「本当に親と言えるのは、どんな人?誰の立場からみるの?」キッズ・オールライト Ryuu topiann(リュウとぴあん)さんの映画レビュー(感想・評価)
本当に親と言えるのは、どんな人?誰の立場からみるの?
人種の坩堝・アメリカ社会では、人種問題以外にもこんなに多くの家族の形態があるのだね!人は誰でも人間としてこの世に生を受けて誕生する時には、人間の親を誰もが持っている。だがその親が必ずしも男と女の組み合わせとは限らず、または、男女の結婚した二人の間に生れてくる子供ばかりとは限らないと言う、家族の多様性にスポットを当てた、この家族の群像劇には驚きと同時に、この様な家族の在り方を真正面から描いた映画作品が出来る社会?と言うか、米映画界の表現の多様性と、懐?の広さに、正直脱帽した。
1980代初頭、エイズと言う病がアメリカのゲイカップルの中で多く蔓延した為、ゲイ社会の暗黒期とこの時代は呼ばれ、多数のゲイカップルの苦悩が描かれた映画が一般の作品の中に混じって普通に劇場公開される事になった。これらの映画で明らかにされたゲイカップルの悩みの一つに、同性婚の場合には、当然肉体的な機能上、お互いの血の繋がった子供がこのカップルの間には出来ない。そこで精子提供と言う、無精子症や、その他の病気及び何らかの事情で、子供を妊娠したいが、二人のカップルの間に子供が出来にくいカップルの為にと、人工授精と言う新たな医療技術の進歩で、懐妊の新たな手立てが出来た。90年代に入ると、ゲイカップル+ベビー=ゲビーと言う造語で、ピッタリと表現される様な、ゲイカップルでも二人の間に子供を持ち家庭を築くと言う新たな家族の形態が出来たのがこの時代なのだ。するとその頃に、誕生したゲビーたちの子供が、今では成長しハイティーンの多感な思春期や、成人を迎えるような年代となり、そこでまた今迄に無い新たな家族の問題や人間関係のもつれが生れると言うのも頷けるのだ。
日本でも、母子家庭、父子家庭、初めから結婚しないで出産をしたシングルマザーの家族や、最近ではゲイカップルとその子供たちとの家族の問題を抱えている人が少なからず我が国、日本でも存在しているのかも知れない。
しかし、家庭の事情は、その家庭各々の状況が違い、その事で引き起こされる家庭問題と言うもの千差万別なのだろう。しかし、人と人が出会い、気が合って、相性ぴったりの人間同志が、生活を共に始め、いつしか家族と言う人間関係を築いて暮していくその中には、
喜怒哀楽と言う人の自然な感情が、生れては、消えまた生れては消えと、日々新しい感情を共に味わい生活時間を共有して暮す事、そのプロセスにある人々の関係こそ、家族と言うものなのでしょうか?と結論するのが、この作品のテーマなのだ。
家族と言う存在の人間同志が最初から存在しているのではなく、日々生活を共にし、暮して行く中から、それぞれ独自の人間関係が結ばれて出来上がっていくそのプロセスに関わりつつある人間同志の事を家族と呼ぶのでしょう。
この映画で、ニックは息子のレイザーにとっては、この世で只一人きりの父親の存在を、精子提供者と呼んで、最後には追い出してしまうのだが、このシーンは少しばかり、淋し過ぎる気がしなくもない。確かに子育てをしていない提供者だ。しかしそれは、親として責任を放棄して、同居している普通の家庭の父親存在ではないのだから。始めから精子提供者は、扶養義務を課されている親では無いのだから、義務を更意に放棄していた訳でもないのだ。そして、2人の子供の遺伝子的には父親なのだ。子供立場からみれば、ゲイの親を自分の意思で選んでいる訳でもいない。
誰の立場に立って家族の存在を考えるのか?同じ家族の構成メンバーでも、誰の立場から家族をみるのかで、観方が変われば、その存在意義も大きく変化する。
人は、誰を愛し、誰の為に生きるのか?そして何故生きるのか?また何処の誰でも考えるべき必要の有る問題だ。
そんな日々それぞれの家庭内で引き起こされる家庭問題を改めて、深く考え直させられる映画だった。