産業の発展とともに変化を強いられた風景を世界中で撮り続けてきた写真家エドワード・バーティンスキー。彼のモチーフは、常に「人間というものが、環境に対してどれだけの影響を与えてきたかにあります。
今回中国を対象に選んだことについて、バーティンスキーが言うには「この3年の間にも水や空気の汚染が進んでいくのを目の当たりにしました。映画のラストは決してハッピーエンドとは言えませんが、この変化を目撃したショックと悲しみがそうさせたと言えます」と説明しています。但し先般の食や環境問題が取り出さされている中国を糾弾するつもりはなく、今日の消費社会の姿を中国の中に見ているのに過ぎないそうです。
作品中でも、「中国が、先進国で消費される製品のリサイクルの場としての役割を担っているという側面もあるのです」と力説していました。
バーティンスキーの場合、自然との一体を目指す意図が強く、自らが主体的な批判者になろうとしません。努めて取材対象を傍観する観察者たろうとします。
けれども彼の写す映像はどれも産業によって破壊された現代社会の縮図ばかりです。傍観者というのはポーズだけで、映像的には社会の繁栄と産業とそこから生じる富を明らかに否定しているのは明確です。
この作品のつまらなさは、ナレーションで語ろうとしないことです。長回しの映像のみで多くを語ろうとします。しかしそれではいくら映像にインパクトがあったとしても、変化に乏しい映像ばかり見せつけられると、どうしても睡魔に駆られてしまうわけなんですよ。その点で、多くを語りかける同じ環境問題を扱った『アース』と比べていただければ、この作品のつまらなさが明確になるでしょう。
例えば、彼自身がお気に入りのシーンとして、冒頭でいきなり8分間ノーカットで延々と工場を映し出すシーンを挙げる。この間ナレーションもなしなんです。
その意図とは、『産業がここまで大きく成長してしまった。』ということを見せるため。確かに最近の映画はカット割が多く、スピードも速いという問題はあります。しかし皆さん!『いつまで続くのかな…』と、落ち着かない気持ちになってしまう記録的な長回しのシーンについて行けますか?ワクワクするでしょうか。
それでも、作品で紹介される写真や映像の多くは、圧倒的なパターン化された構図と様式美に満ちています。写真家を志す人なら、一生に一度はこんな写真を撮ってみたいと夢見るものばかりが続々画面に映し出されていきます。
映画として見るのでなく、あくまで動く写真集として鑑賞すれば、それなりに楽しめることでしょう。