空気人形のレビュー・感想・評価
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身体に空いた穴、つまりへそが性癖である
是枝裕和監督作品。
物体と人間の境界。
誰かの「代用品」である空気人形が、なぜか「心」を持ってしまう。それは不思議なことである。しかし労働力商品として資本主義社会の「代用品」である私たち人間は、なぜか「心」を持っている。その境界がどれだけ違うのかはよく分からない。そして後者を不思議と思わないことが、むしろ不思議である。
だからノゾミと純一は、同質さを感じるのだろう。物質で構成された身体と心の解離によって生じる空虚さによって。
ノゾミは身体に空いた穴から空気が抜ければ死んでいくし、息を吹き込めば生き返る。純一がノゾミの身体から空気を抜きたいと思うのは、希死念慮からであろう。そう考えると自殺とは、自らの心を抜き物体へ還す行為と言えるのかもしれない。ノゾミは純一と同質さを感じるが故に、身体の構成も同様と考えたため、純一の腹に穴を開ける。だがそれは純一にとって完璧な自殺であり、空虚さから開放された「幸せなこと」なのであろう。
しかし、である。私は自死を「幸せなこと」とは捉えたくないのである。「生きていること」を無条件に肯定したいのである。心は目で見えないし、身体が置かれている世界から疎外されて空虚さを感じることにもなる。だが目で見えない=不在と空虚は別のことである。
私は、ノゾミが好意を寄せる純一の息で身体を満たすことを幸せなことだと思う。そしてこれが「生きていること」を無条件に肯定するための行為だとも思う。私たちも自らの身体に絶えず息を吹き込むべきだ。誕生日ケーキに立てられたろうそくの火を消すように。それは誕生の肯定と捉えることができる。またその息は、「好きなこと」と抽象的にしか言えないかもしれない。だがそれは他者(性)を簒奪した物体にしてはいけない。とても難しい禁止だが、「人間」を「空気人形」にしてはダメなのである。
息は絶えず身体から抜け出し、空虚さが充溢していく。だから絶えず息を取り込み、「好きなこと」で満たしていく。この運動こそが生きることである。そしてそれは〈顔〉に現れていくのではないだろうか。本作では、空気人形が廃棄され戻ってきたとき、「幸せな人生」を歩んだかどうかで同じ物体なのに表情が違うことが述べられている。だからノゾミと純一が物体としてゴミ捨て場に捨てられる様は「美しさ」を感じる。しかしそれは人間が物体にならずとも人間のままできっと言える。生きている時にみせる〈顔〉に美しさが現れるはずだからだ。
人間の「心」のあり様が物体の〈顔〉に現れることは不思議なことだ。そう考えると物体と人間の境界は有機的なのかもしれない。だがそれを考えることができるのは人間のみだ。
ダッチワイフは愛されてる
ダッチワイフに心が芽生えました。
なんというピンクな設定!主演はペさん!
ズコーッ
なんでこんな糞映画になるのかね。こっから先はオレの妄想っちゃ妄想なんだけど、ダッチワイフに心が芽生えたら、私は性欲処理の代用品、なんてセリフ一発目に吐かねえだろ。普通(知らんけど)私めっちゃ愛されてるじゃん、と思うじゃね?(ほんま知らんけど)
もうこのセリフを聞いた時点で、ああメルヘンな映画になるんかあ、と思いつつ、いやいやまてまて、ペさんだし、がっちり脱いでくれてるし、まだまだあ!
ズコーッ
しょうもないメルヘンでした。
ペさんを脱がせた功績は大きいと思うよ。しかしペさんはアジアの至宝。なのにこんなつまらん映画で脱がせて、誰もヌ、いや喜ばんて。かといって見るも痛々しいセックスシーンを入れたり、話は変質者的に上から目線で人間語ったり、このアンバランスな感性はこの監督、ホモなんじゃないか、という失礼な印象までもってしまったぞ。
まあ、要するに面白い設定を上手く扱える監督ではなかったということか。
オレの感想はほとんど悔し涙だな。しかし韓国の90%の人は、オレのこの複雑な思いを分かってくれそう、と勝手に期待する。
うーん、やっぱり妄想先走りのオレが悪いんかなあ
命とは、綺麗な心かも知れない。
内容は、ピノキオの様に人間に渇望されることにより心を持ってしまった空気人形🧜♀️の話。童話と詩歌を織り交ぜた映像に凝った作品で面白かった。原作の漫画は20ページと短いが、是枝監督の作家性が溢れ出して物語を醸し出している全く別物の映像作品。何と言っても主演の韓国人女優の凄さには驚かされます。登場している役者にも全て繋がりがあり、考えずに見ていると面白さが分からないので好き嫌い分かれるかも知れません。持ってはいけない心を持ってしまった人形と持ってはいけない無関心を持ってしまった人間の対比で描かれる優しくも残酷な世界はキレイなのかもしれません。最後の空気を入れ合う暴力的な場面は優しくもキレイでアラタの自業自得が表現され腑に落ちた。アラタは無意識に相手を痛めつける性癖があったのだ。そして最後のゴミ置き場は自分の死と再生の儀式で解っていたが胸につまされ良かった。原作の短編漫画をここまで膨らませる作家性に嫌悪と尊敬の念を抱く作品。是非観て見ては如何でしょうか?!
代用品
空気人形(のぞみ)
性欲処理の代用品ラブドール
何時しか心を持つようになって町で人と出会い
人と植物色々な事に関心を持つようになる。
雨垂れに手をかざすところから人間になっていく
音と共に不思議な描写に惹きつけられる
雨垂れをキレイと言った瞬間人形に心が吹き込まれる
空気人形を通して生きている世界は
代用品で担っていること
映画の代用品はレンタルビデオ
正社員の代用品は派遣社員
教員の代用品は代用教員
まさしく代用品で済んでしまう世の中
お前じゃなくても代わりはいるからと
人を物として扱ったら終わりです
また。人間は植物は生きているものには終わりがある。植物は枯れてそして種を残して新たな芽がでてくる。(そこには虫たちの助けもある)代用品があっての世の中 そこには空っぽな虚しさも。ラムネの空ビンを持ち帰るところは中身のない
空き瓶を
自分と重ね合わせていたのかもしれない。
新しいラブドールが置かれていた
自分は代用品 最後はごみに捨てられる
虚しいけどポエムの様な詩と音楽が相まって
メルヘンな感じの世界観が好きです
韓国女優ぺ.ドゥナの純粋な可愛いらしさが光る
たくさんのメッセージが込められている
おうふ…
原作未読
空気のようで空気ではない。たかが空気されど空気?
心を持った空気人形の「人形」としての描き方が中途半端に感じた。そのお陰(?)で彼女の存在が、いい意味で凄くあやふやなものになっていたと思う。
あと、終盤のあのグロ演出にはどういう意図が…。美談で終わらすまいとする何かを感じるが、とにかく後味が悪い。
GYAO!にて
大人の童話のような映画
アンニュイだけど大人の童話のような映画です。空気のような映画でした。ラスト一寸まえまでのストーリーもすごくよかった。
人形が人間になるあたりはよくできてました。ラストもきれいでよかった。
板尾創路はああいう役うまいですねえ。人形役のペ・ドゥナ、片言具合がまたいい味出しています。すごく人形みたいでした。
ペ・ドゥナが素晴らしすぎる!
かなり前に一度観て、良かった記憶がありこの度再視聴。
空気人形と言い換えてあるも、主人公はいわゆるラブ・ドール。そんなラブ・ドールののぞみが「心」を持って…というほんのりファンタジー。
(好きな作品なんだけど主人公が主人公だけに若干人に薦めづらいのよね…。)
個人的良かったポイント
・まずもって主演のペ・ドゥナがめちゃくちゃ魅力的。
この作品、画面の切り取り方や、小道具、衣装も可愛くてそれだけでキュンキュンくるんだけど、やっぱり主演のペドゥナちゃんが本当に人形みたいでものすごく可愛いのだ。
あんなに細くて本当に人形みたいな人いる!?
ヌードも披露してるけど、この作品においてはいやらしさより無機質さと美しさが勝るのすごいよな。
そしてヌードシーンよりも官能的なのがジュンイチから空気を吹き込まれるシーンなのだ。
・時代や人の心の空虚さと空気人形を重ね合わせるのはうまいなあと思う。
・この作品、びっくりするくらいセリフが少なくて、全編通してゆったりとした静かな雰囲気。その分登場人物たちの動きや表情に語らせているのがすごいなあと思う。
・改めて観たら出演俳優陣かなり豪華。
柄本佑さんや星野真里さんのあんな使い方。
人形職人役でオダジョーが出てきたときは嬉しかった。優しい眼差し、素敵だったなあ。
あとジュンイチにのぞみが空気を吹き込むシーンは切なくもあり、軽くホラーでもあった。
切ないはずなのに戦慄。
『生命は』 吉野弘著
11年前の作品。原作は未読。このサイトで自分の生涯ベスト5の1位を掲げているにも拘らず、レビューを書いていないことを改めて気付かされて頂いたのが、フォローさせて貰っている“風希”様のコメント。なので改めてDVDを鑑賞してのレビューを試みる。
実は、今作は1回も映画館でスクリーンを鑑賞していないのである。当時はCMで、主演のペ・ドゥナが小部屋内の天井に吊された太陽系惑星達の模型らしきもの(ビニール風船)と戯れるカットが印象的だった位のみに記憶していた。その後、DVDで始めて観たきっかけが思い出せないのである。そして1位にした理由も忘れてしまった。粗筋までは忘れてはいないが、どんな詳細な感想を抱いたのかさえ朧気である。唯々、映像が透き通っていて、もの悲しい、そして唐突な展開の驚きのみが心に沈殿していた。
原作は未読ながら漫画家業田良家自体は『自虐の詩』の作者としては存じ上げていた。大変哲学的な内容であり、人間の本質を鋭く抉る画風は、是枝監督も食指が動いたのであろう。
そもそも“ラブドール”(年配な自分ならば“ダッチワイフ”の名称の方がピンと来る)そのものが、現代における物言わぬ虐げられる対象としてのメタファーを孕んでいる物体なので、その物体が“心”というものを得ることでその目を通じて人間達をどう見て解釈するのかという建付けがベースとなっている。なのでストーリー展開としてはそれ程難しくはない。勿論、細かい設定描写の穴は露呈しているし、その穴を埋める想像力、又はスルー力を持ち併せないと本作を愛する事は不可能であろう。赤子のように自我が芽生える順序は飛んでしまっているし、始めからある程度の知恵が混入されているのは、そもそも人形だったときからの持主由来の知識を蓄えていた所から、生命そのものを封入されたのではなく、能動的に身体を動かす事により、その意味を探求していくという方向が正しいのかと思う。指摘すべきか迷うが、ストーリー上どうしても事実をねじ曲げてしまったものは、“ラブドール”そのものの物体である。これは、空気を充填するソフトビニール製という材質で、その材質の特製が今作に深く表現として関わっている特性なのだが、実際は本当に安価でクオリティの低いまさに“おもちゃ”そのものである。そして作中に映っているそれは空気を必要としないシリコン製の精巧な人形。突き詰めると物語自体破綻しかねない事実を監督がどうエクスキューズしているのかは未調査であり、これこそ“華麗なるスルー”力を発揮する最大の案件かもしれないと、蛇足かな?w
冒頭の持主の何とも言えない気持ち悪さの演技は板尾創路の真骨頂だろう。進化を自ら封印してしまった男のよすがは物言わぬ人間の形を成したビニールのみ。そのうら悲しさと不気味さは抑えても滴り落ちる艶な演技で負の本能を表現している。ビニールが軋む音は何とも言えない堕落さを醸し出している演出だ。そして、雨粒から心を封入された人形を演じる裵斗娜(ペ・ドゥナ)の裸体の美しさは誰もが魅了されるだろう。パフィーニップル気味の乳房だけでも、ロリータを彷彿させる幼さを表現せしめている。
人形としての残骸である、繋ぎ目の線や手が冷たい事、そして呆け気味の言動も、いかにも人形やロボットに心が宿ったらこうなるだろうと想像し易い演出であり演技をしっかりこなしている。
そしてここからは、「私は心を持ってしまいました 持ってはいけない心を持ってしまいました」と何とも悲しいモノローグが挿し込まれる、人間との世知辛い現実に塗れる。そして夜は気の乗らない持ち主とのお夜伽。そんな辛い経験を積みながらも、それを忘れるかのように、綺麗なもの、輝くものを探しに当てもなく彷徨う覚束なさもしっかりと観ている者に届く。
作品は、薄いが群像的構成にもなっており、身寄りのない男女の老人、メイド美少女マニア、受付嬢の年増OL、過食症の女、そして訳ありの父娘のそれぞれの現状を淡々と差込まれる。メインのレンタルビデオ店員との恋愛の危なっかしさも相俟って、それぞれの繋がりが重層的にサスペンスフルに昇っていく。分かり易いように“代用品”という、替えが利く現代社会を、『DVDは映画の代用品』、『あんたの代わりは幾らでもいる』等々胸を抉るような、所詮、人間も人形と同じ立場に置かれている現実を訴え続ける。人形は繋ぎ目をファンデーションで隠すことを覚え、映画の知識も身につけ、人間に近づく自覚を覚え始めた矢先に、レンタル店での仕事中でのハプニングで片思いの彼に正体を晒してしまうが、その“災い転じて福と成す”処置が、益々愛している時のトキメキを体現してしまう。その演出のアイデアは、勿論原作由来とはいえ秀逸だ。彼の息で体中が満たされる具体的愛情表現を見せられたことでこれ以上ない多幸感のクライマックスを、あの部屋の中の星の風船との戯れのカットで浴びるのである。尚且つ、正体がバレても余り動じない彼の何気ないが意味深の言葉『僕も同じようなものだ』が、この先の重要なキーワードとして楔を打つことをどれだけの観客は気付けるだろうか。
ここから潮目が変わる。ストーリー構成としてこれ程の『禍福は糾える縄の如し』を演出した緻密さは素晴らしい。愛する事が“生”ならば、終わりは必ず訪れる。それは“老い”であり、“死”である。警官による自転車のタイヤへの空気入れ、お爺さんの言葉『蜉蝣は卵だけが詰まっていて、その他は空っぽ、胃もない』は、影が差してくる展開を素直に表現している。“愛する”と言うことはその副作用として“嫉妬”や“独占”がもれなく付く。勤め先の店長からの恐喝まがいの強制性交、彼の元カノのお古のヘルメット、持ち主が新しく購入したラブドール。意を決して持ち主との対面で、自分の存在価値を確かめても、そこには愛情は無く単なる性欲処理としての立場を突きつけられる悲しい事実。これでもかと人形に不幸が降り注ぐシーンの連続に居たたまれなさが加速してゆく。
次の行動は少々説明不足が否めないが、自分を作った創造主(神であり親)である人形制作者に逢いに行き、救いを求めるのは、人間の信仰心を表現したものだろうか。『君が見た世界は悲しいものだけだった?美しい綺麗なものも少しはあったかな?』の台詞は人形を今一度気付かせ、思い出させてくれる。そして愛する彼の元へ向かう原動力を、空気のように注入される。
だが、彼との性愛は齟齬が存在していたという又一段落ちる悲恋の演出。それは愛情表現というよりも結局は持ち主と同じ欲望を満たす“代用品”としての役割。しかし彼の息で満たされる喜びには勝てない人形は、その生死を彷徨う危険なゲームに身を委ねてしまう。それは愛する彼への無償の奉仕。そのお互いの意識のズレが、前半のフリの回収を、この奇妙でエロティックな濡れ場?の後に仕込んでいるのである。人形は全てを理解していない。愛する男の言葉をストレートに信じた挙げ句、男の腹を割いて自分も愛されたように愛したいという衝動を実行に移すのだ。ストーリー展開としての白眉はここに極まる。出血多量で死んでしまった彼を“燃えないゴミ”置き場へ捨てた人形は、自分も又後を追うように“燃えるゴミ置き場”で、自ら集めたこの世で綺麗なもの、輝くものに囲まれながら、空気漏れを塞さいでいたセロテープを外し、元の人形へと戻る。息が絶えるその刹那の夢は、あのTV版ヱヴァンゲリヲンを彷彿とさせる“生まれておめでとう”シーンだ。この切なさがスクリーン一杯に溢れ出て、悲しみが支配する中で、身寄りのない件の老人二人が邂逅し、そして最後迄物語と交錯しなかった過食症の女が、ラストに人形を眼下に、本心からの「綺麗」という言葉を吐く。それはまるで、人形が成しえなかった“生きる”ということをバトンタッチされた、そんな生への連続性を覗かせる演出である。
今作品は、声高に何かを訴えることはない。醒めた目で淡々と俯瞰したカメラの目が、それぞれの登場人物を追う。ドキュメンタリー出身監督だからこその映像なのだろうが、その冷徹さの中の芯を喰った“情愛”をしっかり溶け込ませた仕上がりである。劇中で参照されていた吉野弘著『生命は』の一節は、今作のテーマをしっかりと提示している。それは「生命は自分自身だけでは完結できないようにつくられているらしい」の節に現れている。私もあなたも誰かのための虻だったし、風だったかもしれない。それは今の時代に於ける格差社会、分断社会を痛烈に非難し、その処方箋を提示しているようにも思えるのだ。繋がりの具体的な線は意識しなくてもよい、繋がりそのものの本質が意識出来ていれば、人間は救い合える。人形の目を通したこの社会を見事に描いた今作の印象深さを改めて堪能できた事に感謝したい。
純粋無垢な空気人形
主役のペドゥナが本当にきれい。細くて、でも女性らしく柔らかそう。
私はペドゥナの身体を性的に見ることはできなかった。きれいすぎて、そうやって汚してはいけないような気になる。
心を持ってしまったのぞみが秀雄のキスを拒むシーンがよかった。
自分が性欲処理の道具だとわかっていても、好きな人ができたらその人以外に触れられたくない気持ちが表情から伝わってくる。
それでも秀雄との夜中の散歩?を見られてしまった店長のセックスは拒めなくて、受け入れるしかなくて。
このシーンもペドゥナの表情がよかった。なにもかもすべて達観してる顔。冷めた表情と店長の盛り上がりの差が激しい。
純一とのベッドシーンは、純一がのぞみの空気を抜いたり入れたり、まるで殺しては生き返らせての繰り返しのような行為にのぞみの顔がほてるのがせつない。
そして心を持ってしまったときから変わらない純粋さで「今度は私が空気を入れてあげる」とセロハンテープまで用意してお腹に穴を開けてしまう。
純一は燃えるゴミで、自分は燃えないゴミだと教えられた通りにする無垢さがまた眩しかった。
映画を通してすごいと感じたのは、ペドゥナのまばたきの少なさ。
ゴミ捨て場に横たわるのぞみがまばたき1つしないのは本物の人形のようで生々しかった。
何回も見たいとは思わないけれど、でも見てよかったと思える作品でした。
燃えるゴミと燃えないゴミ
当時、プチ韓国映画ファンでペ・ドゥナファンだったのに、日本でもあっけなく脱いだ。たしか『復讐者に憐れみを』でも脱いでるのですが、ヌードだけ記憶に残ってない。なので、是枝監督や一緒に風呂に入ってた板尾創路をうらめしく・・・いや、うらやましく感じたのは言うまでもない。やっぱり美しいドゥナちゃん。しかも撮影がリー・ピンビンということもあってか、美しい映像のオンパレード。ふぅーっと息を吹きかけるシーンだけでメロメロになってしまいます。
シネマサーカスという小さなレンタルビデオ店でバイトすることになってしまった空気人形のぞみ。店員の純一(ARATA)に恋をしてしまい、見知らぬ映画についても徐々に知識を増やしていく姿がまた面白い。『仁義なき戦い』推しの店長もいいし、ドンランド・ギメリヒ監督「西暦2万年」のポスターも笑える。寺島進が汚職警官の映画を好きなところも、テオ・アンゲロプロス作品を探す客も興味深い。そんな映画オタクぶりをも発揮した是枝監督。純一が映画のクイズを出すところで、『ブラック・レイン』!と答えようとした瞬間、のぞみの空気が抜けるというショッキングなシーン。その時のセロテープが最後まで貼ってあるのも微笑ましかった。
後半はどことなく群像劇的な描かれ方が施され、心を持ってしまった人形と世の中に失望している人間との対比が面白い。そして空気入れを自ら捨ててしまい、ご主人が新しい人形を購入。世の中には美しいものばかりじゃないんだ・・・と悲観したかどうかまではわからないものの、儚い命を自らの意思で生き抜こうとまで考えたのだと思う。そして純一とのロマンス。彼もまた空気の出し入れを楽しむ変態プレイがお好みだったのか・・・と、のぞみが彼のお腹からも空気が出るんじゃないかと子どもじみた考えで穴を開けてしまう。
美しいと感ずるのは人によって様々。幸せを感ずる瞬間も人それぞれ。オダギリジョーの役柄なんて、可哀そうな男たちに夢を与えてくれるラブドール作りの職業だ。だけど、そこには不燃物として再利用不可といった暗い現実もあり、最後には星野真里の「きれい」と言わしめるゴミ捨て場ののぞみ。カゲロウを美しいと思うかどうかも美意識の違いが存在していたし、歳をとることだって・・・
ダッチワイフ映画には『ラースと、その彼女』のように良作が多いのかもしれない。ただ、この映画にもちょい役で出演している柄本佑も『フィギュアなあなた』で体当たり演技をしているが、こちらはエロすぎてダメだった。
星野真里さんの舌がものすごくエロい
↑セックスのシーンとかじゃ全然ないけど、すごくそそるシーンだった。
開始後1時間10分くらい、つまらなかった。
そんなアッサリ受け入れる!?とか、体温問題どうなった??とか、突っ込みどころが多く観るのやめようかと思ったけど、ペ・ドゥナさんの美しさ・キュートさにだんだんひきこまれた。
のぞみ…いや人形が、風船と一緒に浮くシーン、良かったな。
ぼーっと観てたけど、鮫洲が下心を見せたところの人形の「性欲処理の、代用品。」のセリフが、「ああ、そうだ。どれだけ心を持ってそれを通わせても、彼女の中のその本質(?)は変わらないんだ」とゾクっときた。
オダギリジョーさんのセリフが伏線になっているのも良かった。燃えるゴミ……
登場人物たちが少しずつつながってたけど、星野真里さんだけはどこで誰とつながってるのか分からなくて…。丸山智己さんが働く店に来る客ってだけなわけじゃない(はず)よね……
人形が
心を持って人を好きになる。
くらいの物語かな、と、たかをくくっていましたが、終盤になっていきなり展開が変わるので、ぞっとしました。
中身が空っぽなのはあなただけじゃないと言うおじいちゃんの言葉が印象的でした。空気人形っていうのはただの設定で、その先に現代人を表している内容だと思いました。だれとでも簡単に行為をしてしまうのも今を表しているのかな〜と思ったり。
最後見ていてなんとも言えない気持ちに、、、。
う〜ん、よくわからない映画でした。
人形役のドゥナさん素敵でした。
それにしても板尾創路は変態役多いな。
とにかくペ・ドゥナが素敵だった
ぎこちない話し方だから似合ってたし、雰囲気も透き通った感じが素敵だし、なによりほんと綺麗な顔立ちと抜群のスタイル…。
わたしも女ですが、憧れるってよりは、ほんと愛でたい感じ(笑)
ストーリーとしては、最初はなんだか生々しい感じがしましたが、心を持って色々な物に興味を持って、知っていく過程が綺麗だった。
言葉がなく音楽だけのシーンが多いように感じて、最初は眠気を誘っていたが、それもあとあと味に、素敵な演出になった。
ただ、ジュンイチに切れ目入れちゃうシーン…嫌いではないんだけど、「軽くホラーじゃない!?」と思ってしまったのが正直な感想。
あれはあれで嫌いじゃないですけど、ハッピーエンドも観てみたかったかな、ってことで★5つには届かずです!
"みんなに愛が届きますように"
これは完全なる寓話です。何故そうなってしまったのか?その一切の理由は解らない。
「心を持ってしまいました」
この一言に取り敢えずは納得しながら、作品を観て行く事となる。
心を持った人形は、様々な人達と触れ合ったり、通り過ぎて行く人達を観察しては、少しずつ人形から人間へと進化し、やがて彼女は恋をする。
舞台は東京の佃島周辺。
映画に登場する人達は、それぞれ都会の片隅で孤独を感じながら生活を営んでいる。主人公のご主人様にあたる板尾創路を筆頭にして、全員が“愛”に飢え、欲している。
唯一、まだ恋愛感情を持たない幼い少女は、母親の愛を欲しがっているし、どうやら呆けているらしい富司純子は話相手を…と言った具合に。
そして日々人間らしくなって行く彼女は、交番のタンポポに興味を示したり、女性としてビニール製の跡を消して貰いお化粧をする喜び等を知る。
そんな彼女は、自分が“空虚な”存在で或る事に対して次第に引け目を感じて来る。
街中で出会った孤独な老人役の高橋昌也との会話の中で、自分だけでは無いとの勘違いが、後々の悲劇的な結末へと繋がってしまう。
映画はその気持ちを代弁するかの様に、壊れやすく“空間”が目に見える硝子の瓶を彼女に持たせ、空の明るい光の満ちた空間へ掲げさせる。
「心を持つのは苦しい事でした」
恋心を抱いた彼女だが、少しずつ“性処理の女”としての疑問を持ち始めた時に“或る出来事”により、好きな人の息吹きに体内が満たされる喜びを知り決断する。
「何故私なの?」
男の性処理の対象でしかない嘆きを問い掛ける場面こそ、男女間での恋愛の中では、常に受け身に成らざるを得ない女性の、疑問点を示していると言える。
映画は主に脚本が第一に優先される。先ずはストーリーが面白い事が前提になる。
しかし、この作品では主役の《空気人形》にペ・ドゥナを配したセンスが一番大きな決め手になっている。これに応えた彼女も立派です。但しあくまでも寓話と理解しながら見て行かないとならないのも事実。
そうでなければ、お手頃価格すぎる5980円とゆう設定等や、いくら何でも陥没してる※首なんだから…。気が付くだろう(笑)等と、突っ込み通しの餌食となってしまう。
残念だったのは、1つの寓話を最後まで寓話として押し通せなかったところ。
高橋昌也との会話の中での勘違いから、好きになった男ARATAも実は彼女と同様実は…と。
もしもここでその“寓話”が成立していたのならば。
その辺りは残念なのだが、当然そういった設定は、監督自身の頭の中に描かれていたのだろうとは推測される。
しかし、その様な説明は映画の中ではなされない。寧ろ不要と判断されたのかも知れない。
高橋昌也との会話で大きな勘違いをした彼女ではあったが、同時にまた自然界の摂理に関する小さな勘違いもしていた。
雄しべと雌しべは直接触れての受粉はしない。他の力を借りる事になる。
今、悲しみと孤独な人達に、彼女の“空気”によって一陣の風が吹き抜け、交番にひっそりと咲いていたタンポポの綿帽子は、彼女の願いでも有る男女間での愛の種として蒔かれる。
《みんなに“愛“が届きますように》
(2009年10月15日新宿バルト9/スクリーン4)
世界観が圧倒的
何もかも無理があるのに、まるで何も無理などないかのように優雅に進んでいくストーリーと、降りかかる全ての違和感を滑らかに受け入れていく登場人物たち。
部屋の物の配置が変わり、人形の服が増え、顔には化粧が施され、髪型が変わり(シャンプーひとつにあれほどこだわっていたのに!)、外出が夜にまで及び、寝ている間に勝手にシャワーが使われているにもかかわらず、一向に気づかない持ち主。
言葉が話せない、海で空き瓶を集める千鳥足の若い女を相手に、怪訝な顔をすることもなく「死」や「誕生日」という言葉の意味を解説し、自分の目の前で破けて空気が抜けていく女が実は人間ではないという現実を物ともせず、セロテープで穴を塞いで空気を入れ直して『もう大丈夫だから』と言ってしまうジュンイチ。
律儀に持ち主の家へ毎晩戻ってくる人形。
工場に彷徨い込んできた人形をあたかもよくあることのように受け入れて、「おかえり」と言ってしまう男。
全てに無理がある。でも無理がない。
「空っぽ」なのは個人だけではなくて、人と人との関係同じようにも空っぽで、だから、本来なら気付かずにいられない違和感に気付くことができない、あるいは気付かないふりをすることが容易にできてしまう、そんな世界に生きている虚しさ。
相手をこの上なく大切に思うからこそ、意図的に目を逸らして気付いていないふりをしなければいけないときもある。
繰り返し出てくるゴミ捨てのシーン。
綿毛が抜けたたんぽぽ。
前半のメルヘンチックな展開は好きだったけれど、後半はいたたまれなかった。
ジュンイチとの別れはあんな風にしなくてもいいのにな、、、と思う反面、一度空気が抜けてしまった人間に息を吹き込むことはできないのだ、ということをしっかり描く必要も確かにあったのだと思う。
井浦様って、「ザ・草食」みたいな風貌と声をしておきながら平気でえげつない濡れ場を演じちゃうからグッジョブだぜ。
ペ・ドゥナが素晴らしい
ペ・ドゥナが素晴らしいです。
リンダリンダリンダの時のスンちゃん役もたまらなくかわいかったけど、今回はそれともまた違う可愛さ。
彼女でなければこの作品は絶対に成功していなかったと思う。
ダッチワイフが突然心を持ち動き出すという設定上、世間のことを何も知らない彼女。
その何も知らなすぎるしぐさや態度が下手をすると同性から見るとうっとおしいというかあざとく見えてしまいかねない役どころだったと思うのですが、日本語がカタコトなことも相まって、いやらしさが全然ない。
人形が歩いているようにとてとてと歩く姿も、不思議そうに首をかしげるしぐさもすべてが愛おしくてかわいらしい。
彼女の魅力だけでも2時間十分楽しめる内容だなと思います。
そして、本当に美しい映像。
邦画より、フランス映画とかそっちに近い感じの、詩的で哲学的な物語。
のぞみは、心をもって外に飛び出すことで、子供と同じようにひとつひとつ世界を知っていく。たくさんの悲しい人たちにであう。
すごくかわいかったのが、町で出会ったおじいさんに「わたしは空っぽなの」といって、「みんなそんなもんだよ」と言われる。
その後いろいろアクシデントがあって純一に人形であることがばれてしまったときに「でも結構いるらしいじゃない?」と得意げに聞く彼女がすごくかわいかった。
空気人形の純粋さがすべて表現されていた一幕。
純一に恋をしたことで彼女は切なさを知った。
純一に恋をしたことで彼女はウソを知った。
純一に恋をしたことで彼女は人に満たされる喜びを知った。
彼女が経験していくことすべて、わたしたちが人生で経験していくこと、してきた事なんだなぁとぼんやり思った。
切ない思い、ウソを知らずに生きてはいけないし、誰かに満たしてもらわないとだれも生きていけない。
個人的にはやっぱり井浦新すてきだなあと。
声がいいというか、純一っていう役柄にあってたなぁと思いました。
純一は、妻をなくした(はっきりした描写はないけど恐らく)空っぽなひと。
だけど、個人的にすごいすてきだなぁと思ったのは、のぞみ人形の質問に全部答えを返してくれて、「他に何か知りたいことある?」と優しく言ってくれるところ。
何事にも自分なりの答えを持ってる人はすてき。
たんぽぽ枯れてるのみて「かわいそう」って彼女が言ったときに「仕方ないよそうじゃないと世の中が生きものであふれちゃうから」と言った言葉がなんか切なくて素敵だった。色んなことを自分の中で折り合いをつけて生きている人なんだろうなと。
そうしないと生きていけない事情がある人なんだなというシーンだった。
印象的なしーん。
純一が息を吹き込むシーン
ビデオ屋で働いている時に腕が破れてしまい、空気が抜けてしまった彼女に純一が息を吹き込むシーン。
彼の息で満たされるのぞみ。
この映画の中ではその行為=ラブシーンとして捉えられているのですが、そのシーンがとてつもなく官能的。
いやらしい意味じゃなく、好きな人の息で満たされていくのぞみの表情とか、お互いに荒くなる吐息とか、好きな人の息で満たされる幸せという事実がなんとも官能的。
こんなに官能的でロマンティックで美しいラブシーンを見たのは初めてです。
これはほんまにすごい。
純一はその後のぞみに空気を抜かせてほしいと頼むようになるんだけども、空気が抜けていくのを見ることで彼の空っぽな気持ちが満たされるのか、抜けた空気を自分が満たしてあげることで自分を満たしているのか、そのあたりはよくわからなかった。
誰しも人から満たされたいし満たしたいのかなぁ。
ラストは結構衝撃的ですが、それしかなかったんかもなあという感じですた。
花がいつか枯れるように、わたしたちも皆いつかいなくなる。
だけどそれまで、たくさんのものをなくして、生きていかなくちゃいけない。
彼女は心をもって、切なさを知って、そして何かをなくしたのかもしれない。
だけど、心なんて持たなければよかったと彼女は思わなかった。
生きるのはつらい。人とかかわることは難しい。
人を好きになると心はもっと苦しくなる。
それでも、誰かを満たしながら、誰かに満たされながら生きていくしかわたしたちは生きていけないのかもしれない。
切ない
オダギリジョー目当てで見た映画。
いわゆるダッチワイフな主人公なので、女性にとってはうわぁ〜という場面が多々あります。洗ってるところとか、見たくないですね。
好きなシーンは二つ。一つは、たぶんこの映画見た人の大半は選ぶであろう、純一がのぞみに空気を入れるシーン。切なく、美しく、エロく、奇妙。
もう一つは、人形師のオダギリジョーがのぞみに問いかけるシーン。
「君が見た世界は、汚いものばかりだったかな?それとも、キレイなものも少しはあったかな…?」
とっても良いセリフでした。このシーンだけでも、オダギリジョーファンとしては見る価値のある映画でした。
貴方じゃなくちゃ、駄目なんだ
「歩いても 歩いても」などの作品で知られる是枝裕和監督が、「リンダ リンダ リンダ」のぺ・ドゥナ、ARATAを主演に迎えて描く、群像劇。
電車の進行方向と反対向きに、座る。その瞬間に感じる苦しいほどの切なさと寂しさは、ちょっと耐えられない。自分を置いて、勝手に疾走していく世界、抗えない無力感。どうして、ここに座って息をしているのか・・と、不意に考えて、心が冷えていくのを感じる。
本作は、そんな電車の一幕から展開していく。孤独を抱えた男がすがり付く一体の人形が何らかのきっかけで心を持ち、閉塞の家を飛び出して大都市「東京」へと足を踏み出していく。
大まかなストーリーだけをもって想像すれば、下手すれば「誰もいないはずの部屋で、人形が勝手に動き、部屋を変えていく異色のホラー」になってしまう奇妙奇天烈な要素が溢れる。しかし、観客はすぐにその寂しさと、乾いた虚しさが塗りたくられた世界を、見せ付けられることになる。
一瞬でモデルが移り変わり、簡単に捨てられる電化製品が溢れる家電街、映画館の代わりとして、要素だけを貼り付けられたレンタル製品の店、派遣社員に、ストッキング。物語に散りばめられた「孤独」と、「代わり」の産物たち。全てが無言で観客の視覚に飛び込み、少しずつ空っぽの現代日本を作り上げていく。
下手に大仰な主張で訴えられるよりも、じわじわと観客に染み渡っていく悲しさと、無味無臭の砂漠に投げ捨てられたざらざらの気分。非常に痛々しい、作り手の巧妙な作為が光る。
その中でも、ほんわかと乾燥した世界を潤してくれるぺ・ドゥナの純粋な瞳と、コミカルな動き。ARATAの温かい柔らかさと、人間臭さ。硬質な厳格さだけでは観客は苦しいだけだと感じる作り手の配慮が心底、嬉しい。
「君になら・・・」人形ではなくとも、私達誰もが心のどこかで求めているその一言。実際、その言葉の裏には金であったり、欲望が渦巻いているのが現実なのが寂しいけれど、それでも、どうせ生きているなら、言われてみたい。愛と夢に彩られたラストが、そのささやかな可能性を提示してくれている。
堅実に観客の心へと突き刺さる、寂しさへの諦めと、かすかな希望。あらゆる世代の人間達に向けた、毎日への小さなエールが輝く一本だ。
「君じゃなきゃ、駄目なんだ・・」そんな少女漫画が、あったっけ。狂おしいまでに情熱的な、人を元気にする言葉なんだなと、今は思う。
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