劇場公開日 2009年10月24日

「情緒的過ぎるのは、悪いことではない」沈まぬ太陽 こもねこさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0情緒的過ぎるのは、悪いことではない

2009年12月7日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 同じ山崎豊子原作の「華麗なる一族」や「白い巨塔」に比べると、この作品は全体に重厚感は感じられないものだった。それは、脚本の構成、物語の展開に起因している。

 映画は、あの飛行機事故からはじまり、事故の遺族たちと関わる主人公・恩地に対する、勤務している航空会社の非道さがカットバックするような形で挿入されていく、という流れで展開していく。そして会社が新しい方向へと向きを変えようとするまでを描いていくのだが、恩地の存在が常に物語の核になっていることが、映画に重厚感がない要因のひとつだ。

 これまでの山崎豊子原作の映画は、さまざまな登場人物たちが主人公とは別の動きをして、それがわりに細かく描かれる。やがて、その別の動きがひとつになるような大事件が起こり、主人公の生き様が一段と画面にフィーチャーされる。その生き様についていく人物、そうでない逆の立場の人物と登場人物たちが色分けされたあと、再びめいめいが独自の行動をしていく、という展開だ。だから、登場する個々の人物のキャラクターと行動がしっかりと描かれるために、物語全体に重厚感が増してくる。そこが山崎豊子原作の映画やドラマの魅力、という意見があるのは当然のことだ。

 しかし、この「沈まぬ太陽」の場合は最初に大きな事件を提示しているために、物語に人物の動きが描きこまれておらず、主人公以外の登場人物たちの行動や生き様が、今ひとつ、画面から浮き彫りにされてこない。だから、恩地が若かりし頃に組合の交渉の先頭に立つのも、事故の遺族たちの前に立つのも、会社との関係性を別にした、ただ情緒的な人間の姿が見えるだけだ。そこがこの作品の大きな欠点、と言えばそうなのだが、私は今回の山崎豊子の映画に関しては、情緒的過ぎてもかまわない、と思っている。

 それは、誰もが知っている大事故を中心にしているために、本当の遺族の方々の心情を考えると情緒的にならざるおえない、というのもあるが、主人公の恩地も、元は同じ組合員だった行天(三浦友和が好演!)にしても、ほかの連中にしても会社のことしか考えない同じ「会社人間」だからだ。つまり、いいと思っての行動も、悪いことにしか見えない行動も、会社にとっては同じ方向を向いているに過ぎない。舞台の航空会社が半民半官の国の力が及びやすい大会社だったとしても、会社の中の話はコップの中の嵐、のようなものなのだ。

 それを表現しているのは、恩地がケニアに赴任するシーンだ。そこでは、広々とした平原に過ごす動物たちの前では人間はちっぽけな存在で、人間は感情でしかそれを表現できない、ことを恩地自身が物語っている。だから、情緒的な人間の姿こそが、会社のためにしか生きられない「会社人間」そのものであることを、この映画のラストに至って、主人公の恩地とともに観客は知ることとなる。そこが、他の山崎豊子の映画とは違う、この作品らしい魅力なのだ。情緒的なのが目立っていたって、そこがこの作品の核ならば受け入れるくらいの度量が、観客の側にあってもいいと思うのだが...。

こもねこ