「なぜ吐いたのか?」4ヶ月、3週と2日 マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)
なぜ吐いたのか?
交際している彼の家からホテルに急ぐ途中、オティリアが道端に吐いたシーンがあった。
あれは、何を意味していたのか。
まさか、『つわり』なのか。
でも、そう考えると、いろいろ説明がつく。
彼の家でお酒を飲まない。「最近、ひかえている」というような言い訳。
妊娠の自覚があるから?
とは言っても、タバコは吸いまくっているのだけれど。
オティリアは彼に、もし私が妊娠したら、って話をもちかける。
そして、険悪な雰囲気にまでいってしまう。
まったくの仮定の話なら、そこまで突き詰めなくても良いのに。
そもそも、大学の廊下で、2人はラブラブ感を出しまくりで、
彼は親族まで集うパーティーに招いてくれる公認の交際。
にもかかわらず、
仮想の妊娠話で2人の関係をギクシャクした所まで追い込んでしまう、
というのは、ちょっと不自然なようにも思える。
ガビツァのお馬鹿さにはイライラを出さないよう振る舞うオティリア。
仮想妊娠なら、彼にいくばくかの不安をいだいたとしても、
無益ないさかいに発展させないよう、感情をコントロールできても良いような。
もちろん、勘ぐりすぎかもしれない。
彼の家で食べた後、すぐに急ぎ過ぎたから吐いただけ。
ちょっと、食べ過ぎていた??
でも、
もし、オティリアが妊娠の自覚をしているとすれば、
ガビツァへの献身が、ちがった意味合いをおびてくる。
ガビツァをお馬鹿に描く、必然がうまれてくる。
チャウシェスク政権下、
あらゆる自由を制限され、中絶だけではなく、避妊すら基本は認められない。
そんな体制の不条理は、もちろん描かれている。
でも、不条理はそれだけではない。
彼の親族の会話に表れる前近代性。
「両親の前で酒を飲んだりするのは、はしたない」などの通念の理不尽さと、
その理不尽さに気付かない人々。
さらには、男女間の前近代性。
もし、オティリアが妊娠を自覚しているとするなら、
彼は逃げたりしないと言っているにかかわらず、
責任は女だけが背負いこんで
命をかけて中絶に臨まざるを得ない、
そんな男女の関係性。
政権のみならず、社会のありかた全体が
女性を抑圧し、
抑圧されながらもたくましく生きざるをえない
あの時代の女性たち。
いや、それはあの場所だけ、あの時代だけの話ではない。
ムンジウ監督が
1980年代を2000年代に描いた意味は、そこにあるのだろう。