ノルウェイの森 : インタビュー
トラン・アン・ユン監督、揺るぎなき松山ケンイチ&菊地凛子への信頼
2008年、村上春樹の世界的ベストセラー小説である「ノルウェイの森」の映画化決定という一報は、多くの驚きをもって日本全土を駆けめぐった。そこからさかのぼること14年、フランスで翻訳版を読んだトラン・アン・ユン監督にとって、映画完成まで足掛け16年という長い“旅路”を当時は想定していなかったに違いない。村上にとっても特別な作品である同作に対し、その世界観を損なうことなく誠意をもって脚本執筆に取り組んだトラン監督に、話を聞いた。(取材・文・写真:編集部)
映画化決定から、主人公ワタナベ、Wヒロインとなる直子と緑のキャスティングに世間の注目は集中した。トラン監督にとって、主演の松山ケンイチも直子役の菊地凛子も、当初の構想に入っていなかったという。しかし、オーディションを経てその人間性に着目し、起用を決意。「ノルウェイの森」という静ひつでありながら、若者たちの声にならない心の叫びを具象化した作品に、2人は大いなる感性を持ち込んだ。
「松山さんは登場人物の感情を他者に伝える術(すべ)を持っている。彼を起用したことは、この映画の素晴らしい作品づくりに大いに貢献したし、私はとても重要視しています。凛子さんは、直子のもろさを見事に演じたと思います。壊れかけた魂を表現するというのは迫力があった。泣いているシーンでは、泣き方があまりにも見ている者にグッとくるような力強いもので、近づいていってなぐさめてあげたくなるような表現でした」
トラン監督の演出は、当日にならないと方向性が決まらない。現場の空気を自分の体で感じてからプランを練っていくという手法に、「とても自然なことだと思う」と松山を共鳴させたほど。そんなトラン監督を、撮影中にうならせたのは菊地の言動だった。「凛子さんが大女優だと思ったのは、涙を流すあるシーンを撮影しているときだった。彼女が『こういう風に泣いている自分は、本当に泣いているんだと思う。それはリアルな実生活のなかで泣いているよりもうんと悲しいのだけれど、それはなぜか?』と聞いてきたんです。だから、『それは君がアーティストだからだよ』と答えました。アーティストというのは、心からあふれ出る気持ちを表現できなければならない。実生活のなかで経験はする。だけど表現することはしない。それが普通の人とアーティストの違いだと思う」
演出方法だけでなく、準備段階での打ち合わせや撮影にもじっくりと時間を惜しまなかった。キャスト陣とも、徹底的に話し合ったそうで「広くキャラクターを解釈するためのものであり、キャラクターをしぼりあげて確定するためのものではありません。むしろ逆です」と説明。さらに、「人物たちの行動や官能さ、意識を決め付けずに広がりを持たせることが重要だと思うんです。『こうあるべき』と決めてしまうと、深みやミステリアスで神秘的な部分がなくなってしまい、残るのは機能だけ。そういうことにしたくないので、たくさん話します。撮影に入ったら、役者さんたちには『今まで話したことをベースにして演技で提案してくれ』と言うんです。彼らの提案を受け、そこからまた自分の新たな気持ちを伝える。演出って、そのつどごとの発見なので、最初に定義や方法があるわけじゃないんです」
日本の国内小説累計発行部数歴代1位となる1095万部(単行本・文庫本合計)を誇るだけでなく、36言語に翻訳され各国で熱狂的なファン“ハルキスト”を生み出してきた「ノルウェイの森」。 松山扮する主人公のワタナベは、親友キズキ(高良健吾)の自殺から逃れるように東京の大学へ進学するが、キズキの恋人だった直子(菊地)と再会する。ワタナベが直子への思いを強めれば強めるほど、直子の喪失感は募るばかり。そんなとき、瑞々しさにあふれた緑(水原)と出会い、直子とは対極ともいえる存在に心ひかれるようになる。全編を通じ、決して癒されることのない、悲しみを抱えた若者たちの姿が丹念に描かれている。
ベネチア国際映画祭では、受賞こそならなかったものの熱烈な歓迎を受け、公式上映時には約6分間に及ぶスタンディングオベーションが起こった。その中に、原作にはないセリフがあることに気づいた観客がどれくらいいただろうか。村上は、トラン監督と脚本のやり取りをする際、大量のメモを貼り付けて戻していたそうで、そこには村上が新たに書き起こしたセリフも含まれていたという。
「そのセリフは、映画のなかに反映されていますよ。ワタナベが直子の誕生日を祝うシーンで、直子が『人は18歳と19歳の間を行ったり来たりすればいいのよ』というセリフが、村上さんの加えてくれたものです。直子のとても不安な心理状態をうまく引き出しているし、難しいセリフです。そんな心理状態の直子が口にすることで、登場人物たちの気持ちの形成にすごく役立ったと思う」
トラン監督は、自らのイメージを保つために今作以外の村上作品を、映画の完成まで読まずに封印していたという。現在は、「ポストプロダクションに入ってから『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』『国境の南、太陽の西』などを読みましたよ。映像化してみたいと思うのは、『スプートニクの恋人』。結末が素晴らしい作品です」とあふれ出る創作意欲をとつとつと話す。それでも、過去から現在にいたるまでの点と点を、線で結び付けようとはしない。「撮り終えたら、もう終わりなんです。作品の関係性なんて考えたことがないので、『ノルウェイの森』もこれから撮るであろう作品も、どれも同じ。私にとって映画を撮るということは、映画的な表現を追及することにすぎないんです」。世界の映画ファンから愛され続ける理由を垣間見た瞬間だった。