「後味の良い大いなる結末に拍手」スラムドッグ$ミリオネア かみぃさんの映画レビュー(感想・評価)
後味の良い大いなる結末に拍手
自ブログより抜粋で。
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この映画は三つの時間軸を同時進行で描いていく。
ジャマールが正解し続けるクイズ番組の進行に沿った時間。
正解に結びつく彼の人生を追った時間。
それを説明する警察署での時間。
映画の冒頭で、観客にひとつのクイズが提示される。「ジャマールはなぜミリオネアになれたのか?」
その解答の選択肢は、「A:インチキだった。B:ついていた。C:天才だった。D:運命だった。」の四つ。
映画としての正解は終幕時に提示されるが、映画製作の裏方である自分にとっての正解はこの中にない。ひどくうがった見方で申し訳ないが、作り手側の発想での答えは「脚本家がそうしむけたから。」だ。
原作があるそうだが、脚本の組み立て的には、彼の過酷な半生の中から、かいつまんでクイズを出題&正解しているだけなので、そこだけ見れば究極のご都合主義映画と言っていい。
正解し続けるとわかっているクイズ番組なんて退屈なだけのはずだが、もちろんこの映画はそんな単純な話ではない。
クイズ番組を題材にはしているが、本当に見せたいのは彼がクイズに正解し続けるのとシンクロして描かれる、過酷な運命をはね返し続ける、たくましい生き様、一途な純愛にある。まずこの構成が巧い。
映画の中では「こういう人生を歩んできたからクイズに正解できた」と説明されるが、映画の構成は「難しいクイズに正解するかのように多難な人生を生き延びている」。
ジャマールが生きてきた半生は胸が締め付けられるくらいにつらいものなのに、映画からはどこかファンタジックな印象を受けるのはそのためだ。
ご都合主義映画と言ったが、そんな安易に作られていないことはジャマールが答えに窮した場面に表れている。
「クイズ$ミリオネア」では、回答者が答えがわからなかった場合に“ライフライン”と呼ばれる救済措置が用意されているが、この使い方がまた非常に巧みで、映画的にほかのどんなクイズ番組でもなく、「クイズ$ミリオネア」でなくてはならないという作りになっているのに感心した。
そのひとつが、ジャマールがインドの人にとっては常識的な問題の正解がわからず、番組の観客に答えを尋ねることのできる“オーディエンス”を早々と使ってしまうこと。
これによってジャマールはやはり一般常識すらままならないことが明示される。
多くの問題はジャマールの生々しい記憶から出題されるが、“フィフティ・フィフティ”を使う場面は、彼の“忘れられない記憶”ではなく、半生に裏打ちされた“たくましい本能”が正解に導く。
そこに至るまでの半生を目の当たりにしたあとでのこの選択は、たくましさと同時に、ほかのどの正解よりも哀しみを感じた。
この脚本が巧いのは、あらかじめほとんどのクイズをすでに正解していると最初に明示しておきながら、最後の問題だけはクライマックスまで残している点にもある。
しかも勘のいい観客なら、かなり早いうちにその最後の問題を予想できてしまう。出題された瞬間、「ああ、やっぱりこの問題か」と思った。
その「ああ、やっぱり」と思わせる伏線の張り方も巧いが、さらにそこでジャマールがこの問題に正解して真に億万長者になるのか、最後の最後で不正解となってすべてが水の泡と帰すのか、そこが最大の見所と見せかけて、実は“ファイナルアンサー”の前で、すでにジャマールにとっての「クイズ$ミリオネア」はファイナルを迎えているという落としどころもいい。
もうジャマールにとって最後のクイズに正解するか否かはたいした問題ではない。となると、映画的にもそれはどちらに転んでもかまわない状況とその瞬間は思ったのだが、そこで脚本家が選ぶ結末は冒頭のクイズに対するファイナルアンサーでなくてはならない。
だからこそ、ジャマールを翻弄し続けた兄・サリーム(マドゥル・ミッタル)の決着と対を成す形で、彼が賞金を手にするか否かがきっちりと明示される大いなる結末に、観客は拍手喝采を贈ることになるのだ。