倫敦から来た男 : 映画評論・批評
2009年12月15日更新
2009年12月12日よりシアター・イメージフォーラムほかにてロードショー
静かだがハイテンションの緊迫が画面に発生する
霧にむせぶ夜の埠頭、と書けば古い歌謡曲の一節のようだが、そんな埠頭に隣接して鉄道の引き込み線駅がある。それらを見おろして鉄骨の監視塔が建ち、そこで発着のポイント・チェンジにかかわる夜勤の鉄道員がマロワンだ。
演じるのは、とてもいい表情のチェコ人俳優、ミロスラブ・クロボットで、彼の顔が画面にあるだけで、映画自体の<渋さ>が立ち上がる。彼ばかりではない、登場人物たちは、その表情、感情がキャメラによって異様な凝視の対象となり、結果として、各人の表情が澱のように映画に沈殿していく。最近の映画でここまで表情を凝視するキャメラはめずらしい。
ある夜、船が着き、そこで降りたひとりの乗客が待っていた男と争い、その男を埠頭から突き落とすのをマロワンは目撃する。乗客の姿が消えた後、マロワンは現場でスーツケースを回収するが、そこにはおびただしいポンド紙幣が入っていた。彼の日常生活が一変する、と同時に当然のように不穏もやってくる。
原作は、フランスのジョルジュ・シムノンが、1934年に書いた犯罪小説だが、ハンガリーの代表的映画作家タル・ベーラによる長回しキャメラ、モノクローム世界という<異例>によって、静かだがハイテンションの緊迫が画面に発生することとなった。
事件発生までの冒頭のキャメラ・ムーブのあまりののろさ、窓の桟の黒棒が定期的に画面を横切るリズムに、実験映像でも見せられるのか、と身構えたが杞憂であった。ストーリーテリングには別段難解なところはない、それどころかいつのまにかグイと首根っこをつかまれ力ずくで世界に向き合わされる。
(滝本誠)