実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)のレビュー・感想・評価
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タイトルなし
宮台さんも出てて、一度見たことある気もする。結構、真面目な作品。坂井真紀がいい。言葉の抽象性が空虚。
森とか聞いてられなくて許せない。永田の視線もぞっとする。
小島さんになりたくないとする遠山に小島を埋めさせるとか、非道を超えてる。
まきさん、いい感じ。
愚かすぎる。森のコンプレックス、永田のコンプレックス。自分を殴る遠山を見ている仲間の目が怖い。女たちの声が嫌だ。腫れた顔はひどすぎるし、男に媚びて来た顔を見ろとかひどすぎる。美枝子がおかしくなってくると皆はただ避ける。ここには醜さしかない。
そして、ここにきて、むしろ自分の問題を自分から告白してしまう。ここまでくるともう病理しかない。総括が死刑に。それをスターリン主義者と呼ぶ。
何と坂口と永田ができてたのに、永田が森に乗り換え、しかも森には妻も子もいたという無茶苦茶な話。これはフィクションか?
長いな、この映画。
連合赤軍事件入門
作品としては冒頭は時代の流れを連合赤軍前史としてよく捉えてると思いましたが、残念なことに内容が映画では短かすぎて事件の本質を映像化できるところまではいきませんでした。それにメインの戦闘クライマックスを考えるとあと5倍程度予算が欲しかったと思います。予算資金の都合で監督がちょっと気の毒ですね。例えばコミックのレッドは実写でない分内容が充実していました。映画では重信房子と遠山さんの関係の掘り下げや総括のリンチ描写などはダイジェスト的で響くものがありませんでした。
遠山さんの総括と進藤さん持原さんの関係は上手く描いてま
したが重要な総括援助のリンチから処刑に転換した中盤の寺岡と山崎の処刑シーンはそれまでの経緯や描写が少なくてその他大勢の脇役扱いに近いのでなぜ彼らから処刑殺人に転換されてかつそれ以降も大量のリンチ死亡者が出ていくのか原因がさっぱりわからないと感じました。同様に重要な大槻節子や金子みちよも脇役で印象に残りませんでした。コミックのレッドに比べて物足りないのが本音ですね。この愚行を止められる位置にいた唯一の幹部最後の犠牲者の山田孝も全く印象に残らずクライマックスの山荘の坂口が主役みたいな内容でした。その坂口も傍観者的二枚目キャラなので朴訥で生真面目で狡くて臆病で凶暴さが混じり合った複雑な性格が感じられずらしくなかったです。玉振さんみたいな魅力あるキャラも出てこないし植垣も飄々とした狡賢さとタフで生き残る男として出番を増やして欲しかったです。もし読んでないなら映画ではないですが事件に興味ある方はコミックレッドもオススメです。永田さんも綺麗で可愛いすぎて凄みがありませんでした。しかしながらこの映画が作られた意義は大きいと思います。
昭和も大変だった史紐解き鑑賞その三
昭和に起こった不可解な集団殺人事件、いわゆる山岳ベース事件からあさま山荘事件までの一連の流れを組織内部から描いた長編作品。
連合赤軍と関係の深い若松監督が描くことで、ディティールまで恐らくほぼ正確に表現されていると思う分、歴史的な資料としての価値は高い。
安保闘争の末期に、機動隊との相次ぐ衝突や過激な行動による逮捕者の続出で行き詰った末に、残った赤軍派と革命左派のメンバーが結託して連合赤軍と名乗るものの、赤軍派は森、革命左派は永田が行き掛かり上それぞれのトップとはなるが指導力と呼べるようなものはなく、警察の包囲網もどんどん狭まってゆき、山岳地区に逃げつつそこで革命のための準備をしていく。
そんな最中に、規律を乱すものに罰を与えていたのがどんどん過激化、訳の分からん共産主事ワードを連発して尤もらしく暴力を正当化、歯止めが利かずしまいに死に至らしめてしまったという、実は学生闘争や60年安保の話に微妙には繋がっているものの、その事件自体は単なる歯止めの利かなくなっ集団の虐待事件だったというお話。
これを、ほぼ正確に描いているので、醒めた目で見ると大変滑稽、だけどやってる人間大真面目。若松監督はこれを美化することも誇張することもなく描いてくれているので、いかに愚かで稚拙な心理だったかが大変よくわかる。
恐らくは隔離されたカルトコミュニティであれば、どこでも起こりえる恐怖だと思う。現にその数十年後に山梨県のサティアンと呼ばれる閉鎖集落で同じようなことが起きている。
そういう集団心理の危うさ、その円の中にひとたび入ってしまうと物事を客観視できなくなる恐怖、自分の思考回路が完全に止まってしまい、声の大きいものが発する小難しい謎の言葉がすべて正しいと考えてしまうようなマインドコントロール的思考が起こりえる危険性が、この映画のメインテーマだとしたら、本作は大変優れたサイコスリラーかと思う。
その共産思想が正しいとか正しくないとか言う話は知ったことではなく、単に自分を正当化させるために他者を貶める、あまつさえ命を奪うような行為はあってはならない。それを、勇気が無かった、などという小学生のいじめ問題で同級生の子たちが思うようなことを、仮にも最高学府まで出んとするような若者たちが言っていることに恐怖を覚える。
彼らに足りなかったのは勇気でもなんでもなく、物事を客観視できるかどうかのインテリジェンスの問題そのものだったのだと思う。大学まで入っといてなに寝ぼけたこと言ってんだと、呆れるばかりだった。
圧巻である。
どうしても記憶と記録に残す必要を感じた監督をはじめとするスタッフの圧の高さは半端ない。3時間を超す長編であるにもかかわらずその長さを全く感じない。ただその描かれたその内容たるは見ていて暗澹たる気分になる内容である。多くの若者が見た夢とはこれだったのか・・後にオームの事件でも似た状況が起こる訳だが、未来ある若者たちが見た夢とは・・我々もそれを追体験することで自らの住む国の未来を考えさせられた。
若い人ほど本作を観て、団塊左翼老人たちに騙されて、山岳ベースに連れて行かれないようにするべきだ 「連合赤軍」は精神の中にいまも存在して、あなたを狙っているのだ
これほど胸糞悪い映画は久しぶりだ
「冷たい熱帯魚」と同じくらいに胸糞が悪い
そんな映画を観ようと思ったのは訳がある
1ヵ月ほど前、こんな記事を読んだからだ
「手紙で「出所後は謝罪と闘病」 5月刑期満了の重信房子受刑者」
あの日本赤軍の重信房子がもうすぐ5月28日に出所するというのだ
2000年に大阪府高槻市で逮捕されて、もう22年も経ったのだ
彼女は本作の劇中前半に重要人物として序盤直ぐから登場する
21歳とテロップにでる黒髪ロングの綺麗な女性が、今では76歳の老婆になり果てて出所してくるのだ
出所後は彼女に本作をまず観て欲しいと思う
そしてその感想を公表して欲しいものだ
山荘ベース事件やあさま山荘事件そのものは、彼女とは直接関係はない
しかし関わりは濃厚にあるのだ
そして、この当時学生運動に関わって活動していた団塊左翼老人たち全員にも関わりがあるのだ
関係ないなんて言わせない
連合赤軍のこと、あさま山荘のこと、重信房子のこと
そんなこともう半世紀も昔のことだ
21世紀の現代になんの関係もない
ならば同時代に生きて、同じ様な左翼活動をした団塊左翼老人たちが、若き青春の日々を回顧する為の映画なのだろうか?
太平洋戦争の戦記映画のような当時を回顧する映画なのだろうか?
それならば21世紀生まれの若い人に、本作を観る意義や意味や価値などないのだろうか?
いや今こそ21世紀生まれのように若い人こそ本作を観るべきだと思う
タイトルにあるように本作の終盤は、あさま山荘の立てこもり事件となる
1972年2月下旬、軽井沢駅から南に8キロほど
河合楽器の保養所「あさま山荘」で起こった実際の事件
「突入せよ!あさま山荘事件」が徹底して体制側の視点だったから、連合赤軍側の視点で彼らの考え方や立場を、若松監督は伝えたかったことが製作意図という
しかし、本作には一切の美化も、正当化も、賛美も、擁護もない
実録そのものだ
そこは大いに好感が持てる
この事件から今年はちょうど50年
同じ2月下旬にロシアはウクライナに侵攻した
何の関係もないようで、何か同じことのように見えないだろうか?
ウクライナ戦争は、プーチンにとってのあさま山荘事件のように思えて仕方ないのだ
自らの凝り固まった思想信条が行き着いた先ということだ
本作の真のクライマックスは、あさま山荘の攻防では無い
その前に展開される山岳ベース事件だ
正視に耐えない
正に地獄
なんという陰湿さ、凄惨さ
肉体だけでなく精神をも破壊するリンチ
凝り固まり煮詰まって自家中毒となる思想と体制の恐ろしさが余すことなく表現されている
共産主義化達成の為だといえば全てが正当化される
一人一人の共産主義化が必要だといえば、人に対して何をしてもよいのだ
共産主義思想の行き着くこところの姿だ
本当に、こんな連中に日本が乗っ取られ支配されずに済んで良かったと心から思う
翻って、2022年5月9日のロシアの軍事パレードに、それと同じ狂気を感じるのだ
ウクライナ南部のロシア占領地の町には、巨大なレーニン像が建てられ、ソ連の赤旗が翻っているニュース映像もそうだ
「こんなの革命じゃないよな!自己批判しろ!」
という台詞が終盤に、立て込もり犯の口から飛び出る
その言葉をプーチンに投げかけたい
しかし、プーチンはそれを21世紀にやろうとしていると言うことだ
共産主義なんか抜け落ちて、あるのはただただ帝国主義とファシズムなのだ
しかしこのウクライナ戦争でのロシアの行動を正当化し、擁護する人々が、驚くことに一定数いるようなのだ
その精神の構造は、本作の登場人物と変わらない
「連合赤軍」の精神は今もあるのだ
若松孝二監督は、60 年安保闘争以前から、日本の左翼闘争の歴史を解き明かしてくれる
その当時、同時代にその現場に生きた人間ならではの生々しさが、自分のようなもっと下の世代にも伝わる
若松孝二監督は、1936年生まれ
60年安保世代だから、本作の登場人物達とは一世代上になる
しかし本作登場人物とも幾分かの関わりもあったようだ
農業高校中退後、職を転々として、あさま山荘事件のときは36歳、ピンク映画を撮りまくっていた
戦争宣言(特徴的なゲバ文字)
赤軍派結成
万国のプロレタリア団結せよ!
自己陶酔の言葉の数々
今となっては爆笑だ
永田洋子は序盤しばらくしてから登場する
酷薄、冷血、のっぺりとした白い顔、切れ長のキツい目つき、つり上がった細い眉
まさに彼女のそのもののイメージが映像で具象化されている
ラストのテロップでは収監中となっているが、
2011年2月5日に東京拘置所で脳萎縮、誤嚥性肺炎のため65歳で獄死している
あさま山荘事件の5人の犯人の一人、坂東国男は、この3年後、重信房子の日本赤軍がクアラルンプール事件を起こして奪還に成功、今も逃亡中
その重信房子が刑期満了で出所してくる
このニュースを団塊左翼老人たちはどのように聞いたのだろうか?
彼らはもう75歳前後
劇中にこんな台詞がある
「きちんと総括させて自己批判させなければ革命的な死にはならないぞ」
彼らの心の中で「総括」はできているのだろうか?
自己批判ができているのだろうか?
本作のように、「勇気がなかった」なんてことで、簡単に総括して欲しくない
そんなのは自己批判じゃない
言い訳だ
それとも、死ぬ前に一花咲かせようと、未だに半世紀も昔の考え方に若者を洗脳しようとしているかも知れない
だからこそ、若い人ほど本作を観て、団塊左翼老人たちに騙されて、山岳ベースに連れて行かれないようにするべきだ
「連合赤軍」は精神の中にいまも存在して、あなたを狙っているのだ
令和の殲滅戦なんか、絶対にごめんだ!
学校の授業で見せるべき
『それでも僕はやってない』『コンクリート』と同じくらいに中学、高校の授業で見せるべき映画だと思う。
革命の名の元、自分達の正義を信じ、国の為戦って散っていった若者達。
彼らのような若者達の命の上に俺らはいる。
かといって共産主義、赤、極左を礼賛はできない。でもこの時代の左派は愛国を感じる分、今の左派よりはマシな気がする。
今も昔も声高に平和を謳う奴等に限って暴力的かつ過激だよな。
総括の名の元死んでいった者達。
彼らはお国の為に死んだんですか?
革命の名を冠した宗教じみた理不尽な組織に殺されたんじゃないですか?
それでいて、散っていった同士の志を継ぐとか虫が良すぎんだよ。
ただ、今の日本がアメリカじゃなくて中国を選んでいたとしたらこの映画の評価は180度変わると思う。
自己否定と総括
個人評価:3.8
連合赤軍の若者達がいかにして、あの浅間山荘の事件まで流れ着いたのか。まさに流れ着く様にあの場所に導かれ、最後を迎える。
また山岳ベース事件なども鮮明に事件の経過を描き、甘美な主義に酔いしれた若者達が、どのようにして壮絶なリンチが行われたかを教えてくれる。総括と自己否定。聞くだけで背筋が凍る思いになる。
永田洋子役のあの目。もう無理矢理にでも自己否定するしかない。
革命よりも総括
一致団結し革命を行う為の自己批判、総括という名の集団リンチ、目的から逸れ始める過剰に麻痺した集団心理の恐怖、密室、狭い世界の中での無意味な価値観、イジメの意識もなく、無意識に人を殺す責任感の成れの果て。
革命に散って逝った同志ではなく、自らの自業自得とは言い難い、イジメにあって死んでしまった同志達、イジメを止める勇気がなかった革命家達。
その勇気を否定する連合赤軍元メンバー、何故にあのシーンを若松孝二は加えたのか?
逃げて闘わず、舞い戻り、間違った権力を振り翳す森恒夫の腐った根性、嫉妬を怒りに無理難題を提案する永田洋子の自分を棚に上げ捻じ曲がった根性、そんな二人の総括は行われず。
演じた地曳豪、並木愛枝、この二人が嫌ぁな存在感をリアルに醸し出す最低最悪な役柄を最高に演じ切った。
無名、有名と関係なく入り乱れる役者陣、すべての演技が素晴らしく、一人一人の強い存在感。
ゴジが撮らないから、自らの別荘をブッ壊す本気度を披露した若松孝二の凄さが真に迫って来る。
親日家でもあるジム・オルークの音楽も、違和感なくラストに効果抜群、余韻が残る。
はっ? 何なんだ? と思う映画
けれども、そこに価値があるように思う。
古くは桜田門外の変・2.26事件、最近(?)の日本ではオーム真理教、イスラム国に走る人々に象徴される青年の暴走。そして、この事件。
なんで? どうして?
最初の、安保に反対するところまでは理解できるけれど…
1970年代に大学に行けるのに、自分をプロレタリアートに規定すること自体がすでに矛盾…。
(1980年代には大学がレジャーランド化しているから、このころ大学に行けるのは金持ちだけってわけではないが、それでも金銭的理由から、奨学金を使っても進学できない人はたくさんいた)
”山”に入ってからの森と永田の行動は、自分の権力に固執する姿にしか見えなかったな。
何をどう正当化しようと、結局は自分の欲望に振り回され、暴力が幅を利かせていく…パワハラの過程にも似て、興味深かった。
”山”を下りてしまえばいいのに。
傍から見れば、単純なことなのに、そうしないではまっていく彼ら。
森が一度離脱して戻ってきたのはなぜだろう?単に思想的なものには見えない。
世間には居場所がない彼ら。
映画の中では幹部には見えないが、幹部としての、高邁な思想に命を懸けているという(傍から見ればどうでもいい)プライド。
映画の中でははっきりとは語られない。ただ、鑑賞者が想像するのみ。
「本当の勇気」っていう言葉が出るけれど、その後の行動をみると、その言葉すら、観念化していて、頭で考えているだけなのね、とがっかりする。
今の言葉でいうと「意識高い系」で実態は空っぽ。インスタ映えに酔っているのと同じ。
世間では認められないけれど、世間を騒がせるような・他の人がためらうような大きなことをやって自分の存在を認めさせようと意気がってつるむ…昔の暴走族の発想にしか見えない。
世界の明暗は自分が握っている?…中二病の発想?けれど、彼らは現実的な方法をとれない。
「自己批判せよ!」
『さらば、わが愛 覇王別姫』でも出てきたな。表面的にしか関わりのない他人に、その人の人生をとやかく言う権利なんかない。
いじめ・DV・パワハラの構造。
集団圧力。同調圧力。
最近映画化もされた、(倫理が規定されていない昔に行われた)USAの幾つかの心理実験。
電気とネズミを使った学習性無力感の実験。
視野狭窄。
”山”での状況を説明する理論はいくつかあるけれど…。
映画としては、ドラマチックな展開は、遠山の最後の言葉や、予告で流れる叫びだけで、当時の出来事・映像を交えて、淡々と描く。
原田氏のナレーションは、明瞭で落ち着いていて耳になじみやすく、映画に入っていくのを助けてくれる。
だが、グループが分裂・統合する様が複雑で展開が早く(それぞれの主張が何がどう違うのか理解が追い付かない:だから何?と興味を失っているのでなおさら理解できない・女子中学生の対人関係みたい)、頭が混乱してくる頃、”山”の場面になる。
リンチがエスカレートしていく様が迫真で、本気で森と永田をぶちのめしてやりたくなると同時に、その論理の幼稚さに唖然とし、このエスカレートに歯止めがかからぬ理由をあれこれ探り出す。ーそういえば、この映画、R指定されていない。映像的にグロいのではなくて、いびり方が陰湿・狂気。
そして、あさま山荘の場面、その後の顛末がテロップで流れ、エンド。
井浦氏、奥貫さん、佐野氏他出演。永田を演じられた並木さんがすごい。
映画としての完成度は高い。
が、そこに映し出されているものを全力で否定したくなる。
だからこそ、現代に、日常に生きる私たちとして、「本当の勇気」って何なのかを考える一つのきっかけにはなると思う。
<余談>
学生運動を懐かしがっている人たちって、熱中して取り組めた自分やその”お祭り”的な雰囲気を愛おしんでいるだけ?自分のことしか見えていない?(高齢者による自動車事故って、この世代)
「自己批判」とかいうけれど、相手への批判ばかりだよね。そして社会のせい。自分では責任を取らない。
その後、この世代の人たちがバブルを謳歌したことを思えば、猶更、学生運動って何だったんだろう。
土地ころがし等他人を食い物にし、他人を押しのけての饗宴。
未来の子どもたちへの”国債”という借金。
格差・下流とかの言葉。
これら今の現状と学生運動って、どうつながっているのか?
学生運動の理念は理念。社会の中での自分の地位を確保するための競争は競争なんだろうか?映画に出てきた要求も、自分たちの利得要求ばかりだったな。
常に右肩上がりの上昇志向=天井知らずに欲しがるだけ、むさぼり食らい尽くす。餓鬼。
それこそ、学生運動にはまった人たちに「総括」「自己批判」してほしい。
他の人へのおもいやりを示せない革命なんて、結局、自己中人間の自己満。
そうやって、自分たちは好き放題やって、若者の将来の芽をつぶして、若者批判って、この映画に登場した面々と何が違うのだろう?
もし、現代的な革命があるとしたら、今の子ども・若者に何を遺せるかを考えることから始まるんだろうと、この映画を見ながら思った。
連合赤軍崩壊までの群像とその道程
1967年の早生れの私にとって、連合赤軍については、子供の頃からあまり興味がなかったし、どんな組織なのか良く判らなかった。
私が生まれ育った横浜鶴見の公立中学校は、私の世代は校内暴力で社会問題となり、新設校となる私の出身中学(私はNo.2となる裏番だった。)以外、卒業式に全ての学校に制服及び私服の警官が配備された程の地域であり、「3年B組金八先生」第二シリーズと僅か一年違いで交差する時代だった。(脚本家の小山内美江子さんは、鶴見の鶴見女学校の出身で、鶴見在住。当時、足立区と鶴見区の中学校を下敷きに脚本を描いたのだろうか?)
暴走族に所属する非行少年達と喧嘩を繰り返し、何度も停学をくらい退学寸前の神奈川県立の最底辺高校から、父の病死を契機に改心。駿台予備校で一浪して明治学院大学の夜間、社会学部社会学科に入学した1986年、学生委員のメンバーとなる。
大学生協合同の夏のセミナー?参加前、大学生協の理事長から参加者は皆、直接、他の大学の学生委員に感化されないように一応注意を受ける。
私の場合、体育会系並の学力と、文化系並の学力を擁していたので、思想的にも体力的にも感化されるタイプではなかった。
学内では、私の体格、風貌から応援団が体育会公式野球部員と勘違いしていつもすれ違う際に深々と挨拶される程。(^-^)
不良少年時代の仲間のほとんどは、そのまま裏社会の住人となって行ってしまった。
さて、夏の合同セミナーに参加して驚いた。
一種独特かつ異様な雰囲気を体験したのだ。
そして、この映画を見て、その時の異様な雰囲気を思い出す。
当時、全国の大学生協の学生委員会と民青には、未だ強い繋がりがあったようで、明治学院大学は、私が入学する前に何か学内で過激派学生との間で非常に激しいトラブルがあり、一度学生委員のほとんどが退会。
再建中だったようだ。
夜間である二部の三年生が一人、二年生が三人の学生委員会を、私達の代に10数名と大量に入会し雰囲気をサークル活動のように一変させ、政治色の一切ない団体へといち早く進化させたのだが、他の大学には、学生運動の残党や、過激派との抗争が未だ残り、暗い雰囲気からの脱却が出来ていないようだった。
昼間は、二年生が新しい横浜校舎で新たな学生委員会を立ち上げており、政治色の薄い自由な活動を続けていた。
私が、白金校舎に巣食い弱体化していた過激派の残党を襲撃し殲滅しようと企てた所、先輩から止められたことがある。
当時、いち早く組織改革に成功した明治学院大学の学生委員会以外、他の大学では、残党が地下活動を続け負の遺産も受け継いでいたのだろう。
長年の謎、複雑怪奇な組織形態、人物描写も鮮やかに描き分けることに成功した見事な群像劇に、心から感心してしまう。
この独特の嫌な空気間は、後の2000年頃、マンガ史研究会なる組織の会合に参加した時にも私は追体験する。
内部崩壊、死屍累々の屍のみの排他的な組織。
ネット上にその残党が跳梁跋扈し、仲間以外のマンガ研究者に対して誹謗中傷を繰り返し意味のない争いを今も虚しく続けているようだ。
実績の伴わない似非インテリ達の行き着く先は、何時の時代も何も変わらず、何も産み出さず。
様々な教訓を教え、安全地帯から当時を追体験出来るのは、映画ならではの醍醐味。
私は、当時、本来禁止されていた学生委員会と、書評誌『もん・りいぶる』の掛け持ちを続けていたのだが、二年生の秋、学祭終了後に学生委員会だけを退会することにより無事解消。
書評誌は、大学生協の出資により発行されていたのだが、他の大学と違い学生委員会とは独立した組織だった。(^-^)
私の時に学生委員には、毎月8千円の活動費が貰えたのだが、二年生時には、新入生の大量入会に伴い、活動費は大幅に減額or後に廃止になった気がする。
書評誌の編集部員は、発行費用として一回に数十万、年間で百万円以上の費用が使えたが、飲食費などに流用はしていない。
無料で同人雑誌活動をしていたようなものだ。
学内の名物教授や、連城三紀彦、瀬戸内寂聴など、毎号巻頭に有名作家へのインタビューが載る。
私は、秋元康さんの事務所へ行き、秋元康さんに直接インタビューさせて貰った時の体験が今も印象深い。
スポンサーである明学生協の宣伝など、ほとんどしなかったのだから凄いことだった。
巻頭のインタビュー、本の紹介、エッセイだけの白黒の雑誌。
私は学生時代、添乗員のアルバイトをしながら成績も四年間優秀で奨学金を貰っていた。
そして、日本旅行本社勤務、漫画喫茶経営を経て、2001年に「少年画報大全」で、漫画史研究家のパイオニアとしてメジャーデビューを飾った私は、2003年に無声映画鑑賞会に復帰し、満を持して昨年の『週刊女性』70年代漫画、映画、歌謡曲の10ページ特集にて、漫画、映画に写真付きコメントをしたのを機に映画史の研究もプロとして活動を始めたのだが、偶然にも1986~1987年頃の学生運動の残党の雰囲気と、2000年頃のマンガ史研究会なる組織の雰囲気が酷似しているその現場を安全地帯から体験出来た。
体力的、思想的に自信が無くても安全地帯から当時の学生運動の実態を知ることが出来るこの映画は、高校生など、若い世代に是非、観て欲しい。(^-^)
当時の大学生協の合同セミナーで、次第に政治思想に染められていく他大学の学生達を間近で目撃した私は、宗教のセミナーには、参加しないように気を付けている。(^-^)
酒を飲むと自制が効かなくなるので、高校時代、極真空手愛好会を破門になった苦い経験がある私は、外での深酒は決してしない。
マンガ史研究会を母体の一つに、2001年にマンガ学会が設立された。
だが、私が知る限りマンガ史研究会、マンガ学会の参加者から、メジャーデビュー出来たメンバーは、死屍累々の屍の中から、ほんの数える程で、その末路すらほとんど判らない。
現在も何処かに籠り、地下活動を続けている者もいるのだろうか?
キャスト全員が名演技でした。
かなりの取材で作られた作品だと思います。
坂井真紀さんの演技がピカイチでした。
内容も人間の本質を綺麗事無くリアルに作られてます。若さゆえに革命の名を借りて人間の欲望や恐怖心、人間の弱さを上手く描かれてると思う。3時間の映画なのにじっくり観れました。だがそんな若者でも信念の志しをあそこまで行動出来た事は無い者からしてみれば少し羨ましいと思いました。
作り手側にも逃げ場はない
連合赤軍あさま山荘事件までの道程を描いた本作、ドイツ赤軍を描いた『バーダー・マインホフ 理想の果てに』と対比させて観ると、その特異性が際立ってくる。
『バーダー・マインホフ』はドイツ赤軍内部を描くと同時に、警察幹部(ブルーノ・ガンツ)らの視点も加えている。
対する側も描くというのは極々普通のことなのだが、
本作には連合赤軍メンバー以外出てこない。例外として山荘の管理人がただ一名出てくるのみである。
(警官がエキストラ的に出てくるが、主要人物としては扱われていない。)
対峙する筈のものは描かれず、徹底的に連合赤軍内部の描写にこだわるのである。異様である。
彼らが闘うべき相手は外部では無かったということか。
延々と続く内部の描写は、観ている側の逃げ場が無くなるほど、息苦しく迫ってくる。
そしてそれは当然、作り手側にも言い訳や逃げ場は用意されていないということである。
徹底して内部のみを描くという手法と、ラストの加藤元久のセリフは、
事件に対する、いや時代性に対する、若松孝二監督の確固たる立場表明であった。
監督の姿勢を突きつけてくる凄まじさが、印象深い1本であった。
人間の弱さ、心の暗さから目が離せない
「突入せよ!「あさま山荘」事件」を観て以来、山荘の内側を描いた本作も観ておきたいと思っていました。
1960年以降の学生運動の流れが冒頭にあり、激化していく活動の状況はわかりやすかったです。原田芳雄さんのナレーションが効いてます。
60年代前半は「コクリコ坂」の頃、後半は「マイ・バック・ページ」ねと思いつつ観ていると、70年代に入り連合赤軍の暴走が始まります。
銃で武装し先鋭化、短期間に10名以上が殺害される榛名アジトのリンチ事件、そして逃亡の果てのあさま山荘事件。
人間の弱さがねちっこく描かれ、目が離せませんでした。
集団が方向性を失い、ストレスが内向きに発散される陰惨さはやりきれませんでした。だけど呪文のような革命理論を聞いてる間は、観ているほうもチョット感覚が麻痺してくる、怖ろしいことです。
人間の不可解な愚かさ
3時間10分の大作ですが、全く長さを感じることなく、スクリーンに釘付けになりました。
“総括”という名のリンチの犠牲者は11人、8ヶ月の子を身ごもっていた女性もおり、その子を含めれば12人です。
一体、どうして人間はここまで狂気に走ってしまうのか?
赤軍派の森恒夫はかつて、一旦は組織から逃亡した人間でした。
再び戻ってきたとき、幹部たちは逮捕されて、森が主導者になっていったのです。
森は元々極めて臆病な人間だったのでしょう。
弱い人間ほど強がったり、力に訴えて、自制が効かず暴走してしまいます。
異常な思想に取りつかれ、閉塞した空間で、感覚が麻痺していき、自らが失墜したり被害者にならないため、追い詰められて、そうする以外なくなってしまうのではないでしょうか。
わずかでも人心を掴む知恵があったなら、こんな異様な事態には陥っていかなかったでしょう。
人は心で動くものであり、力でねじ伏せようとする者は、いずれ間違いなく破滅するのです。
僕も若いとき、創作によって社会を変えたいと思い、前衛的な思想に駆られていた時期がありました。
ある天才的な同人誌仲間と、現実離れした観念的な世界に生きていました。
20代のときは、現実社会の動かしがたい重みが分かりませんが、エネルギーと熱意はあり余り、過激に傾倒しがちです。
それで破綻して挫折するまで、どういう結果が待っているか気付くことはできないのです。
従って僕も、連合赤軍のアブノーマルな偏向が、全く理解できないわけではありません。
それからまた、記憶に新しいところでは、あの「オウム事件」があります。
信者は誰もが初めは、真理を求め、自分を成長させて、人のためになりたいと願っていたはずです。
ところが、オウム真理教というねじれた教義に染められ、マインドコントロールという物理的・強制的な手法もありましたが、通常は考えられない蛮行を犯すまでになって行ってしまいました。
純粋で高いものを求めている人間ほど、一歩間違えれば常識はずれの道を突き進んでしまうのかもしれません。
そして松本智津夫もまた、臆病な人間でした。
ヒトラーも然りです。
そういうことから考えれば、連合赤軍の暴挙は全く不可解なでき事ではなく、誰もがそうなる可能性を秘めているとも言えるでしょう。
若松監督は、それを我々に突きつけているのかもしれません。
翻って現代は、長期にわたる不況で先が見えず、自分の力で世の中を変える夢想をするどころか、自分自身の将来さえおぼつきません。
社会と関わることを避けて引きこもったり、心を病む若者が増えています。
30年ばかりの間に、日本は何と変わってしまったことでしょうか。
だがそんな社会でも、何か特殊な空間に取り込まれると、時代によって形は変わっても、同じような過ちを犯す可能性が、人間の心の病的な部分には潜んでいるのかもしれません。
あと何年かしたら、今度はオウム事件が映画化されるときが来るでしょう。
そのとき我々は、何を見せつけられることになるのでしょうか。
知らな過ぎた「真実」までの道程
連合赤軍という、時代の波に翻弄された若者達への
怒り、焦り、哀しみ、苛立ち・・・そして、少しの羨み
そんな行き場のない感情と、
あまりにも無知であった自分への羞恥と共に
過ぎ去った190分。
気づけばエンドロール。
事件には、被害者と加害者が存在する。
連合赤軍は、加害者なのか?被害者なのか?
何が正しく、何が間違っているか。
そんなのは所詮、私感・道徳観ありきのことであり、
人間(世界)というものは、もっと複雑で混沌としている。
この作品は、「あさま山荘事件」の善悪を問うものではなく
何故、事件が起きたのか。その道程(みち)
現代日本に生きる私たちには、遠くの国の現実離れしたお話も
集団、権力、独裁、テロリスト
知らぬ間に陥る負の連鎖
事件の加害者であり、時代の被害者でもあるのかもしれない。
とにかく、映画としてどうこうよりも
ひとりでも多くの日本人に伝えたい作品である。
鑑賞後、劇場エントランスでタバコを燻らす指の震えが止まりませんでした。
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