が、ルース、キャッシー、トミーの悲運をより印象深いものにする。
私たちは、この一瞬一瞬を、日々大切に、愛しんで、生き抜いて行きたい。
そうだ、自分の人生を大切に生きる事、愛する事は、それはきっと他の人の人生を同時に豊かに、活かす事になる。人の心は決して、離れずに繋がっているのだから!
愛する大切な人と、是非一緒に観て欲しい作品だ。
生きる事、命の尊厳についての映画なら、『ミスタ・ノーバディ』や『最高の人生の見つけ方』そして『ミリオンダラー・ベイビー』『サイモン・バーチ』と観比べてみても、良いかも知れない。
どうしようもない彼女の世界。
原作は読んでいません。
原作も映画同様、こんなに諦めと切なさの漂う世界観なんでしょうか。
読むのは辛いなあ。躊躇いますね。
もし、現実だったとしたら?という薄ら寒さを、更に強くしてしまいそうで。
ここまで倫理感を取っ払った世界。
それを許容された世界。
それを受け容れるが如く、どこか超然とした態度の主人公達、三人。
諦め?達観?虚無?挫折?
生きるとは?
終了とは?
何故に生きる?誰の為に生きる?何で生きる?
『彼(彼女)ら』と『自分ら』の違いは何?
そんな疑問すら、抱いているのかいないのか…。
主演のキャリー・マリガンの静かで細やか、且つ情感豊かな表情。それを見てるだけで、この行き詰った閉塞感が“暴れても逃げても仕方ない”“どうしようもない”世界を体現してて…もう。もう、何だろう。
こんな世界と倫理感はとても迎合できないですよね。
自分には出来ない。
このモヤモヤ、暫く続きそうです。
近未来の出来事でないところが怖い
予告篇を見れば、特異な寄宿学校で暮らす生徒たちの生い立ちと、その目的はおおよそ見当がつく。本篇でも隠さない構成になっており、シャーロット・ランプリングが怪しげな空気を発散しつつも、早い段階で秘密は暴かれる。
この作品は隠された秘密を暴くミステリーものではなく、未来を奪われ未来を決定づけられながらも、この世で賜った生を懸命に全うしようともがく若者達を捉えたヒューマン・ドラマだ。
少年時代のトミーはよくイジメにあう。だが、イジメも未来があってこそだ。未来のないイジメは虚しい過当競争に過ぎない。何をやったところで、皆、同じ運命をたどるのだ。
造られた肉体とはいえ、彼らは肌のぬくもりを持っている。度重なる手術で命尽きたとき、もう用はないとばかりに医者は縫合もせずに手術室を出て行ってしまう。特定の人種に対する冷淡な行為は、なにやらアウシュビッツに重なるものを感じる。
どんなに抗っても運命から逃れられない医療の裏社会。これが近未来の出来事ではなく、もう数十年も前から行われているという設定が逆に怖い。
自らの宿命に憤りを感じながらも、“終焉のとき”を受け入れる道しか選べない3人の姿に、その代償で救われ手に入れた命とはどれほどの意味があるのか。医療と倫理の狭間に投げ掛けられたメッセージは、人類への大きな宿題と化す。
子役がいい。とくにキャシーの子供時代を演じたイジー・メイクル・スモールは、キャリー・マリガンへの繋がりが抜群だ。
キーラ・ナイトレイは相変わらず同じ表情しか出来ない。
ずしりと重い印象を残す映画です
この悪夢のような物語を書いた作家と映画にした監督を恨み・感謝します。
悪夢から覚めてふと考えると、現実に似ている気がする。
よく考えると、現実と区別がつかない。
短い生をしっかりと生きなければと思いました。
やるせなさ過ぎるじゃんか…。
タイトルとかチラシの印象から、
『切なくて儚い恋愛の物語』かと思ってたけど…
いやいや、確かに
『切なくて儚い恋愛の物語』なんだけど…
なんとまぁズッシリ衝撃的でございましたわ。
臓器を提供するためだけに生まれて…いや作られて、俗世間から隔離された寄宿学校で生活する子供達。
彼等は『大きくなったら何になりたい?』なんて、そんな質問があるコトさえも知らないまま成長していくんだ。
『死』を『complete/終了』と呼び、それを恐れることはなく、
管理されるままに臓器提供を繰り返し、もうそれ以上提供出来なくなれば『終了』。
もしかしたら『命』という概念自体、彼等には無いのかもしれない。
でもね、そんな彼等にももちろん感情はあるし、恋愛だってするんだ。
愛する人と、少しでも長く一緒に過ごしたいって当たり前の感情だよね。
それでも、
『そんな自分の意識の入れ物であるこの身体は』
『自分の意志でどうにかしようだなんて考える対象ではない』
『コレを必要とする誰かの為にあるんだ』
っていうのが、
『純粋培養』されてきた彼等にとっては、微塵も疑うことのない事実なんだよ。
やるせなさ過ぎるじゃんか…
とてつもなく残酷で哀しいが、静かで美しい物語
人は、過酷な運命を強いられた時、どうするだろう?その運命を好転するために、立ち向かい道を切り開くことの「勇気」は必要だが、時にその運命を受け入れる「勇気」も必要だ。しかしその「受け入れ方」によって、その人の「強さ」の度合いがある。
寄宿学校で学ぶキャシー、ルース、トミー。一見典型的なイギリスの寄宿学校に見える『ヘイルシャム』だが、すぐに大きな違和感に見舞われる。周囲と完全に隔離され、子供たちには徹底的な健康管理が行われている。その違和感の正体、それは—、ここに集められた子供たちは、臓器移植を目的に作られたクローンだということ—。この子供たちは成人になるとすぐに数回の臓器移植が行われ、ほとんどが30歳に達する前に”終了”を迎える。この”死”ではない”終了”という言葉にすでに彼女たちの立場が明確に表現されている。彼女たちは外の世界にとっては医療の”道具”に過ぎないのだ。物語が進むと彼女たちの「オリジナル」は、教養のある富裕層ではなく、娼婦などの社会の底辺に生きている者たちだということも分かってくる。本編では触れられてはいないが、私が想像するに、おそらく教養ある富裕層たちは、クローン技術に対して非を唱える人が大勢いるであろう。金の為にDNAを提供するのは下層階級の者たちだ。しかし実際に臓器提供を受けられるのは富裕層たちなのだ。未だに階級意識の強いイギリスならではの皮肉な状況となっているだろう。外の世界の富裕層たちにとって、『ヘイルシャム』の子供たちは下層階級に生きる人間「以下」の存在なのだ。それを如実に現しているが、ここの子供たちが待ちわびている「買物の日」。ダンボール箱に詰められてくるオモチャなどを、オモチャのコインで買うのだが、どう見てもそのオモチャは、外の世界で捨てられたであろうただのガラクタなのだ・・・。トミーはその中から1本のカセットテープを買い、キャシーにプレゼントする。そのラブソングには「わたしを離さないで・・・」のフレーズが・・・。
3人は成長するにつれ、ごくごく普通の若者のように恋や友情に悩む。嫉妬心と、置いていかれる孤独感によって、キャシーからトミーを奪ったルースは、そのことを後悔し、2人に最後の望みを託して”終了”して行く。彼女の開かれた目が映すのは「諦念」・・・。ルースから「本当に愛し合っていることが証明できれば、数年の猶予が与えられる」という情報を得て、愛を証明するためにヘイルシャムの校長を訪ねるキャシーとトミー。一縷の望みのために必死に絵を描くトミー。解っているのだろうか、それは「猶予」であって「免除」ではないことを?たった3~4年でも愛する人と暮らしたいと思う若い2人の心に、私は涙を禁じえなかった。無常にも希望は絶たれる。はじめから猶予などなかったのだ。激しい慟哭を残してトミーも”終了”して行く、愛するキャシーに見守られながら・・・。彼の最後の微笑みに浮かぶのは「甘受」・・・。
それではキャシーは・・・?
キャシーには他の2人にはない「強さ」がある。自分の「立場」を一番理解しているとも言えよう。彼女は自分の意思で行動できる「力(パワー)」もある。彼女の強さを証明しているエピソードが2つある。まず、ゴミ箱から拾ったポルノ雑誌を見るシーン。最初は思春期の少女の好奇心からなのかと思ったが、後にその写真の中に自分の「オリジナル」がいないかどうか探していたことが分かる。「そんな物見るな」というトミーに彼女は「一緒に見よう」と答えるのである。自分の「オリジナル」がヌードモデルだったとしたら、普通なら人には隠しておきたいと思うものだ。それが好きな男の子だったらなおさらだ。しかし彼女はトミーに「一緒に見よう」と言うのだ。自分の全てを共有しようとする絶対的な信頼があるということだ。もう1つは、彼女は「介護人」としての仕事を自ら進んで行うこと。「介護人」とは、提供者の精神的な支えとなり、”終了”を見守ること。普通は「介護人」とは名ばかりで、自分が提供者になる前の数ヶ月を何もしないで暮らすという。しかし彼女は進んで何人もの提供者の”終了”を見守って来た、その姿は後の自分自身であることを承知の上で。彼女のこれらの強さはどこから来るのか?それはラストシーンで明らかにされる。本気で人を好きになったこと、そして『ヘイルシャム』の思い出・・・。『ヘイルシャム』で校長が子供たちに絵を描かせたのは、「愛」を証明するためではなく、子供たちの「魂」を証明するためのものだった。それは外の世界に彼女たちの存在意義を示すためではなく(哀しいかな彼女たちの存在意義は認められなかった)、自分自身の存在意義を気付かせるためだったと私は思う。最初から死に行くために生まれた子供たち、本来なら愛も魂もアイデンティティも必要無い。健康な臓器さえあればいいのだ。しかしヘイルシャムの子供たちは、未来を悲観して自殺したりしない、運命を受け入れる。ほとんどがルースやトミーのような「諦念」と「甘受」だろうが、キャシーは運命を受け入れること自体に、アンデンティティを見出したのである。
本作は残酷でとてつもなく哀しい物語だ。全編を支配する静謐で荘厳な雰囲気は、キャシーの心情そのものだ。色味を抑えた美しい映像とも相まって、観る者に深い感銘を与える。3人が揃って最後に出かけた海辺の情景。砂浜に横たわる廃船、大海原に出ることなく朽ちていく船が3人の姿と重なり、傍観者である私には、ただただ泣くことしか出来なかった・・・。
生き続けるということ
人間のエゴを全て実現すると、映画のようなクローンによる臓器農場が出来上がるかもしれない。クローンとはいえ人間であるから生の要求、自由の要求はあるはずだが、臓器の提供を受ける側の論理で、従順なコピー人間のみが登場する。全てが生きたいと思う人間のエゴで覆いつくされている。
ラットの体から人間の耳が再生されている。耳に意思はない。恋愛もしない。同級生からいじめられて大声を張り上げない。うわさ話を信じて臓器提供を先送りしたりはしない。ラットの耳であれば、抵抗なく、病気の耳と交換することができるかもしれない。
でも一歩先にクローン人間の飼育を欲しているかもしれない。
この薄皮一枚のエゴの違いがと気になった映画となった。
自分は献体腎移植を待つ透析患者。切に移植を待つエゴに気付かされた。
自分の生も唯一。クローンの生も唯一。その唯一の生を全うしていきたい。
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