歩いても 歩いても : 映画評論・批評
2008年6月24日更新
2008年6月28日よりシネカノン有楽町1丁目、アミューズCQN、新宿武蔵野館ほかにてロードショー
家族の一日を描いて女の一生を語る、奥の深い映画
チェーホフは、「おはよう、今日も天気がいいわ」というセリフで愛を告白すると、何かの本で読んだことがある。優れた戯曲は、何気ない日常会話でその人間の過去や性格、現在の心境までも表現してしまうということなのだろうが、この映画もまさしくその範疇に入る作品だ。何か事件が起こるわけでも、ドラマティックな展開になるわけでもない。初老の両親の家に、息子と娘がそれぞれの家族を連れて里帰りする。その夏の一日を描いただけなのに、セリフの隙間からこの家族が抱えてきた葛藤や感情のもつれがすべて浮かび上がってくる。
目で見せるのは今日一日のディテールだが、そのディテールの積み重ねが指し示すのは、目に見えない存在、15年前に海で溺れた少年を助けて死んだ長男なのだ。跡取りを失った父親の失意、未だに兄へのコンプレックスを克服できない弟。そして、息子の死の痛手が辛辣な言動になって出てしまう母親。不在の存在がこの家族の葛藤の因になっていることが顕わになっていく経緯は、周到に仕組まれた推理ドラマを見るよう。是枝監督の人間観察眼に参った。毒のある言葉をにこやかに口にする母親(樹木希林が好演)を見ていると、彼女は夫に愛されない屈辱を呑み込んで生きてきたのだと思わずにはいられない。家族の一日を描いて女の一生を語る。奥の深い映画だ。
(森山京子)