ダウト あるカトリック学校でのレビュー・感想・評価
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この2人エグい演技するわ〜
タイトルが最終的にも絶妙だった。
この人達のエゲツない演技を堪能できる映画。
ほんとトップ10に入れてもおかしくない役者を失った損失は大きいです。
ご冥福をお祈りします。
さて、この映画は孤立したカトリック学校で起きた
少し小さな疑いから始まっていきます。
その中でシスターと神父の関係性か全寮制のカトリック学校ってこんな感じなんだ
などと、興味深いところを映し出していきます。
んで、そんな環境から生まれたある疑惑。
誰が悪なのか、本当にそんな許されざることが起きていたのか。。。
なんだか、観終わったあとゾクゾクする、
もう一度見直そうか迷う映画でした。
フィリップシーモアホフマン。
脇役からメイン、敵役までなんでもこなす
とてつもない俳優さんでした。
あなたが演じる新しい作品が見られないことが
本当に残念です。
マネーゲームもそうですが、予期せぬあなたの出演で
心踊ります。脇役の時は途中まで気付かないあたりが
バイプレイヤーとしてはNo.1な実力だと思います。
あなたが天国で悔しがる映画が今後出てくることを楽しみにしてます。
ありがとうございました。
電話に出てくれ
疑いの確度をどの程度に設定するかによって見方は変わるのだろうが、強引ともとれる疑念に設定したことで、秩序の維持に必要以上の使命を設定して、不寛容と規律に固執する生き方を是とせざるを得ないメリルの心の葛藤に焦点が行く。エイミーアダムスはメリルを測るものさしであり、フィリップは規律を超えた社会的な納まりを志向する。
メリルと真逆の価値観を提示するヴィオラデイビス。規則が全てではないと言い切るこのやり取りが見せ場。戸惑うメリル。それがタイトルのダウトそのものかもしれない。最初の説教にも繋がる。是とされていることに疑問を持つことから、それが社会との絆になる。
確かなものは何もない
内容的には疑いをかけられた神父と、それを追及するシスター。ただそれだけなのですが、ずっとはりつめた静かな緊張が映画全体を通してあったので、退屈することはありませんでした。
タイトル通り「疑い」について描いていて、物語の展開、登場人物達の台詞、ラスト、見た人が色々な感じ方をできる作品だと思います。そういう作品は観終わった後に頭の中にはてなマークばかりがとんで「なんだかもやもやするな・・」ということが個人的によくあり、苦手なのですが、この映画には不思議とありませんでした。
なんとなくの答えのようなものを提示してくれているからかなと思います。
あと、物語が進んでいくにつれて、登場人物達の印象がかわっていくのが面白かったです。この人は悪か善か・・そもそも何が悪なのか・・一人だけではなく、登場した人のほとんどにそういう気持ちを抱きました。
一触即発の冷たい雰囲気や、メリルストリープの鬼気迫る演技、神父とシスターの舌戦、少ない内容ですが見どころは多く、時間も100分少しで、私にはちょうどよかったです。
ゴッド姉ちゃんVS番長・最強演技対決のはずが・・・
始まる前はメリル ストリープとフィリップ シーモア ホフマンというハリウッドを代表する二人の巨人による最強の演技バトルに心臓がドキドキ、指がポキポキそして、目がギラギラし始め、まるでボクシングの世界戦を見に行くような気分でした。そして、確かにいい“試合”だったのですが、きちんとした舞台が整ってなかったり、いらぬ邪魔が入ったりしたため、少々、物足りなさを感じました。しかし、見ごたえのある素晴らしい一戦でした。
舞台は1964年。
主人公はあるカトリック学校に務める一人の堅物シスター。彼女は以前からいろいろと問題を起こしていた一人の神父が新たな事件を起こしたのではないかという一つの疑惑を持ち始めます。
注目は主要キャスト4人による最高の演技と名シーンの数々。特にキャストの演技は最高でメリル ストリープは堅物シスターを演じ切り、フィリップ シーモア ホフマンはちょっと陰のある渦中の人物を熱演、エイミー アダムズは同僚シスターと神父の間で翻弄されながらも中立な立場から二人の対決を見守る優しきシスターを好演そして、何と言っても凄かったのはあのメリル ストリープとガチで勝負した黒人女優・ヴィオラ ディヴィスの演技です。この作品のいいところは無駄なシーンが一つもないという事です。それから、宗教心や人間のモラルといったお堅いテーマを出来る限り、ソフトに分かりやすく描いていることもよかったと思います。
さて、二人の対決の印象についてですが、確かに凄かったです。初めから対決ムード一色のホフマンに対しメリルは終始冷静沈着で悪までも反撃のチャンスを窺っているといった感じでした。ただ、1回目の対決の時はエイミー アダムズが無駄な動きをしたり、2度目の対決の時は雷音がなったりと邪魔が多かった気がします。もっと二人だけのバトルが観たかった私にとってはちょっと、残念な結果となってしまいました。
しかし、この作品の最大の弱点は脚本そのものです。そもそも、メリルおばさんvsフィリップおじさんの対決に相応しい内容だったのか、ちょっと疑問を感じました。というより、この作品は映画より舞台劇の方が上手くいったのではないかとも感じました。
それでも、いろんなことを考えさせられるいい作品だったことには違いありません。
その場に立ち会ったような
証拠の無い疑惑の顛末の一部始終を、校長室の隅に立ち尽くして呆気に取られて見てきたような、不思議な感じなのです。
一流俳優の熱演の力はもちろんですが、人の目の高さからの映像が多いせいでしょうか。舞台を得意とする監督の、臨場感を大事にするという意図があるなら成功のように思います。
少ない登場人物のそれぞれに心が残って、もやもやした感じでスッキリしませんが、これを余韻というのでしょう。
もう少し辛辣に描いても良かったのではとも思いますが
2008年アメリカ映画。105分。今年29本目の作品。連休中にTUTAYAが5本1000円レンタルをしてて、本作をジャケ借りしました。サスペンスを観たかったのです。
内容は;
1、NYにあるカトリック系教会学校の女性校長は生徒から恐れられる程に厳しい。
2、校長は、黒人生徒が教師と禁断の関係を持っている疑いがあると耳にする。
3、校長は疑惑をかけられた教師を呼び出し、なんの確証もなく辞職することを求める。
わたくしの好きな俳優、ガブリエル・バーンは最近、子供時代に通ったカソリック系の学校で性的虐待を教師から受けていたと告白しました。本作でも同様の題材が描かれている所をみると、この問題は現代でもあるのかなと思いました。
それでも本作のポイントは実は性的虐待問題にあるのではなく、題名からも分るように「疑い」という心理にあります。校長は確証もなしに問題の教師を追放しようとする。
枕を引き裂き、中の羽毛を屋根からまき散らす。そして、風で方々に散っていった羽毛を再回収することは不可能である。これが噂の本質なのだ――疑いをかけられた教師が言うこんな話がとても印象的。
前に観た「ブッシュ」から分るように2008年という年はアメリカでは「確証なき疑い」というものが社会的テーマだったようです。
本作の見所は、校長演じるメリル・ストリープと教師役のフィリップ・シーモア・ホフマンのまさしく火花散る演技対決にあります。地味な題材も役者の名演で見所満載にできるお手本のような作品です。
すごく面白く観させてもらったのですが、なぜか食い足りないというのが実感でした。でも、この腹八分目にとどめた世界が実は一番居心地の良い世界なのかもしれません。飽食家だけが「疑い」や「噂」で人を食い物にしようとするのでしょう。
それでも、歴史の形成というものに「疑い」と「噂」は実は欠かせない要素なのかもしれません。いずれにせよこれから長い間、心の中に本作を留めておくと心の良薬になりそうな作品でした。
もう少し映画的な面白さがあったら
ほとんど、3人による言葉の応酬だけで物語が進んでいく。焦点はフリン神父が不適切な行動をとったのか否か?それだけであり、大きなどんでん返しが用意されているわけでもない。いちど疑い出したら思考に歯止めがかけられない校長。真相をなかなか明かさない神父。なにを信じればいいのか自信のないシスター。主役3人の演技力に頼るしかない構成であり、それだけに、このキャスティングは大いに楽しめる。
この作品、現社会にも通ずるものがある。疑いを持つと独自の調査も論調もなく攻撃を仕掛けるマスコミ。叩けばひとつやふたつ後ろめたいこともあるだろう政治家の困惑。その両者に振り回される国民。大沢代表とか地下二階とか・・・そんなような名前を思い出しながら観てしまった。
この作品、悪くはないが、“懺悔”だの“寛容”だの宗教の枠組みで物語れるものだから、いまいち世界に入り込めないのが難点。希望としては、教会学校を舞台に借りた、もっとオープンなミステリー映画に徹して欲しかった。劇作家が自ら映画にしたというところに落とし穴がある。
そおかぁ。。。
この映画はだいぶ前(アメリカで当時上映されてた時)ですが、ふらっと映画館に立ち寄ったときに観ました。ポスターからでは内容が全く想像できないので、すごく気になり仕方なかったので観てみました。タイトルからは想像できるように、様々な疑いが生じてきます。果たしてその疑いは晴れるのか…最後まで観た人にはわかります。俳優さんたちの演技も見所です。1シーン、1カット、その場の空気が読み取れるほどのいい演技でした。決してテンションが上がるような映画ではないので、落ち着いて観たいなという人にお勧めです。
演技とセリフがつむいだ緊張の糸から描かれたもの
メリル・ストリーブ、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムスという名優三人の、丁々発止の演技の火花が緊張感をもたらしたこの作品は、実は、まるではっきりとしたものを観客にも見えてこない、「ダウト」というより「ダーク」というタイトルのほうが向いているようにさえ思えるものだった。ところが、そのダークさこそが、この作品の魅力なのである。
フィリップ演じる教会の司教が、子どもを性的虐待しているのかどうか、その一点に疑惑をもった教会付属の学校長のメリルの追及がこの作品の核なのだが、最後までその疑惑に結論は出ていない。それでもこの作品が魅力的なのは、感情と理性とが真っ向から対立する、人間性そのものに踏み込んだ内容にある。
メリル演じる学校長は、人、特に男性を信用せず、司教の先進的なやり方に不信感を抱いている。その不信感が、司教が個人的に子どもを呼び出した、という事実だけで最高点となり、一気に司教を追い詰めようとする。そのシーンでの、不信のみでしか人を見つめない人間同士のかけひきは、背筋が冷たくなるくらいの張り詰めたものを観る者に感じさせる。しかし、だ。その不信感だけで人を見る、というのは、我々でも普段やっていることではないか、と思うと、とても映画の中だけですまなくなってくるのだ。
人の行動とは、実際は個人しかわからないものだ。だからこそ、ひとつの行動に疑いをもつと、人への疑いは限りがなくなる。そのおかげで、離婚や仕事場の揉め事はあとを絶たない。この作品は、その人が人を信じられなくなる瞬間がものの見事に描かれているゆえに、登場人物の行動やセリフひとつひとつが、とても興味深く、疑いの眼差しだけの表情に、自分自身を見ているような魅力が感じられる。
不信感を募らせた学校長は、ラストに思いもよらない表情を見せる。その様子に観客すらも愕然としたとき、人に疑いをもつことと、人を信頼することの難しさにもあらためて気づかさせられる。この作品は、とても人間らしい人間を鋭く描いてみせていることで、高く評価されていいものだと思う。
混沌に目鼻を入れない勇気
少し前に、娘を殺された父親が異様な強面でマスコミにもどこかトゲのある態度で対応していた事で、ワイドショーなどがその父親を完全に犯人のように扱っていた事があった。
管直人の年金未納問題でも、役所による(おそらく意図的な)誤報を受けワイドショー、ニュース番組による大バッシングが行われ、結局党首を辞任する事になった。
『気に入らない』というような感情を論理にはき違える人は今も昔もいて、『疑惑』と言いながらまるでスペイン宗教裁判じみた“推定有罪=有罪”の判決を下しリンチにかけるのである。
「ダウト」で描かれているのは正にそういった人間の醜い猜疑心である。
しかし、果たして“そう”判断する事は正しいだろうか?この映画には通り一遍に判断の出来ないワナがしかけられている。
細かな描写や演出は本編で確認してもらうとして、登場人物の名前に注目すると面白い事に気付く。
メリル・ストリープ演じるシスター・アロイシアス。
「アロイシアス」とは英語圏では男性の名前として認知されており、16世紀イタリアでは『学生の守護聖人』の名前であった事でポピュラーだそうだ。
フィリップ・シーモア・ホフマンの「フリン神父」
最も有名な『フリン』はモノクロ時代の映画スターのエロール・フリンになる。彼は幼少期からヤンチャ坊主で青年になってからも警察沙汰になること数知れず、俳優になってからもレイプ事件で訴えられたりアル中になったりとダーティーなイメージがまとわりつく。
そして、エイミーアダムス演じる「シスター・ジェイムス」はキリストの使徒「ヤコブ」を語源とし、あらゆる教派で『聖人』とされる尊敬される名前であるらしい。
日本で言うなら『良雄』というシスターが『悪夫』という神父を毛嫌いし、「太郎」という若いシスターがそれを悲しく見つめる。っという風景になるだろうか?
見た目やイメージも判断の基準になるだろうが、独りよがりな価値観をゴリ押しする事は他人を不幸にする。この映画で明確に言い切れるのはそれくらいで、あとは自分で判断して決めなければならない。
この映画は漠然とせざるをえない事に、無理やり明確な“形”を与えない勇気の尊さを描いているのかもしれない。
傑作。
登場人物の演技に感嘆した!
何でも舞台ではその4人しか登場しないそうだが、4人ともアカデミー賞にノミネートされた映画「ダウト」を観てきた。残念ながら受賞者は出なかったが、見出があった。まず、メリル。「マンマ・ミーア」のドナと同一人物とはとても思えない。一見、嫌味で怖いだけの権威主義者ながら、その実、年老いた、目が不自由なシスターをフォローするなど複雑な役柄を圧倒的な演技力で演じ切る。そして、フィリップ。白か黒かわからない、進歩的な神父をいつもながらのいやらしさを感じせて演じている。ヴィオラ。わずかのシーンながらあのメリルを食ったとも言わしめた圧倒的な存在感。すごい。何より、私が驚いたのはエイミーだった。「魔法にかけられて」しか知らなかったので、あんな演技ができるとは思わなかった。お姫様役では、年増だけど歌が歌えるから、抜擢されたんだろうくらいにしか、考えていなかった。でも、この作品では魅せられた。ただおどおどしているだけの若いシスターだと思っていたら、校長と神父と3人の面談の最後で、校長に自分の意見を忌憚なく話すところは圧巻だった。彼女の実力を垣間見た気がした。内容についても、なんとなくイラク戦争の発端を象徴しているようで、興味深かった。
流石はM・ストリープ様、あなたにゃ誰もかないません!
M・ストリーブ様にはいつもやられてしまいます。
「プラダを着た悪魔」の鬼編集長は圧巻だったし
「マンマミーア」では、そんなことまでできるの!と
感嘆させられました。
今回の「ダウト」はどちらかと言えば、
はまり役の部類だと思うが、
それを見事に演じきっておりましたね。
一見厳格過ぎて生徒からは嫌われている
カトリック学校の校長役で、
あなたは、進歩的で生徒にも慕われているものの
立場の弱い男子生徒と不適切な関係を持ったと思われる
フリン神父を追い詰めていく役どころです。
その追い詰め方は、青白い炎を連想させる凄まじいものでした。
私自体は、
エイミー・アダムス演じるシスターの立場になりきっていました。
疑惑の中、この厄介な問題を何処まで荒立て
どのように対処すべきか。
どうしてそこまで確信を
信念をもてるのか。
こんな、自信と信念に満ち溢れた役は
メリル・ストリープ様、
あなたにしか演じられないだろう、と思います!
メリル・ストリープが、『マンマミーヤ』と同一人物には全然見えないキツ~イ校長先生になりきってました。
メリル・ストリープが演じる厳格でストイックなカトリック学校のシスター・アロイシス役が、ドンぴしゃはまって、『マンマミーヤ』と同一人物には全然見えないキツ~イ校長先生になりきってました。
のど飴を持っていても、飴はこころが汚れる元となるからと没収してしまうくらいやや理不尽で、ヒステリックな校長先生だったのです。そのあらゆることにおいて疑惑の目で
さてドラマが本題に入る前に、このアロイシス校長の教条的な生徒指導路線に対して、教会の司祭フリン神父は、ストイックな因習を排し進歩的で開かれた教会を目指していたことがポイントとなります。
ドラマの山場で二人が激突するまでは、不思議と二人は対立しません。しかし、二人の日常を対比させながら展開されるストーリーによって、司祭と校長の矛盾した立場が次第に鮮明になっていきます。
決定打は、司祭が侍者役に選んだ黒人生徒ドナルドが酒気を帯びて教室に戻ったこと。 司祭はドナルドが祭壇用のワインをこっそり飲もうとしたこと庇おうして、穏便に教室に戻しただけだ説明します。しかしアロイシスは、ドナルドの母親ミラー夫人から彼が性同一性障害を抱えていることを知ります。そこから一気に司祭とドナルドの「不適切な関係」を確信してしまうのです。何の具体的な根拠もなく。
もうこうなったらいくらミラー夫人が司祭は息子を思ってくれただけだと、アロイシスは全く聞く耳がありません。
校長室に激高したフリン神父が乗り込んできて抗議しても、彼女は揺るがぬ自信を持っても司祭に自認を求めるのでした。
ふたりの信念をかけた応酬は、このドラマの最高の見せ場でした。約15分間にわたって演技とは思えない激しさで、アロイシスは司祭に詰め寄ったのです。会話劇としては、フロスト×ニクソンに甲乙付けられない完成度の高いシーンであったと思います。
アロイシスは、ここで聖職者にはあるまじき禁じ手を使って、司祭を追及してしまいました。潔癖症の彼女が、いくら神の正義の実現のために、禁じ手を使うとは驚きでした。そして、その罪の深さに突如泣き崩れるのです。
あれだけ強固な信念で、司祭を裁き通してきたのに、今更ながらと言うタイミングで、自分の信念に疑惑を抱いて弱さを見せしまう、微妙な心理描写に感動しました。鳥肌が立つくらいメリル・ストリープの凄い演技であったと思います。
この物語で語られる疑惑は、観客にもサスペンス風に投げかけられます。しかし、本当は何が真実で、司祭と校長どちらが正しいか全く明らかにされません。疑惑のままに見る観客に委ねられているところが巧みです。
監督がこのストーリーに提示したテーマは、『人間は確信を持つことなど出来ない』ということでした。まさにいろいろな意味で確信が持てないストーリーに仕上がっています。
それは、このドラマの時代背景となっているケネディ暗殺直後のアメリカ国民の虚ろな気持ちに加えて、不況に喘ぐ現代のアメリカ国民の気持ちを代弁しているのではないでしょうか。
けれどもフリン神父は冒頭でこう語ります。ケネディ暗殺という絶望感が人々を結びつける強力な絆になったと。そして疑惑というものが強力な絆となることを。救いに近づくことを。
フリン神父の考えは、親鸞聖人の悪人正機説に近いものと思いました。本来確信など出来やしないのに、自分は善人だと思い込んでしまって人を裁く人の心というものは、実は不安で一杯なんです。アロイシスのように。
偽りの善の気持ちで人を裁く自分は、ひょっとして悪人ではないかと疑惑を持つことで、やっと無謬であらればならないという強迫観念から逃れることが出来るわけですね。
信仰の道は、とかく神仏の正しさを潔癖に求め勝ちです。しかしそのストイックな求道心のなかに、『罪を許すこころ』も宿す必要があるでしょう。
アロイシスの厳しさを見るにつけて、人が許せないという気持ちは、詰まるところ自分が許せないからなんですね。
最後に、終盤の二人が対決するまでがやや単調で、眠くなってしまいました。
もう少しアロイシスが疑惑を深めていく過程ばかりでなく、フリン神父の怪しげな行動など織り込んで「不適切な関係」を観客にも直接感じさせてもらったほうが、緊迫感が高まるのではないかと思いました。
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