劇場公開日 2011年8月20日

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シャンハイ : インタビュー

2011年8月16日更新
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そして、米国ではいまだ年内公開予定としか決まっていない中、ひと足早く日本で封切られる。その一報を耳にしたのは今年2月ごろ。だが、直後に東日本大震災が起こり、先の見えない状況での公開にはとまどいもあったという。

「ある種悲惨な話を、この夏に誰が見るのかと思い、4月ごろにもう1回、見たんです。そのときに、どんなに大変な状況に翻弄されそうになっても、そこには個人、家族や親子や夫婦、友情といったパーソナルな部分が引き裂かれたりつながったりするドラマだというのがあった。だから全く何もない時期に上映するよりも、もしかしたらつながっていけるのではという気はしました」

さらに震災後しばらくは、日本にとどまる決意をした。生まれ育ち、俳優としての楚を築き成長した日本を離れることはできないという思いからだ。自らが呼びかけ人となって被災者応援メッセージサイト「kizuna311」を立ち上げるなど、被災地の1日も早い復興を願っている。

「今、海外でアクション映画を撮っていても、これでいいのかという気がしちゃう。日本で育ててもらった俳優としては、ちゃんと日本のお客さんに何かを返していく、届けていく必要性がある。この1年くらいは、日本を離れがたしだなと思っています」

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世の中の状況を常に念頭に置く考え方は、震災前から持ち合わせていた。それは作品選びにも大きく影響している。「沈まぬ太陽」が企画されたときも、ひとりの会社員が海外をたらい回しにされながら耐え忍ぶというストーリーに懐疑的な部分もあったが、後にリーマン・ショックが起き、原作のモデルとされた日本航空の会社更生法手続きの申請があったため、今見るべき映画という評価につながり、興収28億円のヒットとなった。

「映画は企画、撮影、公開するときを選べないわけですよ。だから、単純にいい作品だからとか、こういう可能性があるからということだけではなく、社会情勢を含めて常に考えて自分がやるべきこと、求められていることに忠実に応えていくしかないような気がするんです」

そう考える手本となったのが、イーストウッドだ。俳優としての大先輩であり、監督としてもアカデミー賞作品賞を2度獲得している巨匠との出会いは、自ら進んできた道、映画との向き合い方に確固たる自信をもたらすものだった。

「外国への窓が少しずつ開いて、いろいろな才能のある人たちと仕事をしたことと、『明日の記憶』をプロデュースしたこと。そういう映画の作り方や思いが、クリントと会ったときに同じかもしれないと思えた。そういう意味では自信になったんです。ちゃんと伝えたいという思いがあればできるかもしれない、やっていることはそんなに間違っていないということを、クリントを通して確認させてもらったというか。まあ、一方的にですけれどね(笑)」

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ならば、プロデュースにとどまらず、いつかは監督としてメガホンをとることを期待してしまう。かつて02年の主演ドラマ「御家人斬九郎」ファイナル・シリーズの最終回で監督をしたときには、「本当に大変だったよ」とこぼしていたと記憶しているが…。

「一瞬血迷いました(笑)。僕は職業監督ではないし、監督がどういうものかもよく分かっていない。でも、本当に自分の身を削ってでもやるべきだという作品とめぐり合えたら、やる価値はあるかもしれない。プロデューサーも、皆が気持ちをひとつにして作品に何かをささげる雰囲気や態勢を整えるためには努力を惜しまない。掛け値なしにそう思ってやっています」

監督には慎重な姿勢を崩さないが、1俳優としてだけではなく作品全体を見据え先頭に立って推進役となろうとする意欲は、以前より増したようだ。既に、来年公開の主演映画『はやぶさ 遥かなる帰還』を撮り終え「ちょっと冒険したから」と手応えありと思われる笑顔を見せた。「シャンハイ」に出演してから、「また加速した感じ」と語る映画界のトップランナーは、さらにギアを入れそのスピードを上げていきそうだ。

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