ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト : 映画評論・批評
2008年12月2日更新
2008年12月5日よりTOHOシネマズ六本木ヒルズほかにてロードショー
ストーンズという大きすぎる素材。「作品」の枠に収めなかった決断を支持する
流星と思っていたらいつの間にか恒星に変わり、それでもやはり、いつの日かふたたび流星に戻って去っていくような気がする。40年以上に及ぶローリング・ストーンズの活動を思うと、こんな考えが浮かんで仕方がない。
「シャイン・ア・ライト」を見て、私はその感をさらに深くした。ビートルズが早々と古典になったのに対して、ストーンズは現役を張り続けている。ミックやキースの顔は皺だらけになったが、彼らは噴火をやめない。いや、噴火ではなくロックだ。永遠の美ではなく、永遠の活力を追い求めるロックだ。だから、彼らはドリアン・グレイにならない。
2006年秋、ニューヨークのビーコン・シアターに、マーティン・スコセッシは18台のキャメラを用意した。撮影監督はロバート・リチャードソンだが、ジョン・トールやロバート・エルスウィットといった大物もキャメラを回している。劇場は小さい。観客2600人というのはストーンズにしては例外的に小規模のコンサートだが、その分、親密度は高い。脚の動きや表情の変化などは、通常のコンサートよりもずっとよく見える。
スコセッシが賢明だったのは、この映像を「作品」の枠に収めようとしなかったことだ。彼はストーンズの巨大さを実感したにちがいない。大きすぎて映画に入らなければ、大きいまま映せ。そしてラストは、恒星を流星に戻せ。スコセッシの決断を私は支持したい。
(芝山幹郎)