メッセージ そして、愛が残るのレビュー・感想・評価
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幻想的な雰囲気と残酷さが共存する映画
衝撃のオープニング。幼きネイサンとクレアは沼地で白鳥を追いかけていた。クレアが沼に落ち、助けを呼びに行こうとするネイサン。しかし彼は車にはねられ・・・
死後の世界を見たネイサン(デュリス)。NYで働く弁護士となっていたが、そこへ見知らぬ医師ジョセフ・ケイ(マルコヴィッチ)が訪ねてくる。はっきり目的を明かさないまま彼のもとを去るが、身内のことをずばりと言い当てるので気になってしょうがない。そして、父親を亡くした男が地下鉄のホームで拳銃自殺sる現場を見せられ、ケイが人の死期を言い当てる人物であることがわかった。それでも信じられないネイサンは知人女性の命が危ないと知らされ、彼女を助けようと久しぶりに会いに行くのだが、運命は変えられないことを嫌というほど知らされる。
ネイサンは幼い息子ポールを乳幼児突然死症候群で亡くし、それ以来妻クレアとの仲が疎遠となり別れてしまったのだ。自分が死ぬ前に大切な時を過ごそうと決心したネイサン。だが真実は別にあった・・・
白鳥は死ぬ前に歌を歌う。それは喜びからくるものだ・・・などと謎めいた話ばかりするケイ。人間ドッグにはいってもきわめて健康体だったこともわかったし、どうやって死ぬんだ?と、大切なことは何も話してくれないのだ。白い光が身体を包み、その人が死にゆく運命にある。そして、それを本人に伝え、大切な時を過ごさせようとするのがメッセンジャー。ただ、それとなく伝えようとしているがネイサンが死ぬということを一度も言ってない。やがて、ネイサンは妻クレアが白い光に包まれるのを目撃する。彼はメッセンジャーだったのだ。それは幼き頃に死の淵から戻ってきたとき受け継がれていた・・・そしてメッセンジャーの宿命は大切な人を亡くしてしまうことだと教えられる。幻想的な雰囲気と残酷さが共存する映画。なんとも虚しい。
水平線で船が消えるのを見たことある?
映画「メッセージ そして、愛が残る」(ジル・ブルドス監督)から。
うまく表現できないが、似たような作品が、ふっと思い浮かんだ。
映画「Sweet Rain 死神の精度」では、
「死に値する生き方をしたか、を判断するだけ」と言い切る「死神」、
映画「アジャストメント」では「決められた運命を逸脱しないよう
世の中を監視している『調整員』」などが登場する。
今回は「メッセンジャー」、死と向き合える時間を与える役目らしい。
死・生き方について、いろいろな役割があるものだなぁ、と感心した。
さて、今回の気になる一言は「死」についての説明である。
「水平線で船が消えるのを見たことある?
船の姿は、目に見えないけれど、存在しないわけじゃない。
『死』もそれに似ている。
水平線の船のように、見えないだけでちゃんと存在してる」
「死」は肉体としては確かになくなるけれど、
「精神」「心」は、思い出として、残された人の心に存在する。
そんなことを言いたかったのかもしれない。
妙に納得してしまった例え話であり、わかりやすかったなぁ。
生と死の境界を乗り越えていくプロセス
普通人間は、他人の死を目の前にする時、それは自分とは無関係のごとく向き合い、恐れる。そして愛する者の死に直面した者は、残りの人生で深いトラウマを抱えながら生きてゆかねばならないこともある。
もし他人の死期を知ることができるようになったなら、人は死とどう向き合うべきか。それが本作のテーマであろう。
愛する者の死期を知った時、その悲しみを乗り越えるために必要なこととは何か?それを本作では、生と死の境界を自らが乗り越えてゆくこととした。主人公はある不可思議なサポーターの力を借りながら次第にそのミッションを克服してゆく。
主人公の妻役の、エバンジェリン・リリー(Evangeline Lilly)がラスト近くで見せる、死の予感に包まれたシーンでの、強い郷愁をそそる魅惑的な演技が後々まで心に焼きつき、観る者を深い感動へと誘い込んでゆく。
皮肉エンターテイメント
ジル・ブルドス監督が、「スパニッシュ・アパートメント」のロマン・デュリス、ジョン・マルコビッチを迎えて描く、人間ドラマ。
目の前に突然突きつけられた「避けられない、死」に向き合う人間の姿、葛藤。このテーマは、既に「ファイナル・デスティネーション」シリーズを通して、アメリカ・ハリウッドが扱っている題材である。一度、避けることが出来た悲劇であっても、決められた運命からは逃げられない。物語のトーンが大きく異なるが、描こうとする世界に共通点を見出すことは容易い。
では、本作がアメリカ映画界が続編を連発するほどに敬愛した作品と同様のテーマを描く意義は、どこにあるのか。そこには、同じ「死への抵抗」という道を辿る上での、明確な相違点を考えていく必要が生じる。
「ファイナル~」において、「死」は衝動と恐怖のエンターテイメントとして描かれている。「自分が、どうして死を避けることが許されたのか」「何故、自分だったのか」といった自分の内面、存在の定義に深く分け入って考える展開を敢えて拒絶し、徹底的に残虐な、そして明朗な殺戮描写をもって死を見つめている。
対して本作は、アメリカが細心の注意を持って排除した「心に潜り込む」世界を目を逸らさずに、粘着に描いていく。時に宗教を、医学を、果ては広大な自然を持ち寄って、理解不能な臨終という行為を即物的に考えようと奮闘する。ここに、現在でも世界をその手中に収める(と、考えようとしている)アメリカと、ヨーロッパ各国合作作品の精神的相違をみるのは容易である。
加えて本作には、特徴的な象徴が用意されている。それが、「ガラス」だ。全てを可視化するガラス張りのビルディング、庭に張り巡らされたガラスのテラス。それはそのまま「全てのことは、理解できる」と思い上がる人間の傲慢さを形にしてみせる。この仕掛けが、可視化も想像も出来ない「死」の物語にぶち込まれている、この嫌味と皮肉。
中盤、銀行に押し入った強盗が銃に打たれて果てるとき、ガラスは見るも無残に砕け散っている。「分かったつもりに、なるな。」そんな警告が、粉々になった破片から聞こえてくるようだ。
快活に「死」をお祭り騒ぎに仕立て上げる視点、そして皮肉交じりに「死」を分かる振りをする人間を批判する視点。まるで違う展開から生まれた物語のようでいて、実は根本は似通っている。
「どうせ、分からないなら、分からないままにしておけ」
今を、楽しめ。そういうことなんだろう。
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