「Never Let Me Go」わたしを離さないで 重金属製の男さんの映画レビュー(感想・評価)
Never Let Me Go
長い科学の歴史において、羊や牛などを筆頭に人工的な動物個体のクローン作成は多数成功例があるが、ヒトのクローン作成の成功例はいまだないとされる。日本ではクローン技術規制法によってヒトのクローンを作成することは禁じられており、その理由の一つとして「クローン人間に普通の人間と同等の人権が認められなくなる」ことが挙げられる。私自身、本作を観ていて一番懐疑的になった点である。原作はカズオ・イシグロ氏の同名SF小説であるが、現実では成功例のないクローン人間の葛藤を題材にした作品であることを踏まえると、ある意味ディストピア的で、それに対する警鐘を鳴らしている物語であるといえるだろう。
「臓器提供の倫理を実践する最後の場所」であるヘールシャム。一見、よくあるイギリスの寮生活の風景なのであるが、実際は外界との接触がなく閉鎖的で、食事や習慣は恐ろしいほど皆同一化され、校歌の歌詞には洗脳まがいのフレーズが登場する。しかしながらそのような環境をもってしても、生徒たちの「魂」に介入したり抑圧できない領域があったのではないだろうか。ルーシー先生は、中年になるまでに「終了」してしまうかもしれない自分自身の「生」に意味を持たせなさいと警鐘する。それからコテージで多感な時期を過ごし、愛し合う者がいて、介護人になることを選ぶ者がいる。それぞれが「生」に意味を見出し始めるも、時は流れて提供者として「終了」を迎えるという避けられない現実を受け容れるルースやトミーの表情からは、かつてのあどけなさは消え失せ、絶望が影を落としている。
生まれた時から死ぬことが決まっていて、限りある時間の中で生きていくという事実は、キャシーやトミーやルースだけにではなく、本作を目の当たりにする私たちにも同じなのだ。彼らには「生」の有限性が強調されていて、観る者はより一層強くその事実を認識させられざるを得ない。「自分たちと救った人の間に違いがあるのか」いや、ないはずだ。
いかなる理由であってもクローン人間など作られるべきではないのであるが、クローンとはいえ作られた以上は人間であり、人間として与えられる当然の権利・尊厳は守られるべきだと私は思う。