黒く濁る村 : 映画評論・批評
2010年11月22日更新
2010年11月20日より丸の内TOEI、シネマスクエアとうきゅうほかにてロードショー
おぞましき構造腐敗を新世代が掃き清めようと挑む寓話
父の死をめぐる真相を息子が解明するために「村」を訪れる筋書きは、横溝正史的な血と絆の物語を想起させる。ミステリーとしての体裁は王道を踏まえ、村の秘密に迫るにつれ起きる殺人の手法もバラエティに富んで、屈折したキャラクターたちは泣き喚き叫び脅え、長丁場を魅せる。しかしそれらは、あからさまに語ることが憚られる事実をくるむオブラートである。
「1978年頃」から始まる物語の本当の主役は、韓国現代史であろう。表層は土着性を帯びた「八つ墓村」的に見えても、村の正体は現代社会そのもの。暗喩的記号を散りばめた「プリズナーNo.6」的ともいえる衆人環視のビレッジは、その淀みきった在りようを痛烈に批判するために用意されたものだ。
救済を必要とする民や過去を背負った罪人を支配しようとする、方法論の異なる2人の男。地に足をつけ暴力や金で服従させる現実主義者と、神を語り人心をかどわかす祈祷院の説教者。善悪の単純な棲み分けは意味がない。政治と宗教は互いに利用し合い、地下で繋がっている。軍事独裁政権下からようやく解き放たれ、歴史が長いとはいえない民主国家でくすぶり続ける旧制度の残滓。これは、合理主義に基づく新世代の若者が、おぞましき構造腐敗を総括し掃き清めようと挑む寓話だ。ただし真の勝者は、欲望に満ちた男どもに弄ばれつつも、復讐の機会を狙ってきた女性かもしれないという視点が、余韻を豊かなものにしてくれる。
(清水節)