空気人形のレビュー・感想・評価
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人間を作った神様でもわからないと思うよ
映画「空気人形」(是枝裕和監督)から。
「私は空気人形、性欲処理の代用品」・・
このフレーズが何度も流れたが、そんなに違和感はなかった。
その人形が、人間と同じ「心」を持つことにより、
嘘をついたり、いろいろな感情を体験する。
その中で印象に残っているのは「切ない」という気持ち。
ある人を好きになり、その人のことを想うと、切なくなった。
それを「心を持つことは、切ないことでした」と表現したが、
人間には、好むと好まざるに関わらず、生まれつき「心」がある。
(勿論、他の動物にも心はあると思うが・・)
その心が、満たされているのか、空っぽなのか、を考えるのもいいが、
彼女を作った役を演じる、オダギリジョーは、作品の中でこう呟いた。
「なぜ、心を持ったか、なんて、
人間を作った神様でもわからないと思うよ」と。
言い換えれば、それを受け入れるしかないんじゃないか・・と
心を持った「空気人形」を諭しているようだった。
心があるから、辛いけれど、心があるから、幸せな気分にもなる。
人間として生まれたのだから、自分の考え方次第でどうにでもなる。
これからも、その「心」と仲良く付き合っていきたいと思う。
空気欲。
ラブドールの恋話といえば「ラースと、その彼女」が浮かぶ。
あの人形は動かなかったが、周りの人間達の心を動かした。
今回は人形に心が宿って、歩いて動き回り、恋も経験する。
似て非なる話にはなるが…何かの代用品として購入されて、
やがていつか捨てられる(忘れ去られる)存在に変わりはない。
現代人の空虚で孤独な世界を垣間見せ、それでも何処かに
拠り所を求めずにはいられない「欲」の世界を巧く描いている。
ぺ・ドゥナはいきなりの全裸からして^^;よく頑張ったと思う。
あまりこういうシリアスな雰囲気を感じていなかったのだが、
彼女の素っ頓狂な表情がかえって新鮮で可笑しさを醸し出し、
愛らしい人形に仕上がっている。誰かの心を埋めるための
代用品である自分が、誰かを愛し傷つき、同じ思いを味わう。
心を持ったことが幸か不幸か、自分のアイデンティティーを
探りながら(ここも面白い)どんな最期を迎えるのか、早々に
予感させてしまう演出が怖い。が同時に幸福でもあるという、
本当に難しい演技解釈がよくできたなぁと感心した。
感情を持つ人間同士が付き合うのには確かに骨が折れる。
人形の持ち主である板尾創路(なぜ彼?^^;)が恋人と別れて
以降、人形としか愛を交わさないという生活をしているのも
「面倒くさいからイヤだ」という定義付けをしている。
なんでも言うことを聞いてくれて、逆らわず、自分の欲だけを
満たしてくれる存在があったら、疲れた人間はそこへ流れる。
ただでさえやってられない毎日なのに、これで口答えされちゃ
堪ったもんじゃないということね^^;どこの家庭でもありそうだ…
後半で「ビックリ」する展開が待ち受けているが。。
直前の場面でオダジョーが言った台詞の意味が活きてくる。
彼女にしてみれば愛ある行為。であるがゆえ、さらに切ない…
もともと心がなければ、誰も傷つかないし傷つけもしない。
そうやって生きている人間こそ空気人形なのかもしれない。
(私は食べ物を入れないとダメです。料理で満たしてください♪)
吐息 心 風
「ワンダフルライフ」は「死」の方から「生」を振り返った作品だったが、
「空気人形」は「誕生」から「死」までの映画だった。
空気人形の腹部の空気穴は、へその緒そのものだ。
あと2週間ほどで15歳になる娘に、あらすじを話したら「重い映画だね。
だけど見たい!」とのこと。残念ながら娘が15歳になる日にはわが町での
上映は終わっているし、この重いけれど軽やかな寓話を彼女がきちんと
受けとめられるかどうか不安でもある。
こんなに寂しくて、キレイで、悲しくて、暖かい映画は見た事がない。
のぞみが最後に見た自分の誕生日パーティーの幸せな夢は、ワンダフルライフの上映会(命=心が消えていく旅立ちの時のための)にも通じる。
のぞみは産まれて、心を持って、生きた。
「空っぽだ」と言う純一に命を吹き込もうとのぞみが彼の腹部に穴を開けた場面、私は純一が彼女との交歓の中で自殺したと錯覚してしまった。
他にも見落とした事が沢山あるような気がして、是枝監督がこの映画のアチコチにちりばめたメッセージをしっかりと受け止めるためにも、もう一度映画館でじっくり味わいたくなった。
最後に、のぞみの吐息でたんぽぽが風と共に、彼女の周りの寂しい人達に届く。さわやかで深い余韻が残る。
人と人のつながりって?
ひとと人のの希薄なつながり。TOKYOという名の都会では、過食症の女の子が吐きながらもものを食べずにはおれれず、自分の欲望と理性の間で闘っている。満たされない職場での虐げを甘んじて受けながらも、仕事を続けていく男。誰の手助けを得ればいいのかわからない空間で、”孤独”を生きている。それは認められたいというプライドと認められないという現実の絞め木に挟まれて悲鳴を上げる精神を、かろうじて飼い慣らして平衡を保っているような、いわば精神のマン・オン・ワイヤー。
そんなココロの慰めに、ひとと人との関わりを拒絶したオトコが買った”のぞみ”というダッチワイフとの暮らし。空気人形だから、自分のいう愚痴を何も批判しないで聞いてくれる。自分の欲望や優しさを、無条件で受け入れてくれる。そんな空気人形がココロを持ってしまった。
ココロを持ってしまった人形はウソもつく、恋もする。そのなかで自分のことも知る。性欲処理の代用品。初めての恋の相手、純一も自分を前の恋人の代用品としてしか見ていないのではないかという疑念と、こみ上げる切なさ。
そういう人々の生を、吉野弘「生命は」という詩が救う。
生命は
吉野弘
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されでいるのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
星は自分自身ではどの星座に属しているか見えない。でも、見えないけれどある。
作品では、生まれてきた意味を肯定する。のぞみが人形師のところに行って返品され燃えないゴミとして処理を待つ人形たちにもココロがあるのじゃないかな、と呟く。そして、「産んでくれてありがとう」といってまたもとの町に帰っていく。代理品ではない自分の生き方を求めて。しかし、純一はその目の前で自殺をはかり、のぞみはそれを、純一が自分を救ってくれた同じ方法では救えないことに、ココロを持つがゆえに絶望する。
そして、自らゴミ捨て場へ・・・・。そこで自分の誕生日を祝うサプライズが行われる夢をみる。生まれてきてよかったのだという確認。
この映画は希望の映画だと思う。吉野弘の詩にあるように、生命は自らの中に欠如を抱き、他者にそれを満たしてもらうもの。ダッチワイフの持ち主がそうであったように。そして、のぞみが純一の心にとって風であったように。
しかし同時に絶望の映画でもないだろか。
この映画を見終わるとまず、他者のなかに空気人形を捜す。しかし、その行為はすぐに自分への疑念を向ける。
もしかしたら、このワタシはココロヲモッタニンギョウデハナイノカ?
あとからいろいろ考える
原作を中学生の時、父親が買ったビックコミックだかビックコミックオリジナルだかで偶然読んで、よくわからないまま涙した
大人になって、単行本を買って、内容をきちんと理解して、涙した
ある意味思い入れのある作品
楽しみにしていた映画は、思い入れが強かっただけに、評価し難いところだけど、これはこれでとてもよかったと思う
群像劇のようなロードムービーのような感じもありつつ、なんとも不思議な空気感は、空虚感のような虚しさを含んだ
人と接することがめんどくさく感じ、人形へ愛情を注ぐ現代人のリアルも、その気持ちが理解できてしまうことが悲しい
涙こそ出なかったけれど、しばらくいろいろなことを考えた
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