冒頭の大量の古文書に釘が穿たれるシーンは、とても怪奇であり、面白いと思えました。けれどもその後の展開が、監督のワンサイドのエンタティメントを拒絶したもので、せっかくのポー川の映像美すら、苦痛に感じることすにありました。
そして、主人公の哲学科の教授やポー川の川岸に住む違法占拠住民たちのエピソードがさあこれから盛り上がりそうだというところで、突如としてエンディングを迎えたしまいました。あれは何だったのと唖然としてしまう作品です。
苦痛に感じてしまう部分として、教授がポー川に彷徨う無言のシーンが長すぎるからです。オルミ監督がまるで、どうだ綺麗だろうと息子の撮影監督にとらせた、ポー川が煌めく映像を観客に押し売りしている気がしました。
そして本を愛する恩師を精神的に追い詰める行為を行った、主人公の教授の動機が漠然として、わかりづらかったです。逮捕されてのち、恩師の神父と対峙するシーンで、教授の動機は明かされますが、とても哲学的。
生涯を通して、神学をはじめ古今東西の知の結晶を大学の図書室にコレクションしてきた神父に対して、そんな知識は無駄で、実学と自然のなかに本当の真理があると教授は主張します。まるで、ゆとり教育を推し進めてきた日教組の言い分に似ています。
教授は虚無的に実存主義哲学の解釈し、哲学の袋小路に入り込んでしまったのです。ヤスパースの解釈も狂気が全てというものでした。教授の恩師に対する批判は、ニーチェばりの本の中に没頭するだけ日々の否定から、「知識は死んだ」と叫んでいるかのようでした。
そして愛はどこから生まれてどこへ消えていくのかわからないとも。
今世わが分身の息子になる予定(予定のままだけど)の存在は、哲学者を志望しているようなのですが、その魂曰く、教授がヘーゲル哲学に向かえば、こんなに混乱しなかったはずだというのですね。
教授が余りに、愛というものを外的要因に求めすぎて、虚無に向かったのではないでしょうか。愛は、外部から与えられるものでなく、心の奥に内在するものである。これをソクラテスの言うように、「汝自身を知る」という自己探求によって知り得ることで、自らの心の奥にある泉のような人を愛してやまない気持ちに気づくわけです。
人を愛してやまない気持ちは、また多くの人の価値観や考え方に触れていって、理解したいという知的探求心に繋がります。
知と愛と、教授は対立的な概念で捉えた結果、知識を否定しました。けれども知と愛とをヘーゲルの弁証法で見ていけば、決して対立するのでなく、双方に補完しながら、より高いステージの人格形成を目指すことができるのです。まぁ、こんなことをわが分身の息子(予定)は、研究したくて、地上に生まれることを望んでいるようなのであります。
平たく言うと、学問を究めれば、寛容になり、他人の愚かさすら許せるようになれるのだと言うことです。そういう境地にならない学者は、まだ学問が足りないのだと言うことでしょう。
そんな教授が、ポー川で癒されて、恩師との対決後にどんな心境の変化があったのか語られずじまいでした。川岸でサバイバルに暮らすという点では、「イントゥ・ザ・ワイルド」に似ている面もあります。
但し、教授は人を拒絶せず、地元の住民と交流し、心温まるエピソードを残した点は好感が持てます。恋の予感さえ感じさせました。キリストに似た風貌で、住民に質問されれば、すぐさま聖書の一節をそらで語るところなど、キリストさんと言われるのに充分資格がありました。教授が語る聖書の言葉に、癒される住民のシーンは、感動できます。
ですから、監督がもっと観客の立場で演出していれば、もっと感動作になったはずなので、誠に残念です。
それにしても、港湾建設のため、立ち退きを迫られていた、違法占拠の住民たちは、どうなったのでしょう。想像するしかないかぁ~。