劇場公開日 2012年11月2日

のぼうの城 : インタビュー

2012年10月30日更新
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野村萬斎「のぼうの城」で体現してみせた“すきを見せる演技”

時代劇の枠を軽やかに、そして優雅に飛び越えた異色の戦国武将が誕生した。狂言師・野村萬斎が9年ぶりとなる映画「のぼうの城」で演じた成田長親だ。石田三成率いる2万の軍勢を500の兵、領民で食い止め、豊臣秀吉が唯一落とせなかった忍城の城代。歴史的にはほとんど知られていない存在だが、萬斎が息吹を与え強じんな意志をもたらしたことによって、表舞台に躍り出たといえる。普段はひょうひょうとしながらも肝心なところでの毅然とした態度には、現代の日本が求めるリーダー像が垣間見えた。(取材・文/鈴木元)

(C)小学館 カメラマン:五十嵐美弥
(C)小学館 カメラマン:五十嵐美弥

長親は忍城城主・成田氏長の従弟に当たるが、武将らしさはみじんもなく領民からも「でくのぼう」を意味する「のぼう様」の愛称で呼ばれている捕らえどころのない人物だ。萬斎も、意外なオファーだったと振り返る。

「僕はどちらかといえばシャープな役柄が多いので、ボーっとしている役は自分のイメージなのかなあと思っていたら、周りの人達に『ピッタリじゃない』とやけに勧められました。台本を読んでも難しい役どころで、どういう人なのか、何を考えているかの描写がない。イメージがわき出てこなかったですね」

それでも、今までにやったことがない役ということに興味をひかれ快諾。役へのアプローチも試行錯誤したそうたが、長親の幼なじみで歴戦の強者・正木丹波守利英役の佐藤浩市との本読み(セリフ合わせ)できっかけが芽生えたようだ。久保田修プロデューサーが、長親の“ムチャ振り”に丹波がうろたえるという構図、脚本に書かれている関係性が具現化したと述懐する。

「まじめに普通に読んでいたつもりなのに、皆が大笑いしているからよく分からなかった。そうですか。ちぐはぐだと思ったんですけれどね。こちらが攻めて、浩市さんが受けてくださったんだと思います。丹波は実務的に重石になる役だし、丹波の目線で語られているところもありますから」

そしてクランクインから2日目、山口智充、成宮寛貴ら忍城を守る他のメンバーが一堂に会したときに、長親の立ち位置が明確になった。重要なのは、いかに周りから浮くか。犬童一心、樋口真嗣両監督の目指すものとも共通していた。

「皆のキャラクターがはっきり決まっていて、僕のポジションだけ全く空いていることが分かったんです。そこで浮いていればいい。皆と違うリズム感、音の出し方というか、最初からこういう役ですと決めるのではなく、周りに対して浮いているということで、悩んでいたのがばかばかしかったなというくらいの身の置き方ができました。自分が培ってきた狂言も非常に発揮しやすく、大変楽しい水を得た魚のつもりでいられました」

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長親は、小田原城に向かった氏長から三成率いる天下軍に対し無条件で開城せよとの命を受ける。本人もそのつもりだったが、使者である長束正家の不そんな態度に表情を引き締め「戦いまする」と言い放つ。とても戦略があるようには見えず、丹波たちもあっけにとられる。その後の現代的な言葉遣いのような丁々発止のやりとりが実に面白い。

「道化のポジションというかトリックスターというか、一番分かりやすいのはジョーカー。非常に強いカードなのかカスなのか分からない、予測させないということです。予定調和的に、このシーンはこうなるでしょってところで終わってはいけない。監督も心得ていて、思いもよらぬことが起きると喜んでくださるようなところがあった。それがこの役の重要なことのひとつじゃないかな」

2万対500。数の論理では圧倒的不利は明らか。それにあえてあらがい、領民も一体となって反撃を見せる合戦シーンが小気味良い。長親は合戦には参加せず、総大将として戦況報告を受ける立場だが、周囲の奮闘に押されるように武将として頼もしくなっていく。

「自他ともに認めていない人が、だんだん勝負師の器があることが見えていく眠れる獅子が目を覚ますイメージ。マスクは格好良くないんだけれどね(笑)。そこに人間の成長や不思議がある。のぼう様は彼自身がそれを見いだしたわけではなく、周りが引き立てることで伸びていった。それは無意識のうちに、本質的なことのみを考えて行動していたから。降伏して当然だけれど、人間の尊厳として数が多けりゃいいのかと。全部が理詰めで落ちてしまって先が見えるとつまらないと思う。この映画はある意味、『のぼう様はしようがねえなあ』というところから始まっているのかもしれません」

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インタビュー2 ~野村萬斎「のぼうの城」で体現してみせた“すきを見せる演技”(2/2)
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